47 キメラシャーク ~恐怖!自然派ママ人間!!~
さざ波の音。風が耳元で擦れる音。内陸の木々が鳴らす音。
それと、少女が浜辺で遊ぶ声や足音。それを座って聞いていた。
少し見て回り、ここが無人島らしいことが分かった。どうやら船から落ちた後に漂着したらしい。丸ごと一日気絶していたわけでないのなら、あれから一時間も経っていないだろう。
……漂着というか、あの少女に助けられたのかもしれない。地上では子ども相応の速さで走り回るだけだが――泳ぎの速度が半端ではない。
下手すれば、馬で走るような速度で縦横無尽に泳ぐ。その影は船の上から見たあの魚影によく似ていた。もしかしたら着いてきていたのはイルカではなく、彼女だったのかもしれない。そうだとすれば、少なくともただの人間ではない。
人間でなければ、なんなのか。
起きるなりあの無邪気な娘にベタベタと触られ、俺を指差して「トミ!」と呼んだ。次には自分を指差して「キミ!」と呼んだ。そのとき覗いた歯が、妙に鋭かった。それと、サメの生皮を服がわりに着ているようだ。かなり大雑把な加工で、短いシャツ型のトップスに、ミニスカート型のボトムス。狩ったサメの皮を服型に加工するなど面倒なことをする。
ある情報は、それくらいだ。何かが分かるとも思えない。そこは考えるだけ時間の無駄か。
どうにかしてこの無人島を脱出したいし、その手段も目の前にある。
だが、あまり言葉が通じない。それにここがどの位置かも分からず出れば、海に座礁するだろう。少なくとも近くの陸がどこなのかの情報は欲しい。
それと、あの子と意思疏通できるようにならないとな。
腰を上げると少女が嬉しそうに走ってきた。
「トミ! いく!」
「どこにだ」
「……?」
「……」
「…………??」
少女はひたすらに困った顔をした。
今のは……イントネーションの違いだろうか。「行く」と宣言したのではなく、「行く?」と聞いたのかもしれない。
背後の森を指差してみる。すると彼女はやっと分かったという顔で笑って、森の入り口まで走っていった。
「いく!」
……これは長丁場になりそうだな。
海へ振り返った。そこに船の影はない。
ステイシーは無事にたどり着けただろうか……。
アランさんは、無事でしょうか。
戻ってこなくなってからも、ずいぶんと長い間、待ちました。「ルイマスを迎えに行け」という言葉が最後。あれは『死亡ふらぐ』というものでしょう。
それでもじっと、じっと待ちます。
外では騒ぎがあったようですが、とにかく待ち続けます。そうして待ち続けて、船が到着し、みーがやっと部屋から持ち出されました。
どうやら鞄を持つのは、神父のようでした。アランさんの匂いがしますが、殺してはいないようです。
殺したときにつく匂いは、尋常ではないのですぐに分かります。
「ですから、私は悪魔の手先のみと戦います。あなたとは間違えても剣を交えるような真似はいたしませんよ」
「うるせえ。畜生。どうしてアランを殺しやがった」
「それも、もう何度も言ったでしょう。それに、海に落ちただけです。トドメを刺し損ねたのですよ」
海に落ちただけなら、生きてますね。みーとアランさんを出会わせるご都合主義原理主義の神です。きっと主人公補正を働かせて生かすでしょう。誰も目撃していない死人は大抵、生きています。
「ですから、まだ生きているかもしれませんよ? 帰りがけに海を眺めてみてはいかがでしょうか」
「ふざけんなっ!」
大きく揺れて落ちました。神父を殴ったのでしょうか。この声はアランさんを誘惑した方だと思いますが……。
「……言っておきますが、何をされたところでやり返しはしません。あなたもバルカン公国の方々と同じ、主の子なのですから」
「…………。とっとと消えやがれ、クソ野郎」
怒りに震える声を最後に、また揺れが始まります。
足音をじっと聞いて待ちます。木の床。石の道。土の地面。
喧騒が遠くなってどれぐらいでしょうか、唐突に鞄の口が開き、地面に放り出されました。
「さぁ、甦りなさい。死んでなどいないことは分かっている」
