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夜想曲を奏でる君に僕は今夜も会いに来た

作者: 樹ハジメ

陽が沈んで、月が昇る。

星が目を覚ます。

人は目を閉じる。

親子やら恋人やら商人やらで溢れていた広場も、今は静まり返っている。

人々の商いが途絶えてもなお、石造りの白い柱は、ガラス張りの丸い屋根を支えている。


此処は静かだ。

「だからこそ、俺にとって夜は象牙の塔なんだけどね」

君は静かに笑う。

ブロンドの髪が、街灯の光を反射して淡く光っている。

その美しさに、薄暗い僕は目を背けざるを得なかった。

本当は、僕は彼と関わってはいけないのではなかろうか。

こんな存在に、触れてはいけないのではなかろうか。

そう思っていても、ここから離れることができない。

彼の存在に触れずにはいられない。

それぐらい神聖で不気味であり、それでいて儚い。

こんな醜くどす黒い世の中に彼が生を受けたこと自体が、きっと何かの手違いなのだ。

彼はもっと多くの光と愛に囲まれて生きるべきなのだ。

僕はそんな彼の時間を邪魔している。

僕がここにいたら、この純潔を汚してしまうような気がしてならない。

「僕も帰ったほうがいいよね」

彼の純白に泥を零したくないという思いから、そんな言葉が口を突いた。

それを聞いた彼の表情に、戸惑いの色が見えた。

なんでだよ、と引きとめる。

「ここにいてよ。お前は俺の友達だろ」

心臓に響くような、高貴で優美な声が空気を伝った。

そうしてまた、腐敗しきって仕方のない世界に光を照らすような、優しい頬笑みを見せた。


僕がここに来始めて、何日目だろう。

君のピアノを聴きに来て、何回目だろう。


彼の目をじっと見つめる。

蒼穹を閉じ込めたような、透き通った気高く儚い色。

こちらを不思議そうに見返す、常に寸分の狂いもなく美しいままの表情。

このまま消えてしまいそうだな、なんて思った。


彼が消えてしまったらどうしよう。

君がここにいるのは、あと何日だろう。

君のピアノを聴けるのは、あと何回だろう。


僕が望んで一人になっているのだけれど、一人になることを恐れている僕もまた、僕の中のどこかにいる。

『きみがいなくなってしまったら、またひとりぼっちだ。』

そう言って君の方に向かって手を伸ばそうとするわがままな僕が、心の奥深くにいる。


僕のほうに宝石のような瞳を向けていた彼は、思い出したようにピアノのほうに向き直る。

彼が鍵盤ひとつひとつを愛おしむようにピアノの表面を撫でながら、瞼を閉じたのが見えた。


「俺はここにいるよ」

「えっ」

てっきりピアノがすでに彼の心を奪っていたのかと思っていたが、彼はまだ僕の奥底で嘆き続ける幼い僕の声に耳を傾けていたようだった。

困惑した僕の声を聴いて、彼はピアノに眼を向けたまま破顔した。


「お前が望みつづける限り、俺はずっとここにいる」

「なんでわかったの?」

さっきも言ったでしょ、と彼はまた僕に顔を向けてやわらかく微笑んだ。


「お前は、俺の友達だから」



長い指が鍵盤を押す。

手がピアノの上を流れるように動く。

綺麗で、軽くて、重たくて、質素で、優美な音が、空気を震わせる。

それと同時に、押された鍵盤が鈍い音を鳴らす。

少しゆっくりした足取りの曲。

音楽について詳しいことは何も知らないが、これはメヌエットに分類されるのだろうか。

音の海に揺られながら、ふと、彼の言葉を思い出した。


___『お前は、俺の友達だから。』


友達、なんて。

僕は思った。

友達。

とても華々しくて、温かくて、柔らかくて、とても憎たらしい。

僕の大嫌いな言葉。

友達なんて信じられない。信じてはいけない。

幼い僕が、僕に訴えかけている。

「友達」なんていわれて、今まで良いことなんてなかった。

「友達」という言葉は、いつも禍殃の前触れだった。

もちろん最初から彼らのことなんて信じていなかったし、信じられていなかった。

友達。なんて不快な響きなんだろう。


ここに君が現れた日も、僕は不快で仕方がなかったのを覚えている。

みんな、僕の居場所を奪っていくから。

他人を追い出すことのできない弱い僕の居場所を、奪っていくから。

やっと見つけた場所も、すぐに見知らぬ他人のものになってしまうのだ。

居場所を見つけては追い出され、また見つけては追い出されと、何度繰り返してきたことか。

このまま逃げ続けたら、僕はどこに辿り着くのだろうか。

その答えがここだと思っていた。

誰もいない夜が僕の居場所だった。

でも、どうやら夜の街にも人はいるようだった。

僕の世界に何も言わずに入り込み、何も言わずに背後でギギッという重たい音を生んだ。

彼はピアノの蓋を開けていた。

ピアノ。

こんな真夜中にピアノを弾くというのか。

街の人の眠りを妨げたおかげで僕の居場所がまたなくなったらどうしてくれるんだ。

そんな感情が頭の隅によぎったが、他人を起こそうが起こさまいが、彼がここでピアノの稽古に勤しもうというのならば、もう僕はお邪魔虫ということになる。

どうせ追い出されるなら先に出て行ってやろう。

彼がここに来るのが今夜だけならいいんだけど、となんとなく思いながら、ペンキの剥がれかけた白いベンチから腰を上げようとした。


和音。


背後から音の波紋が広がった。

その音を耳が捕まえた瞬間、何かの魔法をかけられたような衝撃を感じた。

