道
2023夏のホラー参加作品
「道、というものは、祖先たちが用意してくれたものを子孫である我々が使っているにすぎない」
「教授!今はそんな話をしている時じゃないんです!
もうガソリンもなくなります!やっぱりもう一度車をUターンさせて」
「いいや、どこに向かおうが同じだ」
フロントガラスに叩きつけるような雨が降り続いている。
閃光の中、必死の形相で叫ぶ俺の顔がバックミラーに鬼のように映った。
一瞬の間もなく、車全体を揺らす落雷の轟音。
修士1年目の俺と椙村教授は、嵐の中にいる。
現地調査で訪れた村から大学に帰る途中の山道で、突如として嵐に襲われた。
出発した時は、快晴の空で、雲ひとつなかったというのに。
また近くに雷が落ち、光と衝撃音が同時にきた。
俺はハンドルを握りしめて、残り少ないガソリンの表示を睨みつけた。
***
大学の長い夏休み前。
担当教官だった椙村教授と雑談をしていると、話のついでのようにフィールドワークについてこないかと誘われた。
向かう先は教授が院生時代から通い詰めている村で、これまで一度も学生を同行させることはなかった。
30年前。
若かりし院生時代の教授が何度も足を運び、その村で貴重な史料や伝承を村人から得た。それを元に、教授は博士論文を書き上げ、大学院卒業と同時に准教授のポストを手に入れたことは有名な話だ。
その後も村での調査を続け、センセーショナルな論文をいくつも発表してきた。そして今では、誰もが認める研究者として、世界中に名を馳せている。
そんな椙村教授から指名をされ、誰も連れて行くことのなかった村に同行することを許された。これは特別に俺が見込まれたのだと思ってもいいだろう。
天にも昇る気持ちで、俺は快諾した。
「君も連れて行きたい人がいれば、誘うといい」
しかし、即決で村に行くと答えた俺に、なんでもないことのように教授は言った。
見込まれたと思ったのは、俺の思い込みだったのかと、酢を飲まされたような気持ちになった。
だが、俺はすぐに気を持ち直し、誰も誘わないことに決めた。唯一の同行者となる機会をあえて失くす必要もない。
今はただの学生のひとりであっても、村での調査で役立つことをアピールすれば取り立ててもらえるかもしれない。
「いえ、他の奴らは、少し分野が違うので、やめておきます」
「そうか。君がいいと言うなら、それで構わないが」
少しだけ思案するように、瞬きを繰り返した後、教授はコーヒーを淹れるため席を立った。
「行きの車の運転は君に任せよう。帰りは私が運転する」
「いえ、帰りもできますよ」
体力だけは自信がある。力仕事で役に立つことを示さなければ。
すると教授はコーヒーメーカーからカップに注いでいる手を止めて、首を振った。
「いや。帰りは私が運転することになるだろう。
30年前に海堂先生と初めて村に行った時も、そうだった」
「あの海堂名誉教授も一緒だったんですか?確か、先月お亡くなりになったと……」
「うん。私は海堂先生の教え子だったからね。村に行こうと最初に誘ってくださったのも、海堂先生だ。
色々と手を出していたら、私に手柄を譲ってくださって。亡くなった今でも、海堂先生の恩を受けてばかりいるよ」
静かな笑みを浮かべながら、教授は俺にコーヒーの入ったマグカップを差し出した。
***
夏休みに入り、青空に入道雲が聳え立つ午後。
俺は椙村教授と共に村に向かった。
その村は高速道路からも鉄道路線からも遠く離れた山の中にあり、ひどく交通の便が悪い場所にあった。
そういった所であるからこそ、村には遠い昔からの慣習が残り、現代にまで伝わっているのだが。
「……ずいぶん細い道が続くんですね」
「昨年の台風の大雨で、土砂崩れが起きてね。以前まで使っていた道が通れなくなったんだ。それでも舗装されているだけ立派なものだよ」
「まぁ、砂利道よりは断然いいですけど」
木々の生い茂る山道を最初のうちは対向車を警戒して走っていたが、一時間以上経っても、車一台やってこなかった。
