第三十二話 アルの魔術
…ああ、短い転生人生だったな…
こんなことなら、もっと思い切って行動すればよかった。
たとえば、クロミアさんが水浴びしているときに、もう少し…
いや、いやらしい意味じゃなくてさ、
もっとその魅力をしっかり見ておけばよかった…
あの下着姿だった時も…
いや、いやらしい意味じゃなくてさ。
結局、何もできなかったなぁ…。
魔獣が現れて大変だったけど、
皆でわいわい騒ぐのは案外楽しかった。
こんなこと、もっと大事にすればよかったな。
アンネ叔母さん、正直うざかったけど…
それでも、オレやセネカには優しくしてくれたっけ。
オレには家族もいたし、ちゃんと幸せだったんだな…
それに、アレンとも、本当の親子になれたと思ったのに…
もう終わりなのか?
なんだよ、もっと続けたかったのに。
母さんにも迷惑かけたな…
少しドジで一度言いだしたら引っ込めない頑固な母さん。
そして、いつも、昼食や夕食の手伝いをしてて
作ったものが減るとオレがつまみ食い
したのじゃないかと思われてたな…
それ全部クロミアさんなのに…
…ま、いいんだけどね。
夕飯で酔っ払うと手に負えない母さん…
最近、小言が多くなってきた母さん…
最近、太ったんじゃないかと心配していた母さん…
…あれ? なんかオレ母さんの悪いところしか
覚えてない?
…ま、いいんだけどね。
それでも、皆のことに気を使って
優しくしてくれてた母さん…
先に死んで…ほんとにごめん…
いやな奴も多かったけど、セネカやセラ、
その友達と知り合えて…
さぁ、これからだと思ったのにな。
ほんと、残念だよ。
魔法も少しは上達してきたし、
セネカに魔術も教えてもらって、
まだまだこれからだったのに…
もう、終わりなのか…
ごめん、父さん…ごめん、母さん…ごめん、セネカ…
………
…そうだ! セネカだ!
あのまま泣かせたまま終わってしまった…
今となっては、どうにもならない…
でも、もし戻れるなら、セネカがオレに謝ってくるくらい、
オレが謝り倒してみせるのに…
すごく、後味が悪いよ。
セネカは父親がいないことを気にしてない様子だったけど
そんなことはないはずだ。
気にしてないんじゃない。
気にしないようにしてるだ…きっと…
そうやって、自分に言い聞かせ、
慣らせてただけじゃないのか?
それを、オレは…
できることなら、オレがセネカに悪態つく前に戻りたい…
そして、今度はもっと上手くやるんだ…
けど、もうどうにもならない…
ほんと、ごめん、セネカ…。
オレはもう、これで死んで、新しい世界に…
…新しい世界なんてあるのか?
あるわけがない…
今回が特殊なだけだったんだ。
だから…
あぁ…死にたくなかったな…。
ジャイアントさらば…
………
「…ル、アル…アル」
誰だよ…名前を読んでるのは…
もう、オレは死んだんだ…
少しは静かにしてくれよ…
…ったく
「…アル…アル」
………
…んっとに、うっるさいな!
なんだってんだ!
一体っ!
「アルッ!!」
母さんの声が一際耳に届いた時、オレは目を覚ました!
「はっ!!」
…あ、あれ?
