2 もの凄いスパイかもしれん
夕方になり、彼女が作った夕食にありついた。毒を入れられないよう料理を学びたいと隣で監視したが、結局怪しい動きは見られなかった。
野菜と羊のスープと、パン。質素でごく普通の味だった。彼女いわくかなり美味しくできたというので、恐らく材料は品種改良などがされていないものを使ったのだろう。このご時世にはむしろ、珍しいものだ。
夜の明かりは暖炉の火と、壁掛けの蝋燭の火くらいだ。まさか、本当に中世に飛んだわけでもあるまい。そんな冗談のような考えが浮かんだときのこと。
ソフィアが入浴するというので、何か暗器などを持ち歩いていないか、脱衣所に侵入して調べた。すると風呂場から熱気と、シャワーの音が聞こえてきたのだ。
中世にそんな物があるわけがない。どんなに古いスタイルを貫いていても、風呂ばかりは給湯器が必要なようだな。怪しいものも無いので戻ろう。
そう思い、部屋に戻ってこの先どうするか考えていた。
窓から見える景色は森と、遠くに見える何件かの古めかしい家と、丘ばかりだった。いわゆる限界集落というものだろう。日本にはそうしたものが多いと聞く。だが……。
状況を知れば知るほど、むしろ謎が深まって行く。いったい俺は、どうしたのだろう。
「えっと、いいかな……」
背後から声がして、振り返ると、全裸のソフィアがいた。
びしょ濡れのまま、胸と股間を手で隠している。目を反らして背を向けた。
「ど、どうしたんですか」
「や、ちがうのっ。タオルを忘れちゃって。そこに……」
目の前の棚に、いくつかのタオルが仕舞われた棚があった。なぜこれを風呂場に置いていないのだ。
……いや、これも作戦のひとつか。誘惑一つにずいぶんと凝るな。
タオルを取り、顔を背けながら渡そうとすると、ソフィアは耳を疑うようなことを言った。
「あ、あっ、あの、拭いてくれませんか……」
「え」
行動が無茶苦茶だ。相手の求めるリアクションを返そうとしている俺を弄んでいるのではないか。しかしそんなことでへこたれる俺でもない。
「――わ、分かりました……」
彼女の背後に回り込み、タオルで背中を拭いてやる。擦れるたび、彼女はびくりと身体を震わせた。
「えと、……これはその……。タオルを取ろうとしたら、見えちゃうじゃないですか……。だから……」
本当にそうなら愚鈍にすぎる。本当に頭が悪いと思わせる作戦だと言うならば、彼女は下手なスパイよりよほど嘘が上手い。
長期的に嘘を持続させることは効果的だが、かなり精神力を磨耗することでもある。並大抵の人間にはできない芸当だ。
タオルをばさりと広げ、彼女の首元へ掛け、身体の全面を隠した。
「だったらほら、こうすれば問題解決ですよ」
「あ……ほんとだ」
ソフィアは胸を隠していた手でタオルを受け取って、首だけ振り返ってこっちを見た。
「とっても、紳士的なんですね。アランさん」
「いえ……もっと早く気づくべきでした。あなたの背中を拭く前に」
そう言うと、ソフィアは俺の顔をじっと見て、ぼうっと見るように半目になった。口をすぼめた。
「どうしたんですか?」
「…………い、いえ。なんでもないですっ」
彼女は顔を真っ赤にして風呂場へと逃げ帰っていった。
…………。
…………情報源ではあるが、疲れるな。このタイプは。
風呂に入り、出て、用意されていた服に着替え、またリビングダイニングルームへ戻った。この家には鏡が無いようだ。ソフィアはどう髭を剃っているのだろう。
ソフィアは寝巻きで、亜麻のワンピースひとつだ。やはり胸に異常があり、亜麻にも関わらずニットのように胸全体にぴっちりと張り付いている。やはり、わざわざ胸元に袋を作ったのだろう。下着すら着ていないようで、乳房の先端が少し膨らんでいる。
そして、今度は尻にも異常が発生していた。少し食い込み、尻の上側の形がハッキリと浮き出ている。
誘惑されているのだろうか。だったらそれに答えるべきなのだろうが、違った場合、情報源を失うこととなる。
ここは鈍感なフリをして無視しておくか。
「ふあーあ……。眠いですねぇ……」
「寝ますか。ベッドはひとつのようですから、僕は椅子を使わさせていただきます」
「そのぅ……そのことなんですけど――」
バンッ。
静かすぎるこの部屋に、大きすぎるほどの音が鳴った。玄関扉だった。
