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ム限焉転  作者:
第二章 可能性の世界
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第七十二話 色を変えた歌声

「ご入場――クロード閣下!」


 響き渡る式典官の声。


 その声を聞いて、群がる貴族たちは

 フィリップに群がって来た貴族の比ではない。


 誰も彼もが、マルタン家のおこぼれに預かろうと

 覚えめでたく思う貴族たちで溢れかえっていた。


 それは、先の大臣たちも同じであった。

 が、立場上はクロードがそれに気づき、

 さきにクロードからの挨拶となっていた。


 そして、粗方国の要人とのあいさつも終わる頃、

 思い出したように、フィリップの所にやってきた。


「やぁ、フィリップ。わたしの可愛い弟よ。息災であったか?」


 クロードの声は、場の支配者のように響き渡った。


 彼の言葉には余裕があり、

 周囲の貴族たちがそれを聞くたびに

 微笑を浮かべ、頷いている。


 その光景は、フィリップにとってまさに皮肉の象徴だった。


「兄上もご息災でなによりです」


 フィリップは苦笑を浮かべ、

 言葉を返した。


 だが、その笑顔の裏では、

 胸の中で強烈な敗北感が渦巻いていた。


 クロードの堂々たる態度と

 貴族たちの注目を浴びる姿。


 フィリップは、その瞬間、

 自分が無力な存在に感じられた。


 兄が現れる前までは、

 フィリップもまた周囲の注目を集めていたのに、


 今や彼の存在は霞んでしまったようだった。


「まるで、舞台の主役が交代したようだ…」


 そう思わずにはいられなかった。

 自分がどれだけ努力しても、

 クロードの一歩先に進むことはできないという現実が、

 冷たく彼の心に突き刺さった。


 兄の余裕に満ちた態度と、

 自分が感じる焦りと苛立ち。


 その差が、より一層彼を追い詰める。


 クロードは貴族たちの間を悠然と歩き、

 まるでこの場が彼のものであるかのように振る舞っている。


 それに対して、フィリップはその後ろに影を落とし、

 周囲の目が自分から離れていくのを感じた。


「また、兄上に…」


 心の中でその言葉が繰り返された。


 クロードの余裕ある振る舞いは、

 自分が持っていたもの全てを奪い去るかのようだった。


 フィリップはその場に立ちながら、

 どうしようもない敗北感に包まれた。


 笑顔を保つのに精一杯だったが、

 その内心は、兄に飲み込まれそうな恐怖と悔しさで満ちていた。


 今のフィリップは堂々と国の要人たちと渡り合っていた、

 自信に満ちた顔は、もはやどこにもない。


 クロードが現れたことで、

 彼はまるで太陽の前に隠れる月のように、

 その存在が霞んでしまったのだ。


 今、そこにいるのは、頑張ってステップを踏み、

 辛くても笑顔を絶やさず、不器用でもお客の期待に応え、

 なんとか精一杯頑張っていた、地下アイドルが、

 本当のアイドルの出現で全てを持って行かれてしまった…


 残されたのは、そんな残酷で無残な姿だけだった…

 