僕はピアノの鍵盤を石膏のような指で押さえる君を見た。

見た、と言えるのだろうか。

僕の目が、知らぬ間に君を捉えていた。

そこで初めて、薄汚れた現実とはかけ離れた、楽園から産み落とされたような君の美しさに気づいた。

それにしてもこの音は。

不快な音色だ。

ああ、なんて不快な音色なんだ。

心臓の奥深くを直接刺すような音色。

何に驚いたのかはわからないが、衝撃が血管を伝って体全身に行き渡った。

動く気力を失ったような感覚だった。

和音ひとつだ。

彼が鳴らしたのはたったひとつの和音。

それなのに心が落ち着かない。

心が落ち着かなくなるほど、心が落ち着いている。

そこから堰を切ったように流れ出る旋律。

静かに、切実に訴えかけるようにこちらに向かってきては、また引いていく。

おそらく、それはノクターン調だったと思う。

夜を想うその音の波は、冷えた夜の空気を色づけた。

まるで人間味がなく冷たい、されど暖かい色。


僕は一目惚れしていた。


彼が発するその音は色となり風となり香りとなり味となり、今も五感を通して僕に干渉する。

決して不快な干渉ではない。

それは僕に今を見させてくれる。

誰かに突き放された過去の記憶でもなく、明日誰かが僕を嘲笑うかもしれないという未来への不安でもない。

ただただ美しい音楽と、美しい青年の姿がそこにあるという、美しい今を僕に見せる。

「明日も来る?」

彼の演奏が止まったと思われた頃、思わず君に話しかけた。

演奏が止まるまで、僕は彼の紡ぐ旋律を聴き続けていたのだ。

僕がまだいたことに驚いたのか、僕がここに座っていることに気づかなかったのか、彼は目を見開いてこちらを向いた。その表情もまた美しかった。

かと思うと、何かに満足したかのようににっこりと笑った。

少年のように無邪気な笑顔だったが、この世の絡まった糸の全てを解くような、心に何かを秘めた老婦人のような穏やかな笑顔にも見えた。

「明日も来たいな。」彼は答える。

「僕、君の演奏、いいと思った。だから、僕も君に来てほしい」

「なら、お前と俺は友達だ。」

「えっ?」

不意をつかれて驚き、困惑した。何がどう繋がれば、僕と彼が友達という結論に至るのか、よく分からなかった。

「友達って?」

「俺はお前に俺のピアノを聴いてほしい。お前は俺にピアノを弾いてほしい。お互いに必要。だから友達」

彼は満足気に笑った。

説明を聞いても理屈はよく分からなかったが、彼のどこか得意気な表情に、心の奥がふっと軽くなるような感覚があった。


僕は目を閉じた。

「友達」なんて信じられない。

それでも君は違う。

「友達」なんて言われて、こんなに嬉しいことはなかった。

___こうやって喜ぶから、僕は安直だと思われるのかもしれない。

確かに安直だ。

たぶん本当は、「友達」のことを心のどこかで信じていたのだ。

孤独な僕は、その言葉が嘘だとわかっていても「友達」に執着していた。

それでもいつも裏切られてしまうから、その度に心が痛むのだ。

だから、今の「友達」もまた僕を裏切るのかもしれない。

本当はそう思うべきなのだ。

でも、君は違う。

今までの「友達」とは違う。

そう思えてならない。

君は、僕のことを全て知っているような気がする。

君の声は、僕のことを嘘偽りもなく友達だと言い切ってくれている気がする。

君の音色は、僕の行き場のない思いを救おうとしてくれている気がする。

君なら、僕は心の底から信じられる。

なぜか、そんな感じがする。


僕の空っぽだった心に、音楽は溜まり続けている。

いつの間にか、宙に舞うような軽い曲調になっていた。

人通りの絶えた広場が、音で充溢している。

スノードームみたいだ。

ピアノのことはよくわからないし、今まで音楽に興味を持ったことなんてない。

それでも、彼がピアノで奏でる音楽だけは何か感じるものが違った。

ずっと、ここにいたい。

ここで君のピアノを聴きながら死んでいきたいとまでも思えてしまう。

冷たい空気に乗って流れてきた宝石みたいな音の欠片が、僕の心臓の奥の奥まで届く。

知らぬ間に頬を伝っていたこの涙は、心臓に染み渡った宝石が雫になったものなのかもしれない。

瞼を開き、音のかけらが満点の星空に向かって昇って行くのを、ガラス越しに眺めた。


一人の観客のために、君は今夜も鍵盤の上で指を踊らせる。

一人の友達のために、君は今夜もここに来てくれる。

君は僕を救ってくれる。

だから、僕も君を救おうと思う。

君がいなくなるまで、毎晩この広場を訪れる。

帰る場所のなかった君の旋律を、僕が受け止める。

これが君を救っているのかは分からないけれど、これが僕なりの友情だ。

孤独だった君が、濁りのない、君のありたいままの君でいられるための、僕なりの救いだ。

頬と目に溢れる涙を拭い、君のほうを見る。

僕の視線に気付いたのか、君はピアノを弾きながらこちらに群青色の目を向けて笑う。

また泣いてるのかよ、とでも言いたそうな、少し困った笑顔だ。

そんな君の瞳にも涙が光るのが見えたのは、気のせいだろうか。


今夜も君は、僕の大切な友達だ。

僕も、きっと今夜も君の唯一の友達だ。



やっぱり今夜も綺麗だ、君と、君の奏でる音楽は。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

お時間あれば、感想など頂けると幸いです。

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