012 「いじわるしないで、ね?」
「……ふたりっきりですね」
耳元で、美湖が囁いた。
「な、なんだよ……」
「んー……なんでもないけどさぁ」
「……わかってるだろうけど、ハメははずすなよ? 一応学校だぞ」
「えー、いじわる。誰も来ないってば」
美湖はますます甘い声で言って、なにかをねだるように身体を揺らした。
これは、マズい。
部屋に自分たちしかいないとわかったときから、なんとなくいやな予感はしていた。
なにせ、最近の美湖は少し、タガが緩くなってきているふしがある。
人前でのスキンシップも増えているし、人目がなければなおさらだ。
それがいやだとは、もちろん思わない。
自分を好いてくれているのを実感できて、嬉しい気持ちが大きい。
けれど、今はダメだ。
普通に考えて、「誰も来ない」という保証がない。
こんなところを見られたら、デメリットこそあれど、いいことはひとつもないのだから。
「こら、美湖……」
「んー。でもちゅーしたい」
「ばっ……あほ。やめろ」
「なーんーでー」
ダメだ、すっかりベタベタモードになっている。
どちらかの部屋にいるときには、美湖はこうなることも多い。
だが、学校ではほとんど初めてだ。
いや、過去にも一度あった気がするが、そんなことは今はどうでもいい。
「ねぇ……今日また手紙もらっちゃったよ、私」
侑弦の頬に自分のそれをくっつけて、美湖が言った。
漏れた吐息が鼻にかかって、侑弦の鼓動が少し早まる。
「……なんの」
「呼び出し。明日、校舎裏に来て欲しいんだって。二年の安田くん」
「そ……そうか」
昨日の電話の件といい、ますます美湖の人気は加速しているらしい。
頭のメモに『安田くん』を追加しつつ、侑弦は少し身を引いた。
「ね、あんまりいじわるだと、ほかの人に取られちゃうかもよ? いいの?」
「……よくない。けど、ここじゃダメだ。わかるだろ」
「ふふっ、そっかそっか。よくないかぁ」
「……そろそろ離れろよ」
「だーめ。ねぇ、みんな私のどこが、そんなにいいんだろ? ねー、侑弦、わかる?」
妙に芝居がかった調子で、美湖が言う。
明らかに、とぼけている。
美湖にはよくあることだが、今は特にタチが悪い。
「……自分が一番わかってるだろ」
「わかんないもーん。たとえば? ねえたとえば?」
こいつ……。
心の中で、侑弦は大きなため息をつく。
こうなると、美湖はなかなか引き下がらない。
おそらく、付き合ってやらなければ満足しないだろう。
もしかすると、前回部屋に行ったときの不完全燃焼を、まだ引きずっているのかもしれない。
「……」
もう一度、ため息をつく。
聞こえているだろうに、美湖は微動だにしなかった。
ああ、もう、仕方ない。
「……底なしにいいやつだろ、美湖は」
「えー、それだけ?」
「あとは……かわいいよ」
「どれくらい?」
「っ……めちゃくちゃ、かわいいって……」
「世界で何番目?」
「……」
「ゆーづーるっ。何番目?」
ギュッと抱きしめる力を強めて、美湖はセリフの語尾を跳ねるように上げた。
完全に、調子に乗っている。
本気半分、からかい半分なのだろうけれど、まるで自制心がない。
「……世界一かわいいよ。当たり前だろ」
「えー。んふふ、ホント?」
「ホントだって……だから、もうよせ」
「やだーーーっ。ね、ちゅーしよ?」
また身体を揺らして、美湖が駄々をこねるように言う。
ああ、もうっ……。
心の中で頭を抱えながら、侑弦は考える。
べつに、このモードに付き合うの自体は、いやじゃない。
ただ問題は、あまり調子を合わせすぎると、侑弦の方まで、歯止めが効かなくなりそうだということで……。
「一回だけ。ねぇ、侑弦はしたくないの?」
「……」
「できるじゃん。あ、じゃあ鍵かける? そしたら安全だし」
「鍵あるのかよ……って、それだけが問題じゃなくてな……」
「なにが問題? 生徒会室でキスしちゃダメって、校則に書いてる?」
「たぶん近いことは書いてるだろ……」
と、しばらく受け流していたが、美湖にはもはや、諦める気配がない。
そしてさらに厄介なことに、侑弦は、すでに感じ始めていた。
自分の心が、折れそうになっていることに。
「……」
侑弦だって、美湖が好きだ。二年以上経つ今でも気持ちは冷めないし、それどころか、ますます強まっている。
当然、いわゆる『イチャイチャ』したい欲求だって、少なからずある。
けれどだからこそ、『一回だけ』で終わるとは思えない。
鍵をかければ、たしかにリスクは下がるだろう。
だがそうしてしまえば、逆に自制心が弱まってしまう。
タガが、はずれやすくなる。
その危機感が、美湖にはないのだろうか……。
「侑弦ー。いじわるしないで、ね? お願い」
美湖は侑弦の横に位置を変えて、頬を指でつついてきた。
こっちを向け、という意味だろう。
侑弦は首を少しだけ、回しすぎない程度に回して、美湖を見た。
彼女の瞳がかすかに、揺れているのがわかる。
頬がほんのり赤くて、ぷるんと潤いのあるくちびるが、わずかに開かれていて――。
「ん」
そのくちびるが、緩くすぼむ。
自分の心臓が、早鐘を打つのが聞こえる。
美湖。
名前を呼びそうになって、でも、なぜか声が詰まって。
吸い寄せられるような、不思議なちからを感じる気がして。
意識がぼぉっとして、自分の鼓動と美湖の吐息しか、聞こえなくなって。
そして――。
“コンコン”
ノックの、音がした。




