094.白昼夢
「……んんっ…あれ…」
オルドレッドが重い瞼をこすり、ゆっくり起き上がれば額を押さえ込む。目を開ける事さえ億劫だったが、片目で覗けば周囲の光景に見覚えがあった。
すかさず毛布をめくってベッドから降りるも、頭痛も相まって立つのがやっと。フラつきながら荷物に倒れ込めば、取り出した水筒を浴びるように喉へ流し込んだ。
空になってもまだ足りず、水道へ向かおうにも腰が抜けて歩けない。
仕方なく深呼吸を繰り返し、執拗にこびりつく酒気を身体から追い出した。
「…お酒、断つようにしないと…っ」
吐いた溜息も熱を帯び、不快な香りに顔をしかめる。そもそも酒を飲んだ経緯が全く思い出せない。
必死に思考をかき乱し、頭痛を押し退けながら記憶を辿っていけば、夕方には仕事を終え。いつも通り雑貨店で買い物を済ませた後のこと。
店前で屈むアデライトと再会し、強引に街外れの居酒屋へ誘ったはず。
それからはダニエルやパーティの話をした、ような気もする。アデライトの経歴や妹の事を聞いた、のもボンヤリ覚えている。
酒を注文した記憶はないが、恐らく話が弾んだのだろう。人肌の温もりはいまだ心の内に残っている程で、だからこそ飲んで食べて。
身体が鉛の重さに達した所で、宴はお開きになったのかもしれない。
窓を見れば外はまだ暗く、酒のせいで夜更けに起きてしまった事を嘆いた。
息苦しい身体を休めるためにまた寝るべきか。
それとも武器の手入れをして朝を迎えるか。
どちらをするにしても、夜が明ければやる事は決まっていた。
「……奢るって言ったのに…もぅ」
荷物にポフンっと身体を預け、いまだ中身が詰まった財布を指先で揺らす。
自力で宿に戻れたのは奇跡だが、だからこそ浮かんだ疑問に。水筒を取り出す際に確認したところ、案の定所持金はそのままだった。
1度奢ると言った手前、不義理を通すつもりはない。日の出と共にアデライトを探し、支払いや謝罪をする事は決まっている。
まずは雑貨店を訪ね、それで会えなければ街道を見張り。最悪の場合はギルドで彼を待ち伏せするのも手だろう。
他にも案がないか重い頭で絞るが、ふいに短剣を取り出せば暗闇に素早く向けた。
「…っっ誰!?」
いまだ身体は重いものの、侵入者に後れを取るつもりは毛頭ない。一方で鍵をかけ忘れるほど耄碌した自分に、苛立ちと不快感すら覚えてしまう。
しかし怒りは原動力となり、力強く床を蹴り出せば瞬く間に人影を抑え込んだ。喉元へ剣先を突き付けるが、部屋を血で汚せば店主も黙っていないだろう。
何よりも下種の血で“この部屋”を穢すのは耐えられなかった。
幸い侵入者の目的が何にせよ、試みそのものは未遂に終わっている。お決まりの脅し文句を告げ、サッサと追い返そうとした刹那。
ふいにりんごの甘い香りが鼻腔を掠め、自然と力が抜ける。
賊の肌へ押し当てた切っ先も降ろし、侵入者から3歩。千鳥足よりも心許ない足取りで下がれば、愕然と暗闇を見つめた。
――ありえない。
そう自分に言い聞かせても、だんだん暗闇に目も慣れてくる。
人影も戦意を失った事に気付いたのか。ゆっくり足を踏み出せば、その身を月明かりが淡く照らし出す。
髪色は近所で飼われていた馬と同じ、とても優しい栗毛色。
男のくせに女のようだと、故郷でバカにされてきた長い睫毛。
そしていつも自信がなく、控えめに佇む彼の首には青銅のプレートが揺れていた。
「……オリー?」
長い耳がピクンと跳ねる。
気のせいではない。
確かに聞こえた。
恐る恐る手を伸ばし、侵入者の頬にソッと触れる。柔らかな触感を指先で確認するや、崩れるように思い切り抱き締めた。
「…ダニエルっ……ダニエルなのっ!?」
「えっと…顔が急に見たくなっちゃって……その、元気にしてたぁ゛あ゛ッ?」
落ち着いて会話をする間もなく。背中に回された腕が、骨をへし折らんばかりに力が籠もる。
その度にリンゴの香りも強まり、密着した体温がダニエルの存在を物語ってきた。
彼の鼓動を耳にした時は涙を零しそうで。その前に胸の中でもがく息苦しそうな呻き声に、慌ててダニエルを解放する。
