082.偽りの肉体
ハッと顔を上げ、両腕を振り回してから足を思いっきり伸ばす。周囲の景色に覚えはないが、身体の感覚までは忘れていない。
久しぶりの“外界”に肺一杯の空気を吸い込むも、仮想空間の森にいたせいだろう。新鮮味は特に感じられず、周囲には垂れ幕に映っていた池も見当たらない。
“撮影場所”をとっくに離れた後らしいが、もしもあのまま映像を眺め続けていれば、魚を素手で獲っていた時分を観測してしまいそうで。
不自然な潤いで満たされた唇を撫でるや、フードを外して深い溜息を吐いた。
「…とんだ公開処刑だったな。もっとお淑やかに振る舞えば、無意識で動く私も少しは人間らしく……こういう時こそ団長や仲間が何か言ってくれてたはずなんだけどな。アイツら私の素行を咎めなかったのか?口うるさいから“こうしろあーしろ”って言われてもおかしくないのに…」
池の魚を頭の片隅に追いやり、ふと記憶を辿れば騎士団員の顔ぶれが浮かぶ。だが今こそ必要とされる小言の数々に行き当たらず、訝し気に首を傾げた直後。
最初に違和感を覚えたのは、いつものように腕を組んだ時。物寂しさに増々首を傾げると、反射的に掴んだ胸は指先が表面を掠るだけ。
叩けば硬い胸板に弾き返され、降ろした視線はやがて胸部を通り過ぎて足先を映す。
しかしグッと少し戻したところで股の間に注意を向け。自然と伸ばさせた指先は異物に突き当たり、躊躇なく“ソレ”を握り込んだ。
「ヴぉおぁッ!?」
直後に得も言えない苦痛が脳で弾け、胃を吐きたくなる刺激に足を閉ざす。荒い息遣いを幾度か繰り返し、ようやく容態も落ち着けば改めて身体を見下ろした。
あちこち触れてみれば、以前より格段に柔らかみが減っている。オーガを彷彿させる弾力が拳で感じられ、身体も幾分か重い。
それからしばし目を瞬かせるや、最後に胸板を揉んだところでパッと顔を上げた。
「……ウーフニール、すごいぞ!足元がよく見える!」
《感想はそれだけか》
肩越しに声が聞こえ、首を僅かにひねればトンビが肩に掴まった。咄嗟に伸ばした手を引っ込め、もう1度自分の姿を確かめるが新たな発見は無い。
念の為に身体を動かしてみるが、特に支障がない事も確認でき、やはり胸が無いという感想しか浮かばなかった。
ふいにトンビが羽ばたけば、前方の木に立ち止まった。途端に彼の視界を通してアデランテが映り、全身が隈なく観察できるようになる。
感嘆を上げながらクルリと回転すれば、鏡像の自分も同じ動作を繰り返す。
改めて見れば、胸以外にも肩が張っている印象を受け。だがもっとも注意を惹いたのは、首から目元まで覆ったマスクだった。
息苦しさや窮屈さは感じられず、“世を忍ぶ仮の姿”が一層促進される。着け心地も一切無く、その場で飛び跳ねたい衝動を精一杯抑えた。
「…いつもの言葉で悪いけど……やっぱりウーフニールは凄いんだな!見てみろよッ…いや、お前が変身させたわけだから今更だろうけど、それでも見てくれ!!」
《うるさいぞ》
浮かれるアデランテを尻目に、彼女の声から逃げるようにトンビは飛び去っていく。森の奥へ消えた後ろ姿を名残惜しそうに見送るが、ウーフニールが振り返る事はない。
しかし青い煙の道筋が彼の去った方向に伸びれば、途端に笑みを浮かべて走り出した。
慣れた足取りで茂みを突き進みつつ、消えたウーフニールを探して周囲を見回す。
【…何をしている】
「うぉっ!?…あ~、その…なんだ。せっかく姿も変わったんだし、鳥をそのまま肩に乗せて悦に浸りたかったって思っただけだよ。それにしても性別まで反転させられるとは、変幻自在の名に恥じない能力だな」
【肉体に装備を生やす応用に過ぎず、変幻自在ではない。この眼が届き、聞き、認識した事象にのみ全ては限られる】
「それでも十分すごいだろ?……でも応用できるってことは、男を摂り込んでもソイツの女バージョンに変身できるって事か?」
【貴様限定だ】
「私限定かぁ…そうか……むふふふぅ」
不敵な笑みにウーフニールの疑問符が浮かぶも、アデランテの思考は訓練終わりの団員時代まで遡っていた。
皆が涼みに湖へ飛び込む中、同じく汗を流すべく装備を脱ぐ直前。訓練の成果とばかりに一糸乱れぬ。
そして纏わぬ姿で団員に押さえ込まれ、口にされた言葉が「あとで入ってくれ!」。
苦楽を共にしてもその時ばかりは肩身が狭く、仲間外れにされた子供のように。1人寂しく専用風呂に浸かった日々が目に浮かぶ。
「…今なら止める奴もいないだろうな」
性別の問題は解消され、止めてくれる団員も今やこの世にいない。つい溜息を零せば幾分か歩みが遅くなってしまったのだろう。
腹底を揺さぶる声が“元に戻す”か問うてくるが、儚い笑みを浮かべて首を横に振った。
「マスクもカッコいいし、このままで全く構わないさ。素性を隠すのに性別を偽るほど適した隠れ蓑はないだろ……それにしても急にどうしたんだ?男の姿になんか変えて。ご褒美の力の一端か?」
【女の姿は山賊の凶暴性を刺激する。仕様を変え、反応を多少軽減する事に成功した】
「それでも多少なのか。事情は分かったし文句も無いけど、一応私の身体でもあるから一言相談してほしかったかな」
【した】
「…へっ?」
【相談はした】
無機質な声音で言われようと、ほぼ地下で修行していた身。会話を交わす機会は少なく、首を傾げて反論しようとするや――。
[――好きにしてくれ。もう少しで奴に勝てそうなんだ!]