振り返ると、絵に描いたような醜男が三人、押し掛けてきた。ボロボロの服と動物の毛皮、そして何より斧や曲剣という装備から、見るからに山賊だった。こいつらも白人か。
何かの悪い冗談のようだ。偏見をそのまま具現化したようなこの男たちも、この状況も。
「金を出しなぁ!」
「ひっ――!」
「な、なんだあんたら……!?」
ソフィアの反応に習い、俺も怯えて見せた。
しかし、山賊か。日本は意外と治安が悪いな。
「うへへ。いい女までいやがるじゃねえか、ここはよぉ」
「兄さん、でも男は邪魔ですよ」
三人の山賊が一斉に俺を見た。どうにも、こいつらも嘘をついていないようだな。ならば本物か。
相手には数の利がある。例え素人相手だろうと危険だ。
相手も人間である以上、考えて動くのだ。それを三人相手にするのは無謀。
「……け。どっか行けよ。命は、見逃してやる。その女を犯すのを見学したいならさせてやってもいいが?」
「あ、アランさん……」
後ろから手を握られる。
「み、見逃してくれるのか?」
「……え?」
俺とソフィアの様子を見て、山賊たちが一斉に笑った。
「ぐははっ! それでいい。命は大事だもんなぁ。気に入ったぜ」
「あ、ありがとう……」
「ほらとっとと行けっ!」
ソフィアの手を振り切り、真っ直ぐ出口へ向かう。
本当に見逃す気らしく、三人とも意識がソフィアへ向いている。
バカで助かるよ。
三人目とすれ違う瞬間、腰に差していた小さなナイフをスリ盗り、男に組み付いた。
左腕で後頭部を押し、右腕で胸の上部を押さえて顎を引かせ、首の斜め前に刃を当てた。そしてそしてそのまま斬る。
明るく真っ赤な動脈血が吹き出す。顎を引かせることで、頸動脈は首の横側から前側の浅い位置へ移動する。基本のテクニックだ。
運良く、男は血を止めようとして斧を取り落とした。
「……あ? な、え?」
ソフィアに注目していた四つの目がこっちを向く。手早く斧を拾い、怯えた顔を見せた。
「く――うわぁああっ」
踵を返して逃げ出す。一気に複数人と戦うのが無理な以上、ひとりひとり殺害するのがもっとも安全だ。
「お、追え! 殺せ!」
よし。一人はソフィアの見張りをし、もう一人は俺を殺しに来る。分断は成功。
玄関を抜ける際に扉を閉め、また振り返り、ナイフを地面に落として斧を頭上に構えた。
足音に合わせ、渾身の力で前方へ投げる。
「待ちやがゥヒッ」
扉が開いた瞬間に頭部へ命中し、刃が顔を半分にする。刺さりが甘く、致命傷にならなかった場合に備え、振り下ろしの動作でナイフを拾って腹を二回刺した。
肝臓を確実に損傷させる。ここは死にが遅いが、刺しやすく、痛みで動きを止められ、かつ大抵の者は血を止めようとパニックになりそのまま絶命する。
部屋へ戻り、三人目と対峙した。
「ひ――な、なんだお前」
「く、食らえぇっ!」
必死なフリをして、ナイフを振りかざす。左腕で首を庇ったのを確認してから、左脇に下から滑り込ませるようにナイフを突き立てた。ゴリ、とナイフの先端が骨に達する感触があった。それを目印に刃の先をずらして中身を斬る。
悪く思うなよ。彼女は貴重な情報源なんだ。
素早く抜き、反撃に備えて後ろへ下がる。勢い良く吹き出した動脈血を見るに、きちんと腋窩動脈を切れたようだ。
ナイフで斬る場所といえば首で、思わず守ってしまうところではある。しかしこの脇の前を通る太い動脈はあまり有名でないようで、とっさの防御でもここは無防備になりやすい。深い位置にある動脈でも、そうした隙を見つければ斬れるものだ。
数秒して、男は意識を失った。二人目も玄関で動かなくなっている。顔の血が止まっているので心臓が止まったのだろう。
「はぁ……はぁ……」
わざと息切れしながら、ソフィアを見た。
「ぼ、僕は……ごめんなさい。……騙すためとはいえ、貴女を……」
どうにか演技を貫いたが、さすがに……誤魔化すのは無理か。俺が殺し慣れすぎていると感付くだろう。
仕方ない。こいつはこのまま殺して、山賊の仕業に――。
彼女が、素手で突進してきて、抱き付いてくる。
「ひぐ……うわぁああんっ……!」
そしてそのまま、俺の胸元で泣き出した。
「わたし……本当に行っちゃうのかと思って……ぐすっ……ごめんなさい……!」
「……騙そうとした。僕のせいです。僕こそごめんなさい……」
頭を撫でで落ち着かせてやる。
本当に、騙されてくれて助かるよ。