本気の狂いってのは、冷静じゃなきゃなしえないんだ
ウィリアム・フォークナーの「サンクチュアリ」という作品を読んでおりましたところ、ボクが師と敬愛している映画監督、デイヴィッド・リンチだよなこれ、と、ヒシヒシ感じたわけですね。そしてどれくらい遡るのか調べてみると、リンチのおよそ50年ほど前になるんですよね、その史実に感銘を受けまして、つらつらと深夜のツイートを連ねていき、徐々に熱を帯びていったというわけなんですね。
昨夜のツイートを基に、短いエッセイでも上げてみたいと思っております。
フォークナーはすごいなぁ、50年も前にリンチを先取りしていたなんて。という一文から昨夜のイメージという名の旅は始まっていきます。それにあわせて、ボクがこの世において尊敬しているたったふたつの人物を、フォークナーを絡めて対比させていきました。
一つ目はもちろん先に上げたとおり、映画監督デイヴィッド・リンチですね。ボクが21歳のころに出会い、以降師と崇める存在へ、どんどん大きくなっていった芸術家です。
もう一つが、夢野久作ですね。夢久とは、23歳ぐらいだったでしょうか? リンチと全く等しい感じで、やはり師と崇めるようにどんどん大きくなっていきました。
映画や文学が好きな方々には、お気づきの方も多いんじゃないかな、というのがボクのなかにはあるのですが、時代も国も違う、分野も異なるそのふたつの芸術家が、とてもとても似ている、という認識が、確固としてあるんですよね。ゆえにボクはそのふたつの仄暗い光こそが眩しく、ゆえに愛するのだ、ということなのですよ。それで、これは後年に生きるボクという存在が、その既成事実ゆえに個人的に発見できているというだけの認識なのですけれど、それは他の批評家ならびにファンにおいても、こういった共通項を数多くの方々が見出しているはずでしょうが、しかしその偶然性というものに、実際の影響、という現象じたいは、全く無関係なのでしょう。関係ないがゆえに、愛好家であるボクからすれば、ますます愛着が増していく、ということもあります。
でもそれは、本人たちには関係なくて、関係のないはずの周囲が、好きゆえに、勝手に言っていることにすぎません。
それよりもむしろ、デイヴィッド・リンチ監督において、明らかに影響を与えている人物といったら、それはウィリアム・フォークナーに違いないのでしょう。フォークナーという作家は、アメリカ南部のゴシックという芸術性、ジャンル、を生んだ、巨大な作家です。そして、映画というジャンルにおいて、ハリウッドにありながら、シュールレアリスム的であり、ヨーロッパ映画的である奇妙な作家であるリンチのジャンルを大きくくくってみると、それはフィルムノワールであり、それはやはり、アメリカのゴシックから来ている、ということは明確だと思います。
さて。ボク自身の話をすこし挟みますが、ボクは以前から、自分はフランツ・カフカの孫である、ということを言っていました。そもそも、リンチ自身は、カフカの子である、ということを明言していまして、そのリンチの子、であるリンチ影響下の作家たちであるボクたちの世代は、つまりがカフカの孫、だというわけですね。すべてをさかのぼってみると、フォークナーにしたって、カフカという現象から生まれた作家である、ということは必ず云える、とボクは思っています。
そこで、作家として最も尊敬している夢野久作と、映画監督でありながら作家としてのボクが生涯で最も尊敬する、もういっぽうの、リンチの、おそらくは源流にあたるフォークナーとを、並べて対比してみました。お国柄、相関関係は全くなかったはずなのでしょうが、しかし、後年から見るとかなり興味深い、そして価値のあるシンクロニシティがそこには見いだされるんですよね。調べてみてわかったことはこれです。
フォークナーは1926年に第一作を書き1936にアブロサムで頂点に至る、夢久は1926年にあやかしを書き1935年にドグマグを書き頂点に至る、そして1936年に死去。これは文学史における凄まじい一致ですね。
ボクはこれを昨夜発見して、とても興奮しました。日本における文学の頂点とも云える、しかし、一般的にはどちらかと云えば日陰の存在である夢野久作と、アメリカにおける文学の頂上であるフォークナー、しかし劇薬扱いを受けているのも、事実。そういうふたつの、王道であり究極の邪道であるふたつの、特異な、正統な、世界的にはかなり大きな現象が、シンクロを起こしていたという事実ですね。
これはボクみたいな作家にとってみれば、めちゃくちゃ価値のある事実なんですよ。まあ、そういった発見から、昨夜はちょっとした興奮状態にて、ちょっと熱い意見を世の中に放ってしまいました。それを以下にまとめてみたいと思います。
ポーというゴシック作品の源流がカフカの活動時期より90~75年ほど前に生まれ、ドストエフスキーという半分狂った作品を書く作家がカフカの50~30年前に古典としてあって、そこを源流とした文学を愛読したカフカという本当に狂った作品を書く作家が生まれた。城、審判が出版されるのは死後の1925~6年、フォークナーのデビューに近い。
90年前(1835~) ポー
50年前(1866~)ドストエフスキー
1925.6年カフカ 城 審判(制作は1916〜)
↓
夢野久作 フォークナー デビュー
(1926年ごろ)
↓約50年後
デイヴィッド・リンチ デビュー
おおまかに云うとボクはこの流れからの影響(カフカ~の リンチと夢久)で出来てます。