神父に連れ出されたとは面倒くさいですね。こういうのはやたら辛抱強くもあり、日が暮れようと待ち続けるでしょう。
仕方ないのでバラバラの身体を元に戻します。おおむねでも切断面を合わせておかないと合体の衝撃で数百めーとる飛び上がることもありますが、今回は無事でした。
「面倒くさいですね。プン」
「ふぅむ……バラバラになっても死なないとはどういうことだ」
「そっくりお返しします。死体を残したまま復活する異常性の自覚はありますか。ハテナ」
「主の奇跡であり、祝福。明確に違いがある」
「明確な境目などありませんよ。普遍は多数決で決まる概念。人間の定義と認知とさじ加減です。ならば少数派のゆーも、みーも、異常者でしかありません」
「天使と悪魔の違いも分からないのか」
「分かりませんね。存在するだけの人間に対し、干渉するだけの存在。何が違うんですか」
バラバラになる前から着ていた下着も脱ぎ捨て、鞄に仕舞います。裸を見せるのはイヤですが、下着に穴があくのもイヤなので。
「それで、どうしますか。飽きるまで殺すなら、どうぞ。シラー」
「……殺せはしないのだな。服を着なさい。方法なら、別に考える」
「そうですか」
下着をつけて、仕舞っていた服も着て、鞄を探ります。するとバルカン国の旅行者証明書が出てきました。アランさんが入れておいたものでしょう。
それを鞄に戻しながら、みーの様子を見続ける神父を睨み返します。こういうときこそ、表情が欲しいのですがね。
「アランさんを落としたのは、『ばるかん』の海域くらいでしょうか。ジトリ」
「知っていたか。あの周囲には島などない。通りかかるのは、他国の侵入を許さない見回り。まず生きておけはしない」
と、なると、アランさんは強制違法入国『るーと』突入ですね。
はーれむキモキモ太郎ですが、まぁちょっとだけ好きなので助けに行ってあげましょう。仕方ありませんね。 密入国して旅行者証明書を届けさえすれば、あとはきっとどうにかしてくれるでしょう。
鞄を持って木の影を見ます。木の高さと影の長さから、朝もしくは夕方手前と分かります。そのままじっと見つめ、木を中心に回っていく影の大きさを見ます。大きくなっていくので、今はアランさんがいなくなった次の日の夕方手前です。
同時に北も割り出します。これで向かう方角は決まりました。
「さて、みーは行きます。どうせ着いてくるのでしょうから言っておきますが、何をしても無駄ですよ。ドヤ」
「悪魔の話を信じるとでも?」
「信じるしかありません。みーはマジの不死なので、死にません。ゆーが思い付く程度のことはとっくに試しています」
指を立てて見せつけます。こうするのはもちろん、カッコいいからです。
「それに、みーがもし悪魔だとすれば――神の『らいばる』的な存在ということになります」
「好敵手? 敵と言いなさい」
「ゆーがそこまで気にする必要はありません。どちら道ゆーは蚊帳の外です。神と対等にやり合う悪魔に、天使とかいう下っぱが敵うわけないでしょう。ヤレヤレ」
「やれやれ……」
思わず腕を組んでうつ向いた。
「トミ! …………トミ!」
こうして何度も呼んでくる。呼んでくるなら、用がある。
だが……。
「……………………トミ!」
……用件を言うための言葉がない。
まるで、泣いて不満を示すことしかできない赤ん坊のようだ。
現実逃避のように考えていたのが、こうして何度かトミと呼ばれ、もしかしたら「トミー」のことなのかと思い至ったことだった。
するとキミはそのまま「君」で、この少女を呼ぶときに言っていた呼称なのだろう。
つまりエドが話していた、『トミーが出会ったサメ』というのは――。
「…………ん~…………トミ!」
――この少女のことなのだろう。
さてどうしたものか。そもそもほぼ言語を持たない少女とふたりきり。今までこんな仕事はなかった。
「なんだ」
「…………う~……」
何か伝えたげだが、やはり言葉が出てこない。
どうしたものか……と、立ち止まった。
すると彼女はパッと嬉しそうな顔をした。意味が通じたと思われたのか。
となると……立ち止まることが正解ということか?