彼の容態を心配する一方で、何度も繰り返してきた過ちは昔と何1つ変わらない。不覚にもクスリと笑みを浮かべる間も、ダニエルは荒い呼吸を繰り返す。
「ご、ごめんなさい……でも本当にダニエル…なのよね?」
「そ、そうだよ。オル…オリーはあまり変わらないみたいだね。でもちょっと痩せた?」
「うふふっ、最近あまりご飯が美味しく食べれないから…それでも昨日は久しぶりに沢山食べたのよ?」
目元を拭い、改めて彼に熱い眼差しを送る。眼前には見慣れた冒険者姿のダニエルが立ち、目を擦っても消える事はない。
沸々と溢れ出す感情に自制が利かず、それでも寸での所でピタリと止まった。
伸ばされた腕は妥協するように肩へ触れ、ズルズルと。
身体を滑るように跪くや、彼に頭を預けてしまう。
これではダニエルの顔が見えない。
ようやく彼と会えたのに。
話したい事が沢山あるのに。
身体は震えて声が出ず、零れるのは嗚咽ばかりだった。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「あなたのこと…ご両親との約束も、パーティの皆も……守れなかった…っ」
ずっと恋い焦がれてきた再会だったはずが、気付けば悪夢に。パーティが壊滅した夜の記憶にすり替わっていた。
ダニエルに木の実を採るべく野営地を離れ、敵襲を知らせる悲鳴に身体が凍りついた時。急いで向かおうにも、森の奥へ進み過ぎたせいだろう。
息を切らし、ようやく辿り着く頃には戦況も劣勢。目にしたのは仲間が毒牙にかけられ、次々動かぬ骸と化していく姿だった。
そしてダニエルがボロ雑巾のような姿で、宙に力なく放り飛ばされる最期が、今でも脳裏に焼き付いている。
目を逸らしたくとも記憶に残るのは、惨状を生き延びたからではない。
全ては独断で行動し、仲間を危険に晒した警戒心の欠如ゆえに。
そして平穏を謳歌するあまり、楽観主義が招いた結果ゆえに。
後悔の数は山よりも高く、海よりも深い。だがもっとも思い出したくなかったのは、冒険者ダニエルの最期だろう。
これまで避けるように。見ないようにしていたはずが、瞼の裏に何度もその姿が浮かぶ。
だから目の前にいる彼は、幻影以外の何者でもない。
本能的に突き飛ばしかけてしまったが、それでも触れると確かな温もりが伝わってくる。
姿から声に至るまで、紛れもなくダニエル以外の何者でもなかった。
――…だからこれは夢。
困惑の最中、自身でも驚くほど結論はあっさり出た。
死後の世界も、現世を彷徨う魂など存在するはずがない。あるのは残された者の嘆きと、残酷なまでに流れゆく時間だけ。
ゆえに今見ている彼は、己の心の弱さが生み出した幻。自責の念や切望が渦巻いて実現した一夜の甘い夢なのだろう。
幻覚から質感まで伝わるのは、恐らく酒が感覚を暴走させているため。
目の前の事象を淡々と分析していたが、沈黙がダニエルを不安にさせたのか。心配そうに覗く彼にハッと顔を上げれば、咄嗟にギュッと胸元に抱き寄せた。
おかげで鼓動は喧しく騒ぎ立て、動悸が重なるほど身体が密着する。
互いの起伏も隅々まで感じ取れるが、例え他人に茶化されても手放す気はない。
所詮は一夜限りの夢なのだから。
なればこそ、少しくらい。
今だけは、甘えても許されるはず。
「お…オリー、苦しいよ」
「私を置いてった罰よ。我慢なさい…この部屋、憶えてるかしら?安い所だと騒がしいから、銅に上がった記念に良い宿で泊まろうって。そうしたらアルバートたち、共謀して私とダニエルを相部屋にしたのよね」
「…嫌だった?」
「何を言ってるのよ。私とあなたの仲じゃない…あの頃は2人でベッドを使えたのに、あれから随分大きくなっちゃって。まだ私の方が大きいけれど、いつかは追い越されてたかもしれないのにね……本当に、ごめんなさい…私が勝手にパーティを離れたばかりに…」
「そんなの、今に始まった事じゃないでしょ」
「…慰めてくれないのね」
「オリーのせいじゃないもの。いきなり囲まれて、襲われて…あの時一緒にいたら、今頃オリーだってココにはいないよ」
温かい声が聞こえ、幻覚が優しく包み返してくれる。
幻聴も甚だしいはずが、まるで本当にダニエルが目の前にいるようで。年長者の威厳を保とうにも、溢れ出す涙が止まらない。
