第二十一話 閉じた紐の魔術
オレは広場に戻り、アンネ叔母さんの手伝いをしていた。
「ほら、アル坊! これをロサの所に持っていって、これはバレリの所に持って行っておくれ!」
「あ、はい」
パタパタと忙しく動きながら、
オレはセネカのさっきの言葉について考えていた…
―――
「なんで、そんな言葉を知っているんだ!?」
オレは驚きで声を荒げてしまった。
その言葉は、この世界の人間が知るはずのないものだったからだ。
セネカはその勢いに驚き、少し怯えたように答えた。
「え…えと、家にあった古い魔術の書物に書いてあったんだ…」
セネカは怯えながらも、
アルの問いかけに誠実に答えようと努めていた。
彼女の声は少し震えていたが、
真摯な態度が感じられた。
「それで…その…『シュレディンガーの猫』っていう言葉も、その本に書いてあったんだ。でも、どういう猫なのか、何のことなのか、全然わからなくて…」
セネカは困惑した表情で続けた。
「だから、もし、アルくんが知っていたら教えて欲しいなと思った…だけなんだ…」
セネカは不安そうにオレの目を見つめ、
次の言葉を待っている。
ああ…オレが驚いて大声出したから、
セネカを怯えさせてしまった…
なんか…ごめん、セネカ。
しかし…オレの言動はどう見ても、
知ってますよ的な反応してるよな…
それで、知らないなんて言えない…
シュレディンガーの猫っていうのは量子力学の考え方で、
猫が箱の中にいるとき、
その猫は生きている状態と死んでいる状態が重なっている。
そして、箱を開けて初めて猫の状態が決まる。
なんて、本当の意味を説明して…理解してくれるのか?
それ以前に…どこから説明すればいいんだ?
物質の成り立ちからか?
「………」
無理だ…
どんだけ時間かかるんだよ…
しかも、理解してもらえるか怪しい…
てか、無理だ…
しかも、なんでそんな事知ってるのかと聞かれても説明できない…
どうするか…?
なにかでっち上げよう…うん
オレは一瞬戸惑ったが、
すぐに思いついた説明でセネカの質問に応じることにした。
「えっと…『シュレディンガーの猫』っていうのは、ナバル族の古い言語で『双子の猫』って意味なんだ…って、クロミアさんから前に聞いたことがあって…多分、その本で使われていたのもそういう意味だったんだと思うよ…あはは」
うん…
すごく、うさんくさい…
でも、あながち間違いではない…と思う。
セネカは一瞬キョトンとした顔をしたが、
オレの言葉を素直に受け取ったようだった。
「双子の猫…そうなんだ。お母さんにその話をしてみようかな。でも、アルくんが教えてくれて、ちょっと安心したよ。ありがとう!」
セネカは安堵の表情を浮かべ、オレに微笑んだ。
「うっ…」
なんか…素直に信じてくれた…
オレの良心がすこぶる痛んでしまう…
たびたび、ごめん…ほんと、ごめん…セネカ…
彼女はオレが言ったことを完全に信じているようだった。
その純粋な笑顔にオレの罪悪感が募ってしまった…
そして、それを払拭するために話を続けた。
「そ、そうだ。なぁ、他にその書物には何か書かれていたかな?」
「え、えと…そうだね…重ね…がどうとか…」
重ね合わせかな?
「最後の文には…えーと…ふるまいを魔術なら…実現可能とか、なんとか…なんのことだろうね?」
「………」
オレはそのセネカの話を聞いて、
何かに気付きかけ、少し恐怖感を覚えた。
…もし、オレの想像通りなら、
魔術で量子の振る舞いを実現出来ると言うことか?
トンネル効果、エンタングルメント、
量子テレポーテーション、そして重ね合わせ…これに加えて、
事象の収束や不確定性原理も…?
…もしこれらが魔術で本当に可能になるなら、
この世界の常識が一変するかもしれない。
その可能性に思いを巡らせると、
胸の奥から恐怖が湧き上がってきた。
まるで見えない何かが、
確実に迫ってきているような感覚に囚われる。
「………」
…だが、セネカが言う古い文献に記されているということは、
誰かがその量子魔術?
を使用し、観測したと言うことか?
…そんな危険な実験をよく試そうなんて考えたな。
世界への干渉とかなかったのだろうか?