すっかり気が緩み始めた俺は、運転をしながら、隣に座る椙村教授に視線を向ける。後部座席にはまだ荷物をおけるスペースがあるのに、風呂敷で包まれた桐箱を膝の上にのせて、両手で大事そうに支えて座っている。
何か割れ物でも入っているのかと聞いたが、椙村教授は口元だけに笑みを浮かべて首を横に振った。
「割れ物ではないが、大事なものなんだ。それでも、最後は村に置いて帰ることになるんだが。
その方が村でも喜ぶだろう」
「保冷剤とか買ってきますか?」
メロンか何かだろうかと思った俺は、気を利かせて尋ねた。
「いや、充分に冷やしてきたから、大丈夫だ」
そう言って、教授は静かに風呂敷越しに桐箱を撫でた。
***
延々と続く細い山道を車で走り続け、夕方になるころに村に着いた。
村の入り口には、杉の巨木が道の両側に聳え立っていた。どうやらそこが村の入り口のようだった。
「ゆっくりと通って、中に入って欲しい。村では見慣れない車だろうから、すぐに私が来たと分かるだろう」
ほうっと安心したように、椙村教授が息を吐いた。そんなに俺の運転は危なかっただろうか。
失点をおかしたように思ったが、椙村教授は俺を気にすることもなく、道の奥にある雑木林の方から走り寄ってくる村人に向かって、屈託のない笑顔を向けて手を振っていた。
***
「もう来ないかと思っていたよ」
俺と椙村教授は、迎えに出てきた村人の案内で村長の前へと通された。
村長の屋敷は平屋の大きな家で、障子戸を開け放った縁側には、蚊取り線香の煙が細く流れていた。
床の間を背にして、真っ白い髭をたくわえた小柄な老人が座っていた。
その老人が開口一番に、そんなことを言うと、椙村教授はずっと胸元に抱えていた桐箱を畳の上に置いた。
「西木村長にはお知らせしませんでしたが、海堂先生が先月亡くなられました。
亡くなる直前まで、去年の台風で、道が壊れたことを気にされていました」
「そうか、海堂が……。
行きはそれでいいとして、帰りはどうするんだ」
「この学生を連れてきました。親もすでに無く、本人は研究で身を立てたいと思っているそうです」
村長はそれを聞くと、感情の読み取れない老いた目を俺に向け、口を固く結んだ。
カナカナカナ、と、庭から聞こえてきた。
斜めにさしこむ夕陽が、廊下側に座る俺の左側を照らし、痛みを覚えた。
入道雲は見えたが、ここまで雨に降られることもなかったことに、ふと気がついた。
沈黙に耐えきれず、無意識のうちに左腕をさすると、それが合図だったように、村長が咳払いをした。
「学生さん、何もない辺鄙な村だが、楽しんでいってくれ。
研究で身を立てたいということだが、こういったものにも興味はあるだろうか」
そして、床の間の端に置いていた和綴の本を一冊、俺の方に差し出した。
俺は椙村教授に目でお伺いをたてると、小さな頷きが返ってきたので、その和綴の本に手を伸ばした。
古い紙のそれは、良質な和紙で作られており、墨で書かれた文字は昨日書かれたかのようにはっきりと読み取ることができた。
しかし、くずし字で書かれた仮名文字の中に、時々記号のような文字が並んでいた。
どこかで見たことがあるようなそれに、俺は記憶を呼び覚まそうと目を閉じた。
「あ」
それは博物館で見た展示物にあった。
「椙村教授、これ、甲骨文字っていうものですか?」
たぶん、それだったと思う。解説ボートに拡大されたものが印刷されていて、子どものいたずら書きのような文字を見た記憶があった。
「そうだ。その本は江戸時代中期にはこの村の寺にあったらしい。画像を今年の春に送ってもらっていたが、甲骨文字で間違いがない」
「……え、でも、俺が見たのは中国の」
「そうだ。甲骨文字は1899年に中国で発見されるまで、誰にも古代文字と認識されていなかった。その文字が日本の江戸時代に書物に書かれていたとしたら」
背中に鳥肌が立った。
「そ、そんなの歴史的な大発見じゃないですか……!!」
中国の古代文字が、日本に伝来していて、それがこの村に残っていたなんて。