おもむろに座り込んだ。
そう思う間もなく、シャーと音が鳴り響く。
「…………」
待ってて欲しいということだったらしい。まぁ、言語すらないのだからトイレの文化もないか。
ここで興奮するとか言い出さないあたり、うちのハーレムよりマシな気はする。そういうことをするのは……ビスコーサあたりだろう。
彼女はバッと立ち上がり、スッキリした顔で先を指差した。
「いく!」
用は済んだ。……その前に、言葉を教えてみるか。指差しの意味は分かっているようだから、これを利用していこう。
少女が作った水溜まりを指差す。
「トイレ」
「…………? ……トイレ。トイレ!」
頷く。それが肯定と伝わったかは分からないが、彼女には用を足すこと――あるいは小便自体――の言葉だと分かったことは確かだ。
次に少女を指差す。
「キミ」
彼女は勢いよく自分を指した。
「キミ!」
そして、俺自身を指差す。
「アラン」
彼女は自信なさげに俺を指した。
「アラン……? トミ……」
急に勢いを無くした手を掴み、人差し指をしっかりと俺に向けさせた。
「アラン」
「……アラン。アラン!」
よし。とりあえず物の名前を覚えさせて行こう。それを名詞、動詞と分けて理解できるならもっとらくだろうが、どうだろうか。
「アラン! アラン…………クマ!」
「ん? ……アラン」
「クマ!」
どうしたんだ急に。
クマ……熊じゃないなら何だ……くま……。
彼女は俺を指差している。名詞じゃなくて動詞か?
……いや。指先が少し、ずれてないか?
後ろを振り返った。
視界の一面が、毛皮だった。
「クソ……!?」
熊だ。熊が立ち上がって俺たちを見下ろしている。
立ち上がったなら――すでに戦闘体勢だ。
「クマ~っ!」
少女が無邪気に熊へ駆け寄った。
「おい、待……」
「――――ッダァアアアアアッシャラァアアイッ!!」
少女のものではない叫びが、どこからともなく響き渡る。
瞬間。湿った物の割れる音が凄まじい音量で響き渡る。
森中にこだまする叫びと骨の折れる音が収まるより早く、首が不自然に曲がった熊の死骸がひとつ出来上がった。
あまりにも一瞬過ぎて、何が起こったかが全くわからない。誰かが熊を仕留めた。それだけが事実だった。
「ひ……く……クマァ……」
あまりのできごとに、小さなサメが腰を抜かして見上げていた。その視線の先には――。
――筋肉質の、全裸の女がいた。
「大丈夫!? 怖かったね……」
「あ……あぅ……クマ……」
「もう、大丈夫よ。ここは危ないわ、早く文明のある場所へ帰りなさい?」
言いながら立ち上がり、俺を見つけ、目を見開いた。
そして――顔を真っ赤に染め上げた。
「きゃああああっ!?」
局部を隠しながらしゃがみこむ。
……。
…………意味が……分からない……。
「ち、違うのよ、これは……こんなところに人がいるなんて思わなくって……」
「同感です。気にしませんよ。こんなところでそんなこと」
「うぅ……最悪だわ。久しぶりに出会った人に、こんなにあられもない姿……」
彼女は立ち上がり、もじもじと身体をくねらせた。
「わ、私には夫がいるの、国に……。だから……その……いけないわ、そんなこと……」
「……別に襲いはしませんよ。むしろ襲われないか不安ですね」
「それなら……安心してちょうだい。人は襲わないわ」
「なら、ほっとしました。……自己紹介だけしておきませんか?」
「え、ええ、そうね。ごめんなさい、挨拶もなくて……」
彼女は右手で股を、左手で胸を隠しながら、さりげなく身体の向きを変えたりし、どうにか見えないように工夫していた。
「僕はアランです」
「私は茂美よ」
「茂美……? 東の方の国ですか」
「そう。名前だけで分かるのね」
「分かりやすいですから。名前にはおを着けますか? おしげさん、とか」
茂美は困った表情を隠しきれない顔で笑った。
「それは……アランさん。ちょっと情報が古いわね……」
「あぁ……失礼しました」
うちの自野は古い名付けられ方をしたらしい。忍者というのはそういうものなのだろうか。
「それで……あの子は?」
茂美が、熊の死骸をツンツンとしている少女を見た。
「それが――」
嘘を織り混ぜつつざっくりと状況を説明した。船での旅行中に海に落ちてしまい、あの少女に助けてもらってここへ来た。泳ぎが物凄い、サメっぽい娘だが、わずかだけしか言葉が通じない。それと、トミーの話を。
「――というわけです」
「そうだったの。サメの子……なのかしら」
「さぁ……。どうしてサメの皮を服にしているのかは分かりませんね」
「不思議ね……。言葉が通じないということは、名前も分からないのね」
「分かりませんし、あるかも不明です。トミーって人には『キミ』と呼ばれていたようですけど……」
「うーん……。そうねぇ……そうだ」
少し悩んだ末、手をポンと打った。
「名前を付けましょう?」
「そうしますか。呼び名がないと不便ですし」
「色々な名前を考えて、その中から選びましょう。シャーリーとか、どうかしら?」
シャーリー……シャーク?