土着的って言い方もニュアンス違うかもだけど、そこをしっかり身につけたら、次は都会っぽい感じですね。チャンドラーハメット〜ピンチョン。そこ身についたらバラードで締めくくり。その他はSFの古典から現代までつまみ食いでエッセンスは出来るかなと。そう考えるとジャンルよりも文学が重要ですね。
これは、要は、土地の磁力というものをまずは身につけたい、それはフォークナーからはじまる南部的なものであり、南米マジックリアリズムにつづくものであり、リンチの世界につづくものである、ということですね。
それを終えると、次はハードボイルド文学的な風情です、つまり土着とは対極の、都会、都市ですね、それを身につけたい、と思うんですよ。
そこが済めば、SFにおける、マインドの部分、そこを骨身に染ませたいな、というわけなんですね、それゆえのバラードですね。
ボクはジャンル作家を目指してはいるのですけれど、文学に比べてみると、ジャンルの習得という部分は、かなりの怠惰をつらぬいてしまったんです、悲しいかな。まあ、この期に及んで、もうSFはつまみ食い以外無理だな、という、諦めでもあり、思い切りでもある境地に今はいる、そんな感じですよ。それでいいんです、きっと。
そこで、こんな結論に至ります。
ミステリ書きとSF書きって読み専としてマニアじゃなきゃって流れが王道としてあるが、カウンターとして、むしろ業界に染まってないくらいが望ましいっていう、オルタナティブな流れがあるんじゃないかなと。なにも愚直に全部読まずとも、未知のセンス・オブ・ワンダーやトリックは生み出せますよ。
こういった開き直りしかありませんよね、そのパワーに従うまでです。作家のなかでもかなりの読書家であろう円城塔さんというSF作家がありますが、彼が、ボクと同じ境遇にいて、果たして、今と同じ読書量で居れたのだろうか? 絶対に無理ですよね、もちろん。そうなんです、彼だって、専業作家生活があっての、読書量なのですよ、ボクかて、専業作家生活に入れば、読み足りていない分を、穴埋めするがごとく読むに決まっているではないですか。だから、今はSFとミステリにおいてはつまみ食い、それで充分なのです。
そして昨日一のイキりツイートにつづいていきます。
ボクくらいのレベルであればね。
そうなんです、これはハッタリではありません。ボクレベルまでいくと、全部を読まずして、これまで書かれなかった、最強のトリック、驚天動地のセンス・オブ・ワンダー、が生み出せます、それは、きっとです。
このあたり、才能に恵まれた、ボクにしかなかなかできない芸当なのですね。これに共感できる才人は、いくらかはいると思います。それができないから、一般的なジャンル作家の地平には、そういった、教科書読破、という訓練が必要なのですよ。悪いが、ボクはそこを飛び越えますね。それより、文学のほうがよほど果てがなく、難しいことだと思いますので。とは云えですよ、トリックというものは、ある特殊なお家芸みたいなものですから、それは一筋縄ではいかぬものでしょうし、本格でいっちゃえば、ボクはむしろ平凡な表現しか生み出せないでしょう、なぜならあまりにも門外漢だからです。これから5年なり10年なりを、ミステリ読みとして没頭する日々は、さすがに設けることはできません、もう、時間がありません。だから、ボクにはオルタナしかありません。
先のツイートは嘘ではありません、しかし、それを真正面から衝突するやり方では、何もなしえない、そう言っているのです。
まあ待ってなさいと業界に染まりきった業界人たちには言いたいですよ。
正面突破なんて考えていませんよ。もちろん、変格をやられている作家さん、アンチミステリをやられている先人の巨人たち、それらが本格をベースにしていることなんて百も承知ではあります、でも、やり方なんて、一通りなわけがない。勝算がなければこんな浮かれたビッグマウスなんて放てるかいな。
トリックは別として、ミステリに不可欠なマインドの部分は夢野久作ひとつ読みこんどけば充分すぎるね。
すべてはここ、なんです。そして、それはSFも全く同じくですね。
トリックよりマインドが大事ですね、ボクはそう思う。それがあってこその鮮度あるトリックです。器がなきゃせっかくの発明もゴミなのよ。
ミステリのマインドが夢野久作に極まるとボクが勝手に捉えてみて、突き詰めると、もしかして怪談の真逆の切り口こそそれなのかなと。だから反面教師として怪談を読むといい。乱歩は怖がりで、それが持ち味だけど、ホラーテイストは究極のミステリからはむしろ逸れるんじゃないかという推論です。
怖さよりも狂気ってものがジャンル作の源流なのかなと。だから遡ればそれはドストエフスキーで、完遂したのがカフカで、そこに生まれた夢久とフォークナーがいて後のリンチがいる。結局狂ってないと芸術じゃないんだろうね、狂ってなきゃ戯作になっちゃうのよ、それも一興だけどもさ。ボクじゃないね。
本気の狂いってのは、冷静じゃなきゃなしえないんだ。
まあ、そういう流れでした。冷静な、ドライさ、それこそが。そんな狂気、を中心として、ミステリ、SF、文学が回っている、それらは、顔を出す瞬間、そのジャンルをしているかは分からない、だけど、必ずその三つのいずれかであるし、必ず、その裏面には、狂気なのですね、冷静なるドライさ、それが狂気である、そこは外さない、そういうことです。
というわけで、この意気込みにてこれから、創作をがんばっていきますので、どうか応援よろしくお願いします。