35.重力
赤く赤く、どこまでも赤く。
真実の世界は、血の色なんだと思い出させてくれているよう。
活動を止めた稲垣ファミリーは、電柱や郵便ポストのような、街の中にある【物】になってしまった。恐らく息もしていない。完全に停止してしまっている。
関係者以外は立ち入り禁止の世界で、運良く招待状を受け取ったのは、階下で争いを続けるガタイの良い男と、その相手の制服を着た吸血鬼。それから俺達三人と、空中に浮かんだ黒いスーツの男……。
この会の主宰者。
一等星の吸血鬼、アルデバラン。
「今あいつ、自分の事、アルデンテって言ったの?」
脳内CPUが熱を帯び、情報処理に支障が出ている俺を、一弦コハルが可哀想な目で見た。それから、優しく介抱してくれる。
「違いますよ、お爺ちゃん。じゃなくて、コウタさん。アルデバランです。牡牛座の恒星と同じ名前です」
「麺じゃなくて、星座なのね。コハルちゃんって、星に詳しいねぇ……。まあ……今はどうでもいいか……」
星と同じ名前を持つ男。
肩までかかる長い髪をセンターで分け、細い線をしているせいで、女性のようにも見える。
なんで空中に浮いてんの? とか考えちゃ駄目だ。
きっと脳が焦げてしまう。
切れ味の悪い俺に、イライラしたのだろう。コハルちゃんの隣で、タクヤがもぞもぞし始めた。
「どうするの? 降りる? さっさと逃げたほうがいいんじゃない?」
「ん? ああ、そうだな。取り敢えず降りよう」
以前、この赤い世界に来た時は、酷い頭痛がしていた。思わず這いつくばってしまう程の激痛。
だけど、今は体調に変化はない。なら、動ける内に逃げ出すべきだ。
「その前に、お話しがあります」
コハルちゃんが、大丈夫だと言うので、一人で立ってもらった。表情が険しい。
何だろう? こんな時に……。
「落ち着いて聞いて下さいね。コウタさん、タクヤさん。……あの女です。あの制服を着た女が、救世主さんと戦った相手です」
階下で竜二さんと争っている女に顔を向ける。
握りしめた拳の中で、掌に爪が食い込んでいった。
あの女は、破壊された顔面も、一瞬で元通りになってしまう化物だ。
あんなのとやり合ったのか、救世主は……。
一弦コハルを守りながら……。
……ボコボコにしてやりたい。
殴って、仇をとってやりたいが、普通の人間である俺達には、吸血鬼と戦う術がない。
情けない。とっても情けないが、気持ちだけじゃ、どうにも出来ない。
せめて金曜日だ。
ゾンビーゾンビーを身体に憑依させた状態で、立ち向かわなくてはいけない。
「タクヤ、我慢しろ。今は駄目だ。金曜日まで待つんだ」
直球に物事を考えるタクヤは、直ぐに駆け出して行くだろう。だから先に止めた。
「うん、大丈夫。今じゃ勝てない」
「よし、そうだ。今は逃げよう」
決して急ぐ事はせず、地上に辿り着く。
その間、何も浮かばなかった。
とにかく遠くまで行こう。それしか思い付かない。
すると、竜二さんが走って来て、俺達を庇うように立ちはだかった。大量の汗をかいており、肩で息をしている。
「ハア! ハア! しんどい相手だ。万能耐性は伊達じゃねぇ!」
「お、オレンジ?」
また、食べ物の話かと思いきや、竜二さんは大きな溜め息をついた。
「違うわ! 万能耐性! 何にも効かねえんだよ!」
なんで竜二さん怒ってるの? みたいな感じで、残りの二人を振り向くと、汚い物を見るような眼差しを俺に向けている。
いや、別に、空気読まずに、ふざけた訳でもないんですけど!?
(…………役者が揃いましたね…………)
耳元で声がする。
低い男の声。空中に浮かんでいる黒いスーツの男だ。こっちを見下ろしている。
(…………君は天狼の子供たちだね。僕の事は知っているかな? …………)
「……知ってるよ」
息を整えながら、竜二さんが答える。
「一等星が、わざわざ三下同士の喧嘩に顔を出すなんて、珍しいな」
(…………そうとも限らないさ。今は時代が変わった。我々も法令遵守を気にしているのさ…………)
「それはそれは、気苦労が絶えないことで」
(…………君の名前は? …………)
「竜二だ」
(…………では、竜二くん。今回の事はすまなかった。僕の子供が迷惑をかけてしまったね…………)
「なんだ、ちゃんと分かってるじゃねえか。だったら、きっちり教育しとけよ」
(…………ああ、そのつもりだよ…………)
そう言うと、アルデバランは空中に浮いたまま向きを変えた。その方角には、救世主を倒したという憎い女の吸血鬼がいる。
(…………少々やりすぎだ。子よ。もう帰らないか? …………)
子供を嗜める、優しい声だ。
突っ立っていた制服の女は、それでも表情を歪めた。
「……嫌だ。正当防衛なんだから、最後までさせてよ」
唇を噛んで、空を見上げるアルキオネ。
どうやら、この滅茶苦茶な女も、アルデバランには頭が上がらないらしい。
そうだ、そのまま帰れ。
こっちの準備が充分に整ったら、必ず逢いに行ってやるから。
(…………そこの彼に、刻印を打とうとしたね。そうすれば、竜二くんが手を出すと思ったんだろ? …………)
アルデバランがそう言って見たのは、間違いなく俺の顔だった。え? 俺、何かされたのか?