目元を拭いたくともダニエルを手放す気はなかった。
しかし涙のせいで、彼の姿を1秒でも長く留めたいのにボヤけてしまう。
とにかく気持ちが落ち着くまで。
次の言葉が浮かぶまで、身を委ねようと力を抜いた途端。
キュッ――と。
ダニエルの腕がオルドレッドを少しだけ強く包み、思わず肩が震えた。
「手紙、読んでくれた?」
「…うん」
「本当に?」
「うん、読んだわ。あなたがご両親に宛てたのもしっかり渡して…あの子たち、本当は泣き崩れてもおかしくないのに、ずっと私の心配ばかりして。やっぱり人間っておかしな種族だわ」
「……本当に読んだならさ。何でこんなに傷ついてるの?」
ふいにダニエルが指の腹で褐色の肌をなぞり、突然の事に身体が飛び跳ねる。唇を噛み締めて声を抑えたが、抵抗するつもりはなかった。
切り傷に打撲痕。
満足に治療もされていない脇腹や太もも。
さらに膝から下まで傷痕が残り、身体の筋を這う指使いに仰け反ってしまう。
やがて荒い息遣いを誘う指の動きは肩を撫で、ゆっくり腕先へ伸びていく。
肘。
手首。
掌。
そして指先に触れ、互いの指が愛おしそうに絡み合う。
オルドレッドも身体を預け、夜の寒さを体温が。部屋の静寂を鼓動が埋め尽くす。
このまま時が止まってしまえばいい。
このまま夢の中で。
いつまでも揺り籠の中で。
争いのない安らかな時間を、ダニエルと共に過ごしたい。
きっと彼も首を縦に振って、ずっと一緒にいてくれるはず。
だがオルドレッドの想いは届かず。永劫に思われた触れ合いも、ふいに指が解かれて終わりを告げる。
守るように抱いてくれた腕も離れ、温もりが急速に遠のいてしまう。
途端に真冬の湖へ放り込まれたような。
世界にただ1人取り残された錯覚に、理性が音を立てて崩れていく。
1度ならず、2度目までも。
決して味わいたくなかった“別れ”が、ダニエルに命綱が如く抱き着かせた。
かつて幼い彼を窒息させた熱い抱擁が脳裏をよぎるも、抱いた感情は昔と今では天と地ほどの差があった。
「――っっ私も一緒に連れで行っ゛でっ!もう゛…もぅ1゛人は嫌なのよ゛ぉぉ…!!」
長年生きてきたダークエルフのプライドは微塵もない。
ダニエルの肩に顔を埋め、顔をくしゃくしゃにさせ。泣きじゃくる様子は、まるで幼子そのもの。
外まで聞こえそうな号泣だったが、それも徐々に息を潜めていく。
嗚咽混じりに震える背中を撫でられ、大粒の涙も緩やかな物に変わっていった。
爆発した感情も落ち着いていく中、ふいに過去の記憶が昨日の事のように思い出される。
ダニエルが飼っていた小鳥が亡くなり、共に埋めた時は寂しそうに。それでも毅然とした態度で離別と向き合い、彼の両親は誇らしそうに頭を撫でた。
しかし彼らが去り、姿が見えなくなった途端。あられもなくオルドレッドに抱き着いて、声を押し殺しながら泣いていた。
目の腫れに薬草まで採ってきたが、採取に走ったのはその日限りの話ではない。
森で迷子になり、ようやく見つけられた時も。近所の子供に喧嘩で負けた時も。
ダニエルが泣きつくのは、いつだってオルドレッドだけだった。
その時はいつまでも彼をあやし、泣き疲れて眠るまでずっと一緒にいたのは、2人だけの良い思い出だろう。
もっとも喧嘩に関しては、直後に大人げない対応を取ったせいか。村中で大騒ぎになり、彼にも両親にも迷惑を掛けてしまった。
だが抱き着いているのは今やオルドレッド。髪まで梳かれ、知らぬ間に立場が逆転していたらしい。
もう後ろから彼を見守る必要も、背中に隠す理由もないだろう。身も心も強くなった姿に安堵を覚えたが、何故こんな事を考えているのか。
所詮は夢の中。
何を必死になっているのかと自嘲するも、ダニエルの手がソッと頭に添えられる。
「…ねぇ。本当は手紙、読んでくれてないんでしょ?」
「読んだに決まっ、ぐすん……決まってるじゃない」
「いいや、絶対に読んでないね」
「読んだわよ!!何度も何度も読んで、読んで…くしゃくしゃになっても読んで、インクも滲んじゃったけど、それでも読んで……」
「じゃあさ。ボクのお願い、憶えてるはずだよね?」
