040 「だめ……かしら?」
「わからないわ」
紗雪が言った。
今度は、さっきよりも少し、強い語調だった。
「天沢さんの言ってることは、理解できた。納得もしてる。ただ……」
「ただ……なんだ?」
紗雪が、侑弦の方を見た。
けれど少しのあいだ、なにかを言い淀んでいるかのように、視線を行き来させていた。
待つべきだろう、と思った。
今はなにも言わず、彼女が自分から口を開くのを、ただ待つ方がいい。
「納得してるのに……なんだか、モヤモヤするわ」
棚に置かれた洋菓子の箱を横目で見て、紗雪がぽつりとそうこぼした。
モヤモヤ。口の中で繰り返してみると、実に紗雪らしくない響きだ。
それにきっと、本人もそう思っているんじゃないか。
「理由は、わからない。でも……スッキリしない。天沢さんの言っていたように、桜花に、変わってほしいって頼む。そうするべきだっていうのは、わかるわ。だけど……なぜだか、そうしようって思えない」
「……そうか」
「ええ。桜花のこと、嫌いになったわけじゃない。私にとっては、まだ大切な友達。なのに……」
紗雪の口からは、もう続きは出なかった。
代わりに、ひと際重いため息をついて、紗雪は棚に並んだ箱のひとつに触れた。
商品に惹かれたのではなく、あくまで、ただなにかに触りたい、そう思っているようだった。
彼女は、わからない、と言った。
けれど侑弦には、紗雪のモヤモヤの正体が、もうわかっていた。
シンプルで、簡単なことだ。
ただ、紗雪がわからないというのも、無理もないような気がした。
だってそれは、彼女にはあまり、似合わない感情だから。
「怒ってるんじゃないのか」
侑弦は言った。
紗雪がゆっくりとこちらを向いて、目を見開いた。
「自分は悪くないのに、一方的に逆恨みされて、冷たくされて、その事情も話してくれなかった。たしかに、悲しいよ。でもそれだけじゃなく……ムカつくだろ」
「……」
「そんな大事なことなら、話せよ、って。言ってくれよ、って、思って当然だ。だってお前にとって、佐野は親友なんだから」
もし、美湖に同じことをされたら。
侑弦だって、きっと怒るだろう。
問題が深刻であればあるほど、相手が大切であればあるほど。
黙っていられるのは、いやだ。
「この状況で、お前の気持ちがスッキリしてたら、それこそおかしい。でも、佐野と仲直りしたい気持ちだって、嘘じゃないはずだ。だったら、どっちもぶつけていいと思う。でなきゃ、お前ばっかり損だし、気の毒だよ」
「……朝霞くん」
「喧嘩って意外と、悲しかったとか、怒ってるとか、真っ直ぐ伝えるのも効果的なんだぞ。むしろそれを言わないと、けっこう拗れるし、自分もつらいままだ。実際、佐野が自分の気持ちを言ってくれなかったからこそ、今回だってこうなってるわけだからな」
「……」
「だから、言ってやれ。お前がどれだけ怒ってて、悲しいのか。でも、どれだけ佐野のことが好きで、仲直りしたいと思ってるのか。全部言って、スッキリして、それでもダメなら、また美湖に相談すればいい。あいつはああ見えて、けっこう厳しいけど。頼まれれば、無碍にはしない。それどころか、きっと全力で助けてくれる。どこまでも、ひたすらに、いいやつだからさ」
そこまで言って、侑弦はふぅっと吐息をついた。
思っていたより、長台詞になってしまった。それに、変に熱も入っていた気がする。
若干、というかかなり、恥ずかしかった。
「……まあ、なんだ? つまり――」
「朝霞くん」
侑弦が続けようとした、照れ隠しのセリフ。
それを遮って、紗雪が名前を呼んだ。
明後日の方向に投げていた視線を、思わず正面に戻す。
紗雪は、こちらをまっすぐに見つめていた。
瞳がかすかに幕を張って、少しだけ揺れているように見えた。
――これは。
「あなた、すごいわ」
表情を変えず、紗雪が言った。
予想した言葉とは、ずいぶん違っていた。
「え……えっと……」
「天沢さんは、もちろんすごい。だけど、あなたも同じくらい、すごいと思う。いろいろあったせいで、頭の中が散らかって、ずっと思考がぼやけてた。けど、おかげでスッキリしたわ。私、怒ってたのね」
「……綿矢」
「ありがとう、朝霞くん。天沢さんに相談したのに……なんだか、あなたにまで助けられてばっかりね」
そう言って、紗雪は眉を下げて笑った。
困ったような、けれど、ホッとしたような笑顔だった。
初めてだ、と思った。
彼女がこんな表情をするのは、初めて見る。
それが妙に嬉しくて、安心してしまって、侑弦も自然、顔が綻んだ。
普段は、ひたすら落ち着いていて、大人っぽい女の子なのに。
こうして感情が動くと、ぎこちなくて、まるで子どもみたいだ。
「ねえ、朝霞くん」
「ん……なんだ?」
「あなたの言う通り……私、桜花に話すわ。自分の気持ち。どう思ってて、そのうえで、どうしたいのか。どうしてほしいのか。ただ――」
紗雪が一度言葉を切って、少しだけ顔を伏せた。
それから、こちらの様子を窺うように、上目遣いで侑弦を見た。
また、今までの彼女にはなかった仕草と、表情だった。
「どう伝えるのがいいか……なんて言えばいいのか、わからないの。こういうことは、今までしてこなかったから……」
「……そうか」
「ええ。だから……その、一緒に」
紗雪が、身体をわずかに、左右に揺らした。
背中で踊る長い黒髪が、なんだか作り物みたいに、綺麗に見えた。
「一緒に……考えてもらえたら嬉しいわ。さっきのケーキでよかったら、お礼にご馳走する。イートインがあったから、そこで……。だめ……かしら?」
「えっ……」
思わず、声が漏れた。
紗雪が横目で、先ほどまでいたケーキの店の方を、チラリと見る。
頬が、耳が、わずかに赤いのがわかった。
「……」
いろいろなことが、頭を巡る。
美湖に悪いだろうか。
けれど、それも的外れな心配だろうか。
ここで紗雪の頼みを断って、彼女は大丈夫だろうか。
自分は、あとで後悔しないだろうか。
そしてなにより――美湖なら、どうするだろうか。
「……わかった」
「っ……じ、じゃあ!」
「ああ……いいよ、少しなら。役に立てるかどうかは、わからないけどさ」
「……ありがとう。ううん、心強いわ」
紗雪は、心底ホッとしたように、コクンと頷いた。
その様子を見ると、やはり、引き受けるべきだった、と思う。
ただ、そうはいっても――。
「ふたつ、条件がある」
「え……ええ。なに?」
紗雪が、また不安げに首を傾げた。
これだけは、譲れない。譲りたくない、と思うことが、ふたつだけ。
「まず、ケーキは自分で買う。お礼はいらない。それと」
「……」
「ちょっと、美湖に電話させてくれ」
侑弦は言った。
それから、紗雪の返事を待たずに、スマホを出して背を向けた。
きっと、許してくれるだろう。
困っている相手は、見過ごさないのが美湖だ。
自分と同じことをする恋人を、咎めたりはしない。
だだ、それでも美湖には、伝えておかなければ、と思った。
「…………いや、出ろよ」
どうやら、タイミングが悪いらしかった。