むしろ、この村のある日本側から、文字が伝わっていたとしたら。
「民俗学だけでなく、歴史学者にとっても垂涎ものだろう。甲骨文字の解読はすべて終わってはいない。
この本には甲骨文字の意味や使い方が書かれているようだ。送付してもらった画像で見ることができた部分だけではあるが」
重々しく椙村教授が言うことで、俺は俄然やる気に満ちた。
ここで得た史料で論文を書き上げれば、研究者としてどこかに職を得ることも夢ではない。
親がいない、天涯孤独の身であるからこそ、貧しくても自分の興味がある研究分野で生きいければいいと思っていると、あの時話の流れで椙村教授に話していてよかった。
もしかすると、俺の決意を知ったからこそ、その後すぐにこの村への調査に誘われたのかもしれない。
椙村教授も、海堂名誉教授にこの村に連れて来られたと言っていた。そうだ。海堂名誉教授が亡くなったばかりだ。
海堂名誉教授から受けた恩を返す意味で、学生のひとりである俺にこの貴重な史料を見せ、共同研究という形で大学に置いてくれるのかもしれない。
俺は予想を上回る史料の本を手に、興奮を抑えることもできなかった。
だから、この時、村長が俺の名前を聞かなかったことになんて、全く気がつかなかった。
***
村の滞在中、村長をはじめとして村の人たちは大変よくしてくれた。
甲骨文字の記された書物のほかに、海堂名誉教授や、椙村教授が論文で取り上げていた石碑や建物など、村にあるものを見たいというと、必ず誰かが一緒に来て道案内をして、説明までしてくれた。
毎日の食事でも見たことのない山菜や木の実があると、それが採れる場所まで案内してくれた。
学生さん、学生さんと、村人に呼ばれながら道を歩き、村を巡ることがこれほど楽しいとは思ってもみなかった。
椙村教授も村人たちの案内で寺の庫裡に行ったりと、俺とは別の行動をとっていたが、親切な村人たちのおかげで何も不自由することなく、現地調査をすることができた。
そういえば、椙村教授の日課が居合術の鍛錬であることを、俺はこの村に来て初めて知った。
あれは滞在して三日目の朝。
俺が泊めてもらっている家は養豚業をしており、毎朝の小屋の掃除や餌やりを手伝いに行った時だった。
豚小屋の奥にある竹林から、刀を持った椙村教授が出てくるのが見えた。教授は作業服姿の俺には気がつかず、背筋をまっすぐに伸ばした姿勢で、すたすたと遠ざかっていった。
「あの、椙村教授、朝から竹林で何してるんですかね」
汚れた藁を俺がフォークでかき集めていると、それを一輪車に軽やかに積み重ねていく宿泊先の田村さんが答えた。
「椙村先生は、居合を学生の頃からやってるんだろ?あそこは村長の家の竹林だから、鍛錬に使わせてもらっているって聞いたけど」
「へえ〜。そんな特技というか、趣味というか、そういうものがあったなんて知らなかったです」
「学生さんも何かやってたりするのかい?」
考えてみたけれど、本を読むことくらいしか思い浮かばなかったので、「研究者の名前ならたくさん言えることですかね」と、へらへらと笑いながら答えた。
「やる気になれば、ここにいる豚の名前を全部覚えられますよ」
「ここの豚に名前なんかつけてないよ。育ったら売っちゃうんだから。余計な情けがうつらないように名前なんかつけない、つけない」
「ああ、そうか、そう言われてみればそうですよね」
なんとなく無趣味無芸な自分を誤魔化そうと、適当に言ってみた結果がなんとなく寂しいものになってしまった。椙村教授の前だけでなく、俺は色々なところで空回りをしているなと、小さくため息をついた。
***
初日に見せてもらった和綴の本の仮名文字部分を読み、そこに記された意味と村の中にある神社の境内にある石碑との関連について調べてまとめているうちに、あっという間に十日間が過ぎていた。
「そろそろ、大学に戻ろうと思うんだが、君はどうする?」
「えーと、まだ帰りたくないですけど、俺もバイトとかそろそろ出勤しないといけないので……」
「そうか。この村はいい所だから、将来的に住むことも考えてみたらどうだろう」