訝し気に尋ねる彼の声に血が凍り、必死に記憶を手繰っていく。
目に。
心に。
脳に焼き付ける程読み返し、一字一句覚えている自信はあった。
しかしいざ問われると浮かばず、頭の中の引き出しを乱暴に開けていく。
たとえ幻であっても、ダニエルに失望されたくない。
引き出しごと抜き取る勢いで記憶を掘り起こし、その甲斐あってか。ふいに最初の1文が蘇るや、流れるように手紙の内容が脳裏に浮かぶ。
文字は延々と続き、口の中でブツブツ復唱していく最中。最後の文面に達したところで、ピタリと言葉が詰まる。
決して文言を忘れたわけではない。
それでも恐る恐る。
震える唇に負けじと喉を鳴らせば、勢いに任せて声を紡いだ。
「……ぼ…“ボクが戦いで死んだあとも、もしかしたらおじいちゃんになって死んだあとも、ずっとずっと長生きして”…」
――“ボクみたいにオリーと会えて幸せになれる人をたくさん作ってね”
「なーんだ憶えてるじゃない。ちょっと心配しちゃったよ」
復唱にダニエルの声が被さるや、オルドレッドの肩をソッと押す。
おかげで教師が生徒を褒めるような、彼の屈託のない笑顔を見る事が出来た。
「…貴方はいつも一言余計なのよ」
「よけ…よよ余計?」
「アップルパイ。悪かったわね、下手くそで」
精一杯の不満を籠めたつもりが、何故か安堵するように嘆息を吐く彼に疑問が浮かぶも、もはや涙も悲しみも不要だった。
過去は決して無かった事には出来ない。
楽しかった事も。
悲しかった事も。
起きた事象は必ず現実に反映され、焦げ付くように胸の内で巣食う。
そして同じ時間を隣で歩んだ記憶もまた、真実として永遠に残り続ける。
例え隣に立っていなくとも、目に映らなくとも。瞳を閉じれば笑顔を浮かべた姿が瞼の裏に浮かぶ。
彼はもうこの世にいない。
だが思い続けたからこそ、こうして夢の中でも会えた。
溢れる涙を指先で拭えば、顔を上げてダニエルの瞳を覗く。
ドキッとしたように彼は身じろいだが、逃がすまいと服の端をつまんだ。
「だ…だにえっ……ダニエル!!」
「…は、はいッ!?」
互いの緊張が伝わってくる。しかしこの機会を逃せば、次は一生巡ってこないかもしれない。
たとえ夢であろうと、ケジメだけはつけたかった。
胸に手を置き、何度も肩で呼吸を繰り返す。やがてキッとダニエルを見据えるや、彼の肩を勢いよく掴んだ。
「っっ、き……きっ…」
「…木?」
「キスを!…しても、いいかしら」
キス。接吻。
それだけの要求に、まるで婚姻を申し込んだ気分に陥った。肩を掴む指は震え、上気した頬に思わず俯いてしまう。
だが過呼吸と合わさり、気を抜けば涙が零れてしまいそうで。咄嗟に顔を上げれば、否応なしにダニエルと目が合った。
唐突な申し出に彼も面食らったらしい。目を瞬かせる姿に、やはり言うべきではなかったと。
急速に覚えた後悔の念に謝罪し、逃げようと扉へ振り返った刹那。
手首を握られるや、全身の力が抜けてしまう。そのまま強引に引き寄せられ、弱々しくダニエルに向き直る。
「…ダニエっ……ん゛ん゛っ゛っ!?゛……んぅ…」
驚きに目が見開かれ、やがてゆっくり瞳が閉じられる。
重ねられた柔らかな感触に全てを委ね、触れるだけの接吻から一転。唇を食むようにオルドレッドが想いを伝え始めた。
身長差で下から押し上げられていたものの、僅かに仰け反った身体も少しずつ押し返していく。
肩や首にも腕を回し、互いの身体をいままで以上に重ね。男の身体は硬い物だとばかり思っていたが、予想外にも柔らかい。
唇然り、指先の感触然り。神経に1つ1つ情報が流れ込み、それだけ脳が蕩けそうになる。
ダニエルの左腕も身体を引き寄せるように背中へ回され、長年の押し殺した感情が。積み重ねた想いが、歯止めを掛ける事はない。
もっと彼を味わいたい。
全身でダニエルを包み、彼にも抱かれたい。
さらに唇を押し当て、息をする事も忘れる程夢中になった刹那。
「ん゛ん゛っ゛!!?…ぐっ…ぁは…っ」
突如背中を打ち抜く、激しい衝撃が腹部に走った。
熱い吐息も嗚咽に変わり、身体に重く残る鈍痛の正体も分からぬまま。意識にゆっくり暗がりが訪れようと、その瞳は最後までダニエルに向けられていた。