 そんな無力感が彼を覆っていた。


 それでも、フィリップは顔を上げ、

 自分を保とうとしていた。


 彼はその場に踏みとどまり、堂々と振る舞おうとしていたが、

 内心ではそれがどれほど虚しい行為であるかを痛感していた。


 これが初めてではない…

 何度も繰り返されてきたことだったからだ。


 そのフィリップの様子を遠巻きに見ていたセラは、

 彼の痛々しい表情に心を痛め、

 何か助けたいという衝動に駆られた。


 だが、同時に、自分に何ができるのかという無力感も押し寄せてきた。


「何もしない方がいいのかもしれない…」


 少し前のオレなら間違いなくそうしただろう…


 けど…少しフィリップのことが分かってきた。


 あの若さで、有力貴族として堂々と振る舞い、

 国の中枢貴族とも渡り合うのをオレは目の当たりにした。


 そこに至るまでにどれほどの時間と労力を費やしたものか、

 どれだけのものを犠牲にしてきたのか…


 その重みが、痛いほど分かってしまったんだ。


 それを知ってしまった今、

 オレは無視することなんてできない。


 それに、アルならこういう時は…きっと…


 そして、決断する。


 あんなに落ち込んでいるフィリップを、

 セラは今まで見たことがなかった。

 特に、あれほど自信家で傲慢だったフィリップが、

 今や自分と同じように弱々しい存在に感じられた。

 だからこそ、セラは何かをせずにはいられなかった。


 しかし、言葉だけでは今のフィリップには届かないだろう。

 彼を励ますために何か特別なことが必要だと感じた。


 セラは昔はよくアルに歌を聴かせていたのを思い出した。

 一度、誰もいない場所で歌っていただけなのに

 アルがそれを聞いて、「おまえ、歌上手いな」と

 褒めてくれた。

 それが嬉しくて、つい頼まれると歌っていたな…


 でも、警備隊に来てからは一度も歌ったことはなかった。

 忙しさもあったが、周りに迷惑がかかると思い、

 ハミングだけだった。


 だから、自信はない…

 だけど…今だけは…


 そう思い、セラは静かに近づき、彼の前に立った。


 彼は反応を示さなかったが、セラは意を決して口を開き、

 彼のために一曲、優しく歌い始めた。


 その歌は、シエル村でよく歌われていた素朴な歌だった。


 空を自由に飛んでいた天使が、傷つき、

 翼をもがれ、地に落ちたとしても、

 再び立ち上がり、諦めることなく飛び立つ。

 そして、夜の闇を越えて光を掴み取り、

 閉ざされた時を解き放つ――そんな力強い歌だった。


 彼女の澄んだ声が静かに響き渡り、

 その旋律は心の奥底に届くような、

 どこか懐かしい響きがあった。


 その瞬間、フィリップの頭の中で

 リーゼルの姿がよみがえった。


 かつて、彼に優しい歌声を聞かせてくれた彼女のことを…


 その記憶が鮮やかに蘇り、

 彼は無意識のうちにセラを見つめ、

 ぽつりと言葉を漏らした。


「…リーゼル…?」


 セラは一瞬驚いた表情を見せたが、

 すぐにそのまま歌い続けた。


 彼女はフィリップが今、

 自分ではなく別の存在を見ていることに気づいたが、

 それでも歌を止めることはなかった。


 フィリップの目に涙が浮かび、

 彼の心の中で何かがほどけるような感覚があった。


 彼はリーゼルの面影をセラに重ねてしまったが、

 それが彼にとっては救いであった。


 そして、始めは話し声でガヤガヤしていたが、

 セラは歌いだすと、一人また一人とその歌に耳を傾けだした。


 気づけば、誰ひとり喋らず、

 その歌を聞き入っていた。


 そして、セラはフィリップの為に歌っていた歌が終わると、

 数秒の静寂の後、まるでその歌の余韻を味わうように、

 誰もが言葉を失っていた。


 だが、やがて貴族たちの間から拍手が巻き起こり、

 その音は次第に大きくなっていった。


 フィリップはぼんやりとその光景を見つめながら、

 心の中で何かが解放されるような感覚を味わっていた。


「…ちっ」


 クロードは拍手が起こる中、

 微妙に不快そうな表情を一瞬だけ見せたが、

 すぐに冷静さを取り戻し、

 貴族たちの手前、にこやかに笑いながらセラに視線を向けた。


「いやはや、これは驚いたな。君の歌声には誰もが魅了されたようだね。まさに素晴らしいパフォーマンスだった。あなたはどこの令嬢であろうか?  是非、今後懇意にしたいものだね」


 予想外のクロードの登場にセラは焦ってしまった…


「あの…えと…その…」


 そんな様子を見たフィリップが自分を取り戻し、

 セラを庇うように説明をしだした。


「クロード兄様。彼女は警備隊の二等隊士です。今宵は普段の厚労を労い、わたくしが招待したのです」


 と、普段通りのフィリップの姿がそこにはあった。

 それが、セラにはすごく心強く感じてしまった。


「なんとっ!  庶民であったか…この美しく、美声の持ち主が庶民だとは、恐れ入った」


 クロードの表情は変わらず微笑んでいるが、

 眼は蔑むような眼をしていた。


「庶民であれ、素晴らしい者は星の数ほど存在するのです。夢々、お忘れなきよう、お願い申し上げます」


 フィリップはセラの行為に対して、

 自分なりの矜持をクロードに見せるのだった。


「そうであるな。そなたの申す通りだ。これから肝に命じておこう。そして、今宵、素晴らしき歌声を披露された歌姫にも賞賛を」


 クロードは言葉を選びながらセラを称賛したが、

 その声には少しだけ硬さがあった。


 彼の心中では、フィリップよりも注目を集める

 セラに対する複雑な感情が湧き上がっていたが、

 周囲の期待に応えるため、褒める以外の選択肢はなかった。


 周囲の貴族たちも、セラの歌声に感銘を受けたのか、

 彼女に対する軽い驚きの声が聞こえてきた。


「まさか、あれほどの歌声を持つとは…」


「庶民だからといって侮れないものだな」


「彼女の存在感、見過ごしてはいけないかもしれない」


 そんな貴族たちの言葉を聞き、

 クロードはフィリップに対して再び、口を開く。


「今宵は、フィリップが素晴らしい余興を用意してくれた。心よりの感謝を」


「こちらこそ、兄上のご威光あればこその催しでありますれば」


 そう言うと、お互い軽く礼を交わし去っていくのだった。


 クロードの姿が遠くで、

 また貴族と言葉を交わす姿を見てフィリップが安堵のため息を放った。


「ふぅ…」


 そして、フィリップは心の中で複雑な感情を抱えながら、

 兄がこれまで常に自分の一歩先に立ち、

 圧倒的な存在感で周囲を支配してきたことに悔しさを感じていたフィリップ。


 しかし今、セラが放った歌声は、

 彼をほんの少しだけ解放してくれたかのように思えた。


「リーゼル…」


 彼は心の中で何度もその名を繰り返しながら、

 目の前のセラを見つめた。


 彼女の姿にリーゼルの面影を重ねたことに、

 彼自身戸惑いもあったが、

 それでも心が少しだけ軽くなっているのを感じた。


 クロードの褒め言葉に対して、

 恐縮しかできなかったセラは、

 歌い終えた後も平静を装っていたが、

 内心ではフィリップがどう感じたのかが気になっていた。


 フィリップは、セラの歌が終わった瞬間から

 周囲の拍手を聞きながら、自分が次に何をすべきかを考えていた。


 彼女の歌声が心に響いたことは事実だが、

 それ以上に彼女の勇気と優しさが自分を支えてくれたことを感じた。


「セラ…」


 フィリップは、兄の影に飲み込まれそうになりながらも、

 自分を取り戻しつつある感覚を覚えていた。


 そして、フィリップの中に恋愛とは違った別の感情が生まれたのだった。

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