突然脳内で再生された自らの声に、失速していた足を完全に止めた。
[現状貴様に勝算があるとは思えないが、性別の転換に関して…]
[悪いけど今はアイツを倒す事だけに集中したいんだッ]
[変異後における肉体的機能の差異を…]
[だから好きにしてくれって!これからアイツをギッタギタにしてッ――]
威勢の良い声が終わるや、あとには気まずい沈黙だけが風と共に吹き抜けた。
確かに声は嫌という程聞き覚えはあるが、首を傾げた所で文字通り身に覚えがない。
「……まったく記憶にないんだけど」
【貴様が鍛錬を始めた1ヶ月27日経過時に確認はした。相違はない】
「別にお前と記憶力勝負するつもりは毛頭ない…ちょっと待て。1ヶ月?23回しか戦ってないはずじゃなかったのか!?」
【後半より1度の戦闘で3、4日以上費やすようになっていた。連敗は喫せど、実力は大幅に向上している】
――連敗。
心を抉る言葉に身体がぐらりと傾き、1歩踏み出して無理やり持ち直した。
ウーフニールに全てを任せてまで武者修行をした成果は、負けに次ぐ負け。挙句に2ヶ月近く有しても結果を覆せなかった事実が、肩に重く圧し掛かった。
だが実際に肩へ乗ったのは、知らぬ間に居座っていたトンビで。小さな首をグッと傾ければ、生まれ持った天性の眼光がアデランテの顔を覗き込んだ。
その様子に気付けば微笑みを浮かべ、茶に染まった柔らかな頭を自然と撫でていた。
「やっぱり魔物には敵わないんだろうか…ほかの冒険者はどうやって対峙してるんだろうな。一方的に蹂躙されてるようじゃ、とうの昔に人間の住処は消えてるだろうし」
《通常は5、6倍の体格差を有する敵に、単身かつ武器1つで挑む真似はしない》
「それが私の目指す理想像だからな。曲げる気はないぞ!」
《……ならば次の町は貴様の経験則を蓄える良き苗床となるだろう。冒険者発祥の地とも呼ばれている“ギネスバイエルン”の街だ》
「…冒険者の?」
撫でる手を止めた隙に頭を引っ込められるが、注意はまだ見ぬ街に移っていた。
発祥、と呼ぶからには多くの冒険者が集うはず。
騎士団では学べなかった技術。
技法。
道具。
文化。
様々な経験を得られる機会に胸が高鳴り、気付けば森を駆け出していた。足場を失ったトンビは虚空で羽ばたき、やがて追いつく事を諦めて別行動を選ぶ。
その間に道なき道も、急な坂もアデランテは悠々と飛び越えていく。
立ち塞がる物は大岩だろうが、小川だろうが迷わず青い煙を辿って突き進み。仮に敵と遭遇しても、一太刀浴びせて通り過ぎていたろう。
「冒険者発祥の街か…きっと築かれるまでに裏で熱い物語があったんだろうな!」
【傭兵集団がより効率的に稼ぐべく、民営化したのが始まり】
「…思ったより夢がない話だったな。聞かなきゃ良かった」
落胆しつつ言葉を続ける彼に聞き入れば、情報源は山賊であった事が明かされる。
彼らは大半が元冒険者だったらしく。途端に雲行きが怪しくなる話に顔をしかめる一方で、事実は事実として冷静に受け入れていた。
エルメスやジェシカが路頭に迷う反面、2人を裏切った元パーティメンバーは、ゴロツキ同然まで落ちぶれていた。
さらにギルド受付のキャロラインが、困った顔を浮かべて交わした雑談も思い出す。冒険者業は“一攫千金も夢ではない”とはいえ、本業は魔物退治に留まらない。
新天地や遺跡の探検と発掘。
要人の護衛。
遠方の村に出向いて事件解決。
なんでも屋であるがゆえに仕事の幅も広く、依頼がうまく続けば夢が見られる。そして1歩踏み外せば悪夢が待ち受け、リスクも栄誉も全ては運任せ。
冒険者が一財産を築く話も珍しくなく、ゆえにギルドへ足を運ぶ者は後を絶たない。
求めるのは栄光か。
富か。
力か。
概ね三極化する冒険者の中で、アデランテは3つ目の部類に入るだろう。騎士団時代はもっぱら“食”を求めていたが、見えざる第4の選択肢はなおも健在である。
束の間の思い出に微笑み、やがて深い茂みを抜けて坂道を滑り降りた途端。腹底を揺さぶるウーフニールに思わず顔を上げれば、微かな賑わいが遠くから聞こえてきた。
目と鼻の先に迫った営みに胸を弾ませ、獣の如き速さで移動を再開する。
「…ウーフニール。最後に町を離れてから、どれ位時間が経ってるんだ?」
【2ヶ月と16日】
「書庫に閉じ籠もった最長記録だな…じゃ、2ヶ月ぶりにウサギの毛皮を被るとするか」
当分はオーベロンの操り人形ではなく、キツネとして。冒険者として生活を営める。
それだけの事に満面の笑みを浮かべれば、徐々に開けていく森が頭上を照らし。やがて明かりが惜しみなく差し込む前方から、密集した建物の裏側が連なって見えた。