「色々ですか……。ではマルティナ」
「ジョージア」
ジョージア……ジョーズ。
「……エイプリル」
「フカ子」
「サメに引っ張られ過ぎでは?」
「あらあら? ごめんなさいね、そんなつもりはなかったのだけれど……」
彼女は苦笑いした。
というかジョーズはどこから引っ張り出してきた。この世界に映画ないだろ。
「シャーリーでいいんじゃないですか? 呼びやすいですし」
「ええ、そうしましょう。それで、どう教えるの?」
「任せてください」
しゃがんだまま両方の手で頬杖をついて、じっとこっちを見上げていた少女の前に立ち、彼女をまっすぐに指差した。
「シャーリー」
「?」
俺自身を指差す。
「アラン」
「アランっ」
そして彼女を指差す。
「シャーリー」
「……シャーリー」
彼女は考え、また俺を指差して「アラン」と、彼女自身を指差して「シャーリー」と言った。
それから、茂美を指差した。
「アラン」
茂美へ目配せをする。すると彼女は慣れない仕草でシャーリーを指差した。
「シャーリー」
「シャーリーっ!」
そして、彼女自身を指差す。
「茂美」
「…………??」
シャーリーは困った顔になった。
「……アランさん?」
「うーん。予想ですが、『あなた』に相当する言葉として学習しているのかも。僕や茂美さんの名前だとは分かっていないのでは?」
「そう、ね……。あ、そしたら……」
茂美はシャーリーを指差す。
「シャーリー」
「……シャーリー」
次に俺を指差す。
「アラン」
「アラン」
なるほど、俺を経由することで『自分』や『あなた』ではない『個人の名前』として教えるのか。
そして茂美は、彼女自身を指差した。
「茂美」
シャーリーは理解し、ぱっと顔を輝かせた。
「茂美」
「なんで流暢になった……?」
他は舌足らずに言っていたのに、これだけ発音がネイティブのそれになった。言いにくいだけ集中して発音したのだろうか。
シャーリーはただ嬉しそうに、指差しと名前を繰り返していた。
「シャーリーっ。アランっ。茂美」
……まぁ、いいか。名前として覚えられれば文句はない。
「ありがとうございます」
「いいの。それより、近くに洞窟あるのよ。行きましょう?」
「ええ、お世話になります。シャーリー。行く」
「いく~!」
シャーリーは俺の周りをうろちょろと回っていた。
そして茂美は熊の首の皮を掴み――片手で引きずり始めた。
嘘だろ。100キロはあるぞ。
唖然として見ていると、彼女は優しげに微笑んだ。
「行きましょう? アランさん」
「そ、そうですね……」
言葉を知らないサメ風少女と、野生に還ったような怪力の人妻……。なんだ、この状況は。
茂美の案内でたどり着いたのは、自然のままの洞窟だった。住みやすい工夫もない。
ただかろうじて、集められた枝と、円形に並べられた石の真ん中にある火の形跡だけがこの場所の文明だった。
「待ってね、いま火を起こすわ。もしよければ、すぐそこの湖で水浴びしてもいいし」
「ありがとうございます」
一旦、服に染みた海の塩気を落とすか。
「あの子は私に任せて。こんな森の中なんだから視線なんて気にせず、ゆっくりしてきてね」
全裸の彼女が火起こしの準備を進めながら言う。
その視線が通じたのか、また顔を赤らめながら胸や股間を手で隠した。
「やだ……し、視線を気にしないってそういう意味じゃ……。あんまりじろじろ見ちゃダメよ……?」
「はぁ、すみません……」
洞窟を出ようとすると、シャーリーが俺に着いてこようとする。少女を見下ろすと、彼女はにぱっと笑った。
「いく!」
「……行く、無い」
「……?」
「行かない」
「…………??」
否定形は理解できないか。こういうときは……どうするかな。
基本は指差しと、名詞もしくは動詞を言うというルールだ。それを逆手に取ってみるか。
俺は外を指差した。
「アラン、行く」
「……! シャーリーいく~!」
はしゃいで同じ方向を指差す。その手を上から押さえて下ろさせた。