椙村教授と寺の庭を眺めながら、のんびりと出されたお茶を飲んでいると、そんなことを言われた。
ここに住む、か。
確かに調べれば調べるほど、興味深い伝承や史跡が出てくる。
村人たちの家はそれぞれに古く、辺鄙な山生活のせいか、異常なまでに物の保管状態が良い。
見せてもらいたいと言っても、他所の人には嫌だと断られることも実は多かった。それならここに住んで、この村の住人になれば。
「いいですねぇ。ここに住んでしまいたいです」
「大学院の方は一年くらい休学するなら、手続きをしてあげよう」
「一年くらいならこのまま住んでもいいですかねぇ」
そして、椙村教授でもまだ見せて貰っていない貴重な史料を手に入れて、論文を発表して、引手あまたに。
そんな甘い夢を見て、でれでれと顔を緩ませていると、ちょうど庭の奥から寺の和尚様がやってきたのが見えたので、慌てて表情を引き締めた。
「……住んでみたいですけど、やっぱりお金のこととか考えると、難しいですね」
はははっと乾いた笑いをして、俺はお茶を啜った。
「院生の時に同じことを私も考えたよ。結局は金が無いことに気がついて、村から帰ったけれど」
ふふふと柔らかく笑う椙村教授を見て、俺と同じ歳の頃に同じことを夢想したのかと思うと、少しだけ嬉しくなった。
そして、そのまま翌日に帰ることを決めて、椙村教授と別れて寺を出たのだった。
***
翌朝は、真っ青な空だけの快晴だった。
「今日も暑くなるねぇ。学生さん、それじゃあね」
「はい、田村家の皆さんにはお世話になりました。
ありがとうございました」
見送りに来てくれた村人たちに挨拶をして、運転席に乗り込んだ。
「あれ?学生さんが運転して帰るの?」
「はい、そうですけど」
「……まぁ、気をつけてな」
「はい、お世話になりました」
なんとなく歯切れの悪い口調で、田村さんが見送ったことに、俺は気がつかなかった。
椙村教授にも運転を代わると村を出る前に言われたが、俺は断った。
興味深い村に連れてきてくれた椙村教授に、少しでもお世話になったお礼をしておきたかったのだ。
「それじゃあ、無理な時は代わるから。その時は素直に運転席から降りるように」
「はい、分かりました」
バックミラーを見ながら窓から手を振って、俺は村の入り口にある杉の巨木で挟まれた道を通り抜けた。
杉の緑の葉の隙間からは、青い空が見えて、色のコントラストが綺麗だなと思った。
***
そして、村を出て数分。
突然空が曇ったかと思うと、雷鳴が轟き、滝のような雨が降り始めた。
「変な天気ですね。さっきまで晴れていたのに。
山の天気は変わりやすいって本当ですね」
ワイパーのスピードを上げて、俺はできるだけ平静を装って椙村教授に話しかけた。
行きと違って、膝の上には袋に入った刀が置かれていた。
帰りの車の後部座席には、村で採れた野菜や花がたくさん積み込まれていて、刀が置けるだけのスペースが残っていないのだ。
その山のような土産は、椙村教授への村人たちの親愛の表れなのだろう。ここまで村人に親しまれているからこそ、他の研究者の追随を許さないほどの研究ができるのだろうか。
不思議なことに、椙村教授があの村を取り上げた論文を公表して30年が経っているのに、他の研究者はあの村に来ることはないようだった。
村人たちに話を聞いていても、椙村教授以外の大学の先生であったり、研究者であったり、誰ひとりとして見たことがないようだった。
村人たちは、それが当然のことと思っているのか、不思議に思う俺を見ては困ったように微笑んでいた。
俺がこの村に残る伝承や慣習がどれほど研究者たちにとって珍しいものであるか、口を酸っぱくして語っても、「でも来ないから」と言って話を切り上げて終わるのだった。
確かに対向車が来たらどうやってすれ違えばいいのか分からないほどの細い山道だったが、来られないほどの道でもなかった。
実際に、俺は椙村教授と一緒に村へ辿り着いている。
それなのに、なぜ誰も来ないのだろう?
