死期を悟る者
小高い丘の上、集合住宅6階の、小さなベランダ。
柵の間から街を見渡すと、今日もあちらこちらの家屋からゆらゆらと煙がたちのぼっているのが見えた。
その一つ一つが、風に流されることもなく、ただ静かにまっすぐと天と屋根とを繋いでいる。
物心ついたときからずっと、私は毎日その煙を眺めて過ごしてきた。
たとえ雨の日であっても変わらず煙はたちのぼり、多い日には街全体が煙って見えたこともあった。それは酷く暑い夏の日で、あちこちでサイレンの音が鳴ったり止んだりを繰り返していたのを記憶している。
記録的な暑さで、たくさんのヒトが亡くなったのだということは後で知ったことだ。
煙がたちのぼった家には次の日、死人が出る。
そのことにいつ頃気付いたのかはもう憶えていない。もしかしたら最初から知っていたのかもしれない。
煙が、今日はいつもより少なかった。
だからだろうか、私はふと一軒の家に目をとめた。他と同じように煙をたちのぼらせていたその家だが、私には見覚えがあった。いつだったか、そこに住んでいるお婆さんに可愛がられたことを思い出した。
気付かぬうちに庭に迷い込んだ私の頭を撫で、食べ物をくれたお婆さんは、当時でも結構な高齢に見えた。あれからどれほどの月日が流れたのだろうか。
次の日その家の様子を見に行くと、おそらく親族と思われるヒトが数人、忙しそうにしていた。小さな子供はまだよく分かってない様子で、家の中や庭を走り回っていた。それよりも、少し大きい子が、白い木でできた箱の前で泣いているのが窓から見えた。
私は家の門の前に立ち、ただその様子を眺めていたが、やがて走り回っていた小さな子がこちらに気付いた様子でかけよって来た。私は背を向け、逃げるようにその家をあとにした。
その帰り、私は自分の家からたちのぼる煙を見た。
理由は分からないが、その煙は自分のものだということが理解できた。
私はその日、家に帰らなかった。
最期を迎えるときは一人がいいと決めていたからだ。
◇◆◇◆◇
「おかあさーん、ミオがまだ帰ってこないよ!」
もうすぐ10才になる瑞穂は、一週間ほど前から飼い猫のミオが帰ってこないことを気にしている。
今までも家を空けることはあったのだが、いつもは3日もすれば帰ってきていた。
これはもしかすると、と幸恵は思った。
「瑞穂、もしかしたらもうミオは帰ってこないかもしれない」
「えっ!なんで、おかあさん」
薄々覚悟はしていたものの、いざとなるとどうやって娘に説明したものか幸恵は思い悩んだ。
娘が生まれる以前から飼っていたミオは、もう結構な歳になっていたはずだ。
昔から猫は、死期が近づくと姿を消すと言われている。最近では、体調が悪くなると養生のため安全な場所で身を隠し、そのまま死んでしまうから見つけられないとも聞くが、どちらにせよ高齢だったミオが突然いなくなったのだ。
おそらくすでにこの世からも姿を消しているだろう。
幸恵はベランダに出ると、手すりの上、組んだ腕の上に頭をもたせて街を見渡した。
「……黙って居なくなるなんて水くさいよ」
「え、なに?おかあさん」
いつの間にか瑞穂もベランダに出てきていた。
「ううん、なんでもない。そういえば、ミオもよくこのベランダから外見てたね」
一体何を見ていたのだろう。
毎日眺めていたこの街のどこかに、ミオは眠っているのだろうか。
――だとしたら、どうか安らかに……。
幸恵は、街に向かって小さく、そう呟いた。