すると彼女は俺をじっと見上げ、悲しそうな顔をして服を掴んできた。
「いく! いくぅ……」
たぶん、意味は理解できたのだろう。その上で駄々をこねている。
「あらあら……とっても懐かれてるわね。なら、一緒に行ってらっしゃい?」
「ではそうします。シャーリー、行く」
「いくっ!」
一目散に洞窟を飛び出して、俺を待つように振り返った。
それを追って、またシャーリーが先に行って、指先で行く方を教えて軌道修正し、追いかけて、と繰り返して近くの水場に向かう。
着いた場所は開けていて、見た目には綺麗な水の流れる川が一筋。
川に流れる水中に大腸菌が、とも思ったが、茂美がよく使う場所であるなら大丈夫だろう。
一目散に川に飛び込んで泳ぎ回るシャーリーを横目に湿った服を脱ぎ、川の水で洗い始める。
「アランッ!」
叫びが聞こえ、川を見た。シャーリーがこっちへ泳いでくる。
俺を呼ぶにしては声量が大きかった。嫌な予感がして背後を振り返ると――。
――何もいなかった。
なんだ、今のは。
川から上がってきたシャーリーが、俺の身体をまじまじと観察し始める。
ペタペタと触ってきたと思えば、俺の持つ洗濯中の服を触り回した。
そして、俺を見た。いったい何なんだ? 裸になったのは不味かったか。
「アラン……」
シャーリーは自分の服を見下ろして、鮫皮をブニブニと触っている。
……ああ。洗濯か。洗濯を知らないと、何をしているのかも分からないんだな。綺麗にするものだと説明するのも難しいが……不衛生にしておくわけにもいかない、か。
彼女の鮫皮シャツの裾を持って上げる。
「あわ……アランっ!」
彼女は慌てて俺の手を下ろさせた。恥ずかしいのか。目の前で小便までして。
しかし彼女は俺の身体と、脱いだ服とを見比べ、自分で裾に手をかけた。
そして恐る恐る、ゆっくりと持ち上げる。
恥ずかしいわけ……ではないのか?
へその上から、肋骨の下、胸と服が持ち上がって行って……。
……。
「……うわぁ……」
思わず声が漏れた。
繋がってる。
彼女の胸の上、鎖骨の下辺りと、鮫皮シャツとが。これは服じゃない。服のように見える彼女の皮だ。
だから俺が服を脱いだことに慌てて、自分で脱ぐのにも怖がっているのか。
「……う~」
少し痛んだのか、彼女はシャツを下ろした。それでもまだ挑戦したがって、今度はスカートを上げた。
が、持ち上げきったあとに千切る勇気など当然出るわけもなく、スカートを戻した。
「……アラン……」
いたわるように俺を撫でた。
もしかしたら彼女には、最初から全裸だった茂美が違う生物に見えていたりしたのだろうか。
「…………シャーリー」
ひとまず微笑んでやると、彼女は安心したように笑ってまた川に飛び込んだ。
俺も水浴びをして塩気を落とし、スッキリとして川から上がった。
さて、洗った服を着て戻ろうか。あるいは火を借りて乾かすのもいいが、全裸で戻るのは……。
……って、別にいいのか。茂美も全裸だし、シャーリーも実質全裸だ。何も迷うことはなかった。
「シャーリー。アラン、行く」
洞窟の方を指差して言うと、シャーリーはすぐに上がってきた。その手には食べかけた魚が一尾。
「シャーリー、いくー!」
モゴモゴしながら駆け出していった。
それにしても、人間かどうか怪しいと思えば、本当に人間かも疑わしい存在だったとはな。シャーリーが鮫っぽいのだから、もしかしたら茂美もゴリラか何かかもしれない。
洞窟へ戻るとちょうど茂美が火種を枯れ草へ移し、火を起こす瞬間だった。ふーふーと息を吹き掛け、石と枝の簡素な焚き火に火柱を立てた。
先に戻ったシャーリーに微笑んで、立ち上がる。
そして俺を見るなり、顔を真っ赤に染め上げ、今度は両手で顔を隠した。
「あ……アランさんっ!? な、なんで……」
「いえ、濡れた服で――」
「――いいいけないわ! いけませんっ! ま、まだ出会ったばっかりだし、そんな関係には……それに……」