例えば、それを使ったことによって自分自身が不確定な存在に…
………
「…ルくん…アルくん。アルくんってば」
「ん…あ…はい、元気です」
「そうじゃないよ…ボーとしてたから、どうしたのかと…ね」
どうやら、オレがずっと考え込んでいたのが心配だったようだ。
「ごめん、ちょっと考え事してた。心配かけたね。じゃあ、行こうか、セネカ」
「うん、そろそろアンネ叔母さんが怒ってるかもだしね…あはは」
「だな。よしっ! じゃあ、すこし遅れた分を頑張って取り戻した上に重ねて、叔母さんをギャフンって言わせてやるか!」
「あはは。なにそれ、でも頑張ろうね」
そう言いながら、オレたちは叔母さんの所に戻るのだった。
しかし、オレには拭いようのない気味の悪い感覚が沸いたままだった…
―――
アルが気味の悪さを感じていた頃、
シエル村の北側の森深くで
「黎明の守護騎士団」と魔獣の戦いが始まっていた。
「三番隊、右へ回り込め! 四番隊は左へ! 五番隊は後方を遮断しろ!」
黎明の守護騎士団は五人一組で、
一から六番隊に分かれている。
各番隊の編成は、盾2人と槍3人、
または盾2人と剣3人のどちらかだ。
そして、六番隊だけは回復役2人と魔法士3人で編成され、
後方から魔法援護や回復、付与魔法を担当する部隊だ。
一番隊と二番隊が前線に立ち、
盾を構えて魔獣の攻撃を受け止める。
黒い狼の鋭い牙が盾に深く食い込むが、
訓練された騎士たちは怯むことなく、
堅実に防御を続ける。
その間に、槍を持つ隊員たちが、
隙を見て狼の急所を突くために狙いを定める。
「三番隊、狼の側面を狙え! 四番隊は左へ回り込んで、逃走経路を断て!」
三番隊は素早く右側から回り込み、
狼の視界の外から攻撃を仕掛ける。
四番隊は、狼が逃げ出さないように左側から包囲し、
確実に追い詰める。
五番隊は後方で待機し、狼が突進してくる可能性に備えながら、
退路を断ち切る役割を担う。
「意外とやるじゃないか。あの貴族のボンボン様は。なぁ、アレン?」
アレンとデュランは、
戦場の後方から少し距離を置いて見守っていた。
デュランは黎明の騎士団が予想以上に有能であることに感心し、素直に賞賛した。
魔獣は以前アルが戦った時よりも一回り大きく、
攻撃性も増している。
今では、あの時のアルでも押さえ込むことは不可能だろう。
アレンやデュランですら、
一人では対処できないほどの強敵だった。
人海戦術ではあるが、
クラウスはその魔獣を討伐寸前まで追い込んでいた。
だが、それが面白くないアレンは、
不満げに口を開いた。
「…人数が多いんだ。あれくらいはやってもらわないと困る。オレたちなら、オマエとオーレリアン、それにクロミアがいれば、あんな魔獣、簡単に倒せてたろ?」
「まぁ、そうかもしれないが、人数が増えれば指揮の能力が問われる。それを、あのボンボンは的確に判断し、指示しているんだ。そこは認めてやらないとな」
「…ふん、わかったよ。オレたちにはできないことをやっているアイツはすごい! これでいいか?」
「まったく…子供かよ。お、そろそろ止めみたいだぞ」
「六番隊、魔法で足止めだ! 氷結魔法で動きを封じろ!」
六番隊の魔法士が後方から氷結魔法を発動し、
狼の足元を凍りつかせる。
黒い狼は足を滑らせ、動きが鈍る。
その隙に一番隊の槍兵が一斉に突きかかり、
狼の弱点である心臓を貫こうとする。
「今だ! 一番隊、全力で突け!」
「うおぉぉぉぉ!」
ザシュッ!!
―――ガァァァ!!
一番隊の隊員たちは、魔力を付与された槍を使い、
狼の鋼のように硬い皮膚を突き破る。
狼の断末魔の咆哮が森に響き渡り、
その場に崩れ落ちる。
魔法士が魔力を付与した一番隊の槍が魔獣を貫き、
断末魔の咆哮を上げた魔獣は、その場に崩れ落ちた。
すると、魔獣の額の魔石が紫色に変わり、
魔獣の本体がその中に吸い込まれていく。
しばしの静寂の後、クラウスが紫色の魔石を拾い上げ、天高く掲げた。
すると、黎明の守護騎士団が一斉に勝利の歓声を上げ、その勝利を祝った。
そして、クラウスはアレンの方を一瞬見て、
「フッ」と勝ち誇ったかのように嘲笑する笑みを浮かべた。
「あの野郎! こっちを見て嘲笑いやがった! いけ好かないヤツだ!」
「落ち着けって…まったく。まぁ、これで一段落ついたんだ。それはそれで喜ぼうじゃないか」
「けっ…わぁ~ったよ…」
その後、黎明の守護騎士団が撤退の準備を始めていた時…
暗闇から、人影のようなものが揺らめきながら近づいてきた。
だが、近づくにつれて、
その異形な姿に誰もが人ではないことに気づく。
異常な風貌に全員の体が恐怖で震え上がった。
頭はタコのようで、目は爬虫類の瞳があり、
体は猿のような毛で覆われ、
足はヤギのような形をした魔物が姿を現した。
「グロイエル…」
アレンは固唾を呑んで呟いた。
それは、魔物の中でも普通はこの村に存在しないはずの、クラスAAA級の魔物だった…