「別に、そんなつもりない。ただの刻印だよ」
(…………親に嘘はいけない。子よ。君は、既に刻印を一つ打っている。それ以上は必要無いはずだ。君の獲物を連れて帰ろうとした、竜二くん達に腹がたったんだろ? …………)
「…………」
(…………君の軽率な行動は、いつか、君自身を滅ぼす仇となるよ。覚えておくんだ。…………)
「…………もう、何だかなぁ……。ムカついてきたなぁ……。 五月蝿いなぁぁぁ!」
図星だったのだろうか?
それまで、言い訳ばかりを続けていたアルキオネが急に反抗的になる。
直後に、小柄で華奢な身体から似つかわしくない圧が吹き出してきた。後退りしたくなる、死をイメージしてしまう恐ろしい感覚。
改めて思う。こいつは化物だ。
(…………階段の五人。そこの新聞配達所の中の二人と監視カメラ。今から、消さなくてはならない。まったく関係の無い人間達だ。それでもまだ、君は僕に五月蝿いと、下品な言葉を向けるのか? …………)
「人間がどうなろうが知ったことか! 渇望のままに私は生きる! じゃないと暇でしょ! 退屈で死んじゃうよ! キャハハ!」
交渉は決裂したようだ。
反抗期の娘に手を焼く父親のようだ。
アルデバランは、稲垣や新聞配達所にいる人達を消すと言った。
きっと口封じだ。
人が死んでしまう。
何とかしてくれ! 竜二さん!!
「無理だ……」
こんな情けない顔をした竜二さんは初めて見る。
止めてくれ。いつもの不敵な笑みを見せてくれよ!
「一等星の決定は覆らない……」
駄目だ、駄目だ。
いくら稲垣達が悪人だっていっても、殺されなきゃいけないほどの罪を犯したとは思えない。それに、新聞配達所の人達なんかは、まるで関係がない。巻き添えもいいとこだ。
型落ちした俺の脳内CPUじゃ、この場面を切り抜ける妙案は、一年待っても弾き出せない。何かないか! 何か!
タクヤや、コハルちゃんに目を向けても、明らかにパニクってる。
駄目だ、始まってしまう。
アルデバランが始めてしまう。
その刹那、アスファルトを蹴って、アルキオネが空中に舞い上がった。それは、間違いなくきっかけになる。惨劇がスタートしたと告げる行為。アルデバランに襲いかかったのだ。
空気の層を切り裂くような、激しい突撃である。
アルデバランは何もしない。
ただ、静かに呟いただけ。
なのに、アルキオネは紫色の炎に包まれて、地上に激しく打ち付けられた。炎は直ぐに消えたが、ピクリとも動かない。
(…………この子の万能耐性を暫く封印する事にしました。不死身故に、奢ったのでしょう。最強だと勘違いしたのでしょう。死を忘れてしまったら、吸血鬼も人間も、ただ生きているだけになる……。なんて、ふふっ……。まるで天狼と同じような事を言ってしまったね…………)
口元に手を軽く当てて、アルデバランは笑っている。
親が子にするような体罰ではない。
化物が一瞬で沈黙してしまったぞ。
(…………竜二くん。これで手打ちといこう。後は任せて、君達は去るといい…………)
耳元の声がそう告げると、地面が揺れだした。
地震だ、地震が起きている。
振り返ると、今降りてきたビルから、沢山のコンクリートの破片が落ちて来ていた。
崩れるのか?
思うと同時に揺れが激しくなった。
もう、立っていられない。四つん這いになりながら、必死で逃げ回る。
竜二さんがタクヤとコハルちゃんに手を貸して、なんとかビルの影から抜け出た。
二階の階段を見ると、赤く硬直してしまった稲垣達五人が、変わらず手摺から身を乗り出している。
今から、崩れたビルの下敷きになるのだろう。
どうしようも出来ない。
悲惨な現場に、目を背ける事しか出来ない。
「いくぞ」
竜二さんの声がした。
ビルが完全に倒壊するまで、付き合うつもりは無いらしい。
尻を叩かれる子供のように、俺達は追い立てられる。
(…………天狼には、よろしく伝えてくれ。帰還する気がまだあるのなら、相談にのるとね…………)
問答無用。
一等星。
感想まっとるよ~!