手をゆっくりと下ろし、やたら曲線を強調するポーズを取って俺を見た。視線がやたら下だ。
「……不倫に……なっちゃうわ。そんないけないこと……させないで……?」
「させません。そもそも、茂美さんも全裸でしょう? 僕は焚き火で服を乾かさせて貰いたいんです」
「あら……? あらあら……? えっと……」
さっきとは打って変わって、苦笑いで顔をあおいだ。
「やだ……か、勘違いだなんて……もう、長い間人に合わなすぎね……」
「長い間……そういえば、茂美さんはどうしてここに?」
焚き火の近く、ちょうど勾配のある岩があったのでそこに服を貼り付けながら聞く。
シャーリーがそれをツンツンと触っているのをじっと見て、茂美は思い出すように瞼を閉じた。
「……思えば、どうしてなのかしらね。人の文明なんて悪で、人は自然にあるべきなんて、小難しいことを考えていた気がするわ。だから、自然派ママグループに入ったのよ」
「自然派ママグループに」
「みんな、私の言うことに賛成してくれたし、みんな私の言いたいことを言ってくれた。すっごく楽しかったわ。……でもね」
そこで彼女は、目を開いた。
「みんな、甘かったのよ」
「甘かった……と言うと……?」
「野菜は無農薬なんて言うけれど、料理なんて加工はするじゃない? 自然な水をって言っても、川の水を直に飲んだりしないわ。思えばそんなこだわり、本当に下らなかった。でも、そんな下らないことでヒビが入って、私以外グループから居なくなって」
ヒビが入ってというか、ドン引きしていたんじゃないか。料理を加工呼ばわりする奴に初めて会ったぞ。
「それでも側に居てくれる子がひとりだけ残ってくれたから、二人きりだし、一緒に文明の無いところへ行こうって。それで来たの」
「確かに、文明なんてありませんね、ここに」
「ええ、いい場所を選んだでしょう? ここ、バルカンって危ない国のすぐ近くで、本当は見張りの船とかがいたんだけれど、小さな船を漕いできたからバレなかったのよ」
思わないところで情報が入った。すぐ近くというくらいだから、ここはバルカンの海域なのだろう。つまり、無人島から出た先はバルカン公国だ。次にはバルカンからの脱出をしなければならない。
だが――そのための手段はステイシーが持っているはずの旅行者証明書が要る。さて、どうしたものか。
「それから、どうしたんですか?」
「必死に生きたわ。それはもう、人生のどんなときよりも必死に。だからこそ生きてるって実感があるんだぞって、私の選んだ道で生きてるんだぞって、そんなことを自分に言い聞かせてた。でも、本心じゃずっと後悔してたの。止めておけば良かったって」
彼女は洞窟の外の、空を見上げた。
「途中まで頑張ってたけど、あの子が頭から熊に食べられてるの見て、なんだかどうでもよくなっちゃった。うふふ」
「笑うタイミングがだいぶ狂ってますけど、大丈夫ですか?」
「ええ。でも、なんだかあの時にね、自分の中でストンって落ちたの。つっかえてた物っていうか、無くならなかったものが無くなった、っていうか。生きたいって思っても生きられない。それが自然なんだって」
悟りを開くタイミングもだいぶ狂ってる。もしかしたら既に狂ってるのかもしれない。
彼女は地面に大の字になった。退屈そうにしていたシャーリーが面白そうに、彼女の隣に大の字になった。
「この生活になって、気づいたことが、他にもいっぱいあるわ。ひとつ、文明は素晴らしいこと。ふたつ、自然も素晴らしいこと。みっつ、社会の悩みなんて、生きるか死ぬかの中ではちっぽけなこと。そして何より――――」
茂美は後ろ手を杖に、上半身だけ起こしてニッコリと笑った。
「――――家に帰ってくるなり不機嫌な顔とか貧乏ゆすりとかを見せつけてきて、何も言わずに家事をやらせてこようとする夫がクソ野郎って、こと。帰ったらアソコを握りつぶすわ。うふふ。今の握力なら余裕よ」