オレは周りを何が起きているのか確かめるために
周りの様子を伺ってみた。
すると、オレがグロイエルに殺される前の状況とまったく同じだった。
そして、オレの危険具合も同じであった…
前方に視線をやると、さっきと同じように目の前に不気味な影が揺れていた。
グロイエルだ…
その異様な姿が視界に飛び込んできた。
タコのような頭部が異常に膨らみ、
爬虫類のような冷たい目がこちらを見据えている。
周りは一瞬、闇に包まれているかのように感じる。
「な…何が…?」
目が覚めたはずなのに、
頭がぼんやりとしている。
何が起こっているのか、どうして自分がここにいるのかまるで分からない。
ただ一つ確かなことがある――自分は、まだ生きている。
心臓が早鐘のように打ち始め、息が詰まるほど緊張が高まる。
グロイエルの獰猛な唸り声が耳を突き刺すように響き渡り、
足元の地面が微かに震えている。
冷たい汗が背中を伝い、指先がかすかに震えているのが分かる。
「どうして…まだ、オレは…」
手を握りしめると、かすかな痛みが指先から伝わってくる。
それが自分の存在を、ここにいるという現実を確認させる。
グロイエルの巨大な足がアルに向かって迫ってくる。
瞬間、アルの視界が不気味な歪みで満たされる。
景色がねじれ、まるで何重にも折りたたまれた紙のように揺らめいている。
周囲の音が一瞬で遠ざかり、
次の瞬間には耳をつんざくような轟音となって返ってくる。
「何だ…これ…?」
アルは目を凝らし、目の前の異常を見つめる。
すると、景色が歪み、現実が分裂しているように見える。
目の前には何重もの事象が重なり合い、絡み合いながら、
奇妙な形で同時に存在しているようだ。
草木が突然枯れては再び芽吹き、
空の色が赤く染まったかと思えば、
次の瞬間には青に戻る。
周囲の岩が砕け散り、そしてまた瞬時に元通りになる。
――まるで時間が乱れ、現実が捻じれているようだ。
「これって…何が…?」
グロイエルの攻撃が彼を捉えようとした瞬間、
アルの視界の中で複数の異なる結果が瞬時に現れる。
彼がその場で倒れ、血を流している自分の姿。
次の瞬間には、別の自分がグロイエルの足をかわし、
すぐ脇に転がっている光景。
そして、別の世界では、周囲に何も存在せず、
ただ静寂が支配する真っ暗な空間が広がっている。
「一体、どれが…現実なんだ…?」
彼の脳裏に浮かぶのは、その全てが「現実」であり、
同時に「可能性」であるという感覚。
彼は今、無意識のうちに「生き延びる」
という選択をし続けているのだ。
「まさか…これは…」
視界が再び揺らぎ、足元の地面が揺れる。
アルは何度も死を経験したように感じているが、
その全ての瞬間において「生還」を選び取っている。
彼の意思ではなく、それはまるでその事象を捻じ曲げ、
全てが重なりあっている状態から
最も彼を生き延びさせる結果を無意識に選び取っているようだった。
アルは一歩、足を踏み出す。
すると、足元の地面が微妙に揺れ動き、
周囲の景色が一層歪み始める。
彼の頭の中で、様々な選択肢が一瞬にして駆け巡り、
その全てが目の前で重なり合っているように見える。
――ある世界では、彼は逃げ出している。
――別の世界では、彼は立ち向かっている。
――さらに別の世界では、彼は既に倒れている。
その全ての「可能性」が瞬時に収束し、
彼は気づかぬうちに「生き延びる」道を選び取っている。
それは意識の上ではなく、無意識の深層に刻まれた本能によるものだ。
「そうか…オレは…」
景色が再び捻じれ、グロイエルの咆哮が耳を劈く。
彼は何度も死に直面し、その都度「生きる」を選んできたのだ。
周囲の歪んだ世界が、彼の選択によって形を変え続けている。
「これが…セネカの本に書いてあった量子魔術…?」
次の瞬間、グロイエルの爪が彼の頭上を掠める。
しかし、アルはその場で咄嗟に身を伏せ、
何とかその一撃をかわした。
その瞬間、景色の歪みが一瞬だけ静止し、
そして再び狂ったように変わり始める。
言うなれば、「不確定性魔術…」
言い換えれば、「未来の可能性を曖昧にし、特定の結果だけを選ぶ魔術」
アルの頭の中で確信が芽生え始める――これは無意識の選択。
彼が生きることを望む限り、この異常な魔術は彼を守り続けるのだ。