俺がそんなことを考えていると、目の前に雷が落ち、木が倒れ、道を塞がれてしまった。
「えぇ?!」
鼓膜が破れたかと思うほどの音に、俺はすっかり気が動転してしまった。
「き、教授!き、木が倒れた!道、道が塞がったので、どけます!」
「いや、それならこれ以上は村から離れない方がいい。戻ってくれ」
「はい!」
俺は道幅いっぱいを使って、車をUターンさせると、出てきたばかりの村に向かって走られた。
しかし。
「……ここ、通りましたっけ?」
見覚えのない場所に出てしまっている。
雨で視界が悪いが、この道は来た時には通っていない。
森の緑が雨雲で暗く見える。
時々光る雷で、鮮やかな緑が目に焼き付くが、やはりここは知らない道だ。
まっすぐに走れば、村に戻るはずだと、必死にアクセルを踏み続けるが、雷に照らされた光景は見たことのない場所ばかりだった。
「椙村教授、道は一本道でしたよね?なんだか知らない道を走っているみたいで……村に向かう道はここで合ってますよね?」
「行きと帰りは、別の道ということになっているようだ。
行きの道は通れても、帰りの道はまだできていない」
「何を言っているんですか?行きも帰りも同じ道じゃないですか」
フロントガラスには、雹のように重い音を立てながら雨がぶつかり続けている。
「違うんだ。
運転を代わるから、車から降りなさい」
「何言ってるんですか。こんな土砂降りの中、教授に運転させられません!俺に任せてください」
だんだんと恐怖を感じ始めていたが、一本道で迷うはずがないと頭の中に残っている理性的な判断に従い、俺は村に向かうはずの道を走り続けた。
しかし。
「……ここ、さっき通ったような」
だんだんと目が慣れてくると、走り続けながら見えてくる景色が同じものであることに気がついた。
一本道で、Uターンは一回だけ。それなのに、同じところをぐるぐると回っている。
帰り道を見失ったことに気がつき、一瞬で背中が凍った。
その時、ずっと黙ったままだった椙村教授が、話し出した。
「道、というものは、祖先たちが用意してくれたものを子孫である我々が使っているにすぎない」
それは大学3年の時に受講した椙村教授の講義で聞いた内容と同じだった。
大学教授は変人ばかりだと思っていたが、まさか椙村教授までこの非常事態に滔々と講義の話でもするつもりなんだろうか。
「教授!今はそんな話をしている時じゃないんです!
もうガソリンもなくなります!やっぱりもう一度車をUターンさせて」
「いいや、どこに向かおうが同じだ」
閃光と衝撃音に耐えながら、俺は空になりそうなガソリンの表示をイライラとして睨みつけた。
視界の隅に。
狭い車内で、刀の鍔を親指で持ち上げる椙村教授の姿が、雷の光に照らし出された。
それは、映画のワンシーンのように、現実感は、無かった。
だが。
「車を停めて降りるんだ。
やはり、このまま帰れるわけが無かったんだ」
「す、椙村教授?」
「君は、道という文字の由来を覚えているか?確か、講義では雑談のように話したと思うんだが」
道。
確か、それは。
「祓い清められたところの、ことで」
「そう。今の我々が使う地図にある道とは、そもそもの捉え方が違う。
祖先が祓い清めた道を子孫が通れる状態にしてこそ、通行可能な道であり、その道を元にして地図が出来上がっていく」
一体、椙村教授は、何を言おうとしているんだろうか。
俺は大雨が降り続く嵐の中、誰も通らない舗装された山道に車を停車させた。
車の屋根を殴打するように雨が鳴る。
「舗装された道も、砂利道も、整備された道としては、祓い清められているとも考えられる。
しかし、あの村は積み重ねてきた年月の桁が違う。小さな村を守り続けるために、まじないを繰り返してきた。
話を戻そう。
道を祓い清めるのは、なぜか分かるか?」
まるでここが椙村教授の研究室であるかのように、いつも通りの穏やかな声で、俺に語りかけてきた。
「他の氏族のいる土地には、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすから……」
「そう。今のこの嵐のように、ね」
「でも、来る時は大丈夫でした!雨も降らなくて、天気も悪くならなか」
「祓い清める方法は?
