080.水面漂う剣戟の乙女
軋む音を響かせる木々を心配し、草花がザワザワと騒ぎ出す。だがソレらの声も唐突に踏み潰され、折られ。
瞬く間に蹴散らされては、もはや他人事では無くなる。
粗暴な足運びの主は緑色の悲鳴に耳を傾ける事なく、また聞く余裕も無い。荒い息遣いを繰り返し、焦燥し切ったまま素早く振り返