道という文字、そのままだが」
低い声で問いかけてきた椙村教授の手が、刀を抜くように持ち上げて見えた。
「く、首を手に持って、祓い清めるんです」
「そう。その通りのことをしたんだ。
村とはなんの縁戚関係のない、海堂先生の首をずっと私が手に持っていた」
あ。
風呂敷きに包まれた、桐箱。
メロンが入っていると思っていたアレは、海堂先生の首?
「ひ、ひいぃぃ!!」
精一杯に椙村教授から距離をとろうと、背中を運転席の扉に押し付ける。
シートベルトを外して、外に逃げなければ。
そう思うのに、指が、足が、動かない。
雨音にかき消されないはっきりとした声で、椙村教授は話し続けた。
「30年前は、海堂先生が用意してくれた。
そもそもの始まりは、戦時中に不時着した敵兵の生首を持っていたら、この村に辿りついたという海堂先生の兄の経験談によるものだ。
そこにはあり得ないほどの古代から残る習慣や記録があった。
研究者として、手も出さずに忘れていくことは困難だった」
気がつけば、椙村教授は自身のシートベルトを外していた。
雷鳴が轟く。
「行きと帰りは別の道となるらしく、呪力で祓い清めるためには、2人分の首が必要だった。
もちろん、村人のは使えないし、使えたとしても村人に殺されて終わりだ。
我々が知っている以上に、彼らは呪力を行使することに躊躇いがない。君の見えていないところには、たくさんの古代から伝わるまじないが施された跡があったんだよ」
淡々と説明をする椙村教授が、うっそりと微笑んだ。
「我々も村に行って帰るための道が必要になった。
ありがたいことに、一度祓い清めた道は、そのまま同じ人間ならば使い続けることができた。だから、私と海堂先生は、あの村に通い続けることができたんだよ。
首を用意していない研究者たちは、村に辿り着くことすら、できないからね」
風が急に強くなった。
近くにある木々が揺れて、背中に当てている運転席のドアを打ち破る勢いで叩いている。
「このままだと、君も私も死ぬ。
だが、私は手に入れた史料を持ち帰り、研究を続けなければならない。
あの甲骨文字の謎に対して、海堂先生も大変興味を持たれていた。
だから、去年の台風で道が壊れてしまっても、もう一度あの村に行きたいと言っていた。
それこそ、私に自分の首を託すほどにね。そんな海堂先生の遺志を、私は継がなければならない。
けれど、君は親も恋人もいない、天涯孤独の身だ。
そして、研究に心身ともに捧げていると、誰もが知っている」
椙村教授は、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、最大限まで音量を上げて、真ん中の部分をタップした。
『いいですねぇ。ここに住んでしまいたいです』
『大学院の方は一年くらい休学するなら、手続きをしてあげよう』
『一年くらいならこのまま住んでもいいですかねぇ』
流れ出たのは、昨日の教授との会話。
俺は生唾を飲み込んだ。
「これを聞いたら、誰もが自分の意思で帰ってこないと思うだろう。
そして1年後には誰からも忘れられて、村に移住した人間になる。
ああ、もちろん村人たちは、私が何をしていて、これからするつもりのことも全部承知している。
その証拠に、君の名前は誰も知らない。死んでしまう人間の名前を覚えても、仕方ないだろ?」
ひっ、と、喉の奥で悲鳴は消えた。
助手席のドアを開けて、雨の吹き荒ぶ中、椙村教授は刀を鞘におさめると、閃光のごとく、刀を抜き放ち、俺の首を斬った。
***
雨の降り止んだ山道の端に、たくさんの花束と野菜が供え物のように並べられていた。
その奥には、掘り返したばかりの土の山があった。
そして、首無しの男の死体があることを村人たちは誰もが知りながら、草が生えて、山と同化していくままに放置し続けて、いつしか忘れたのだった。
参考文献
白川静『常用字解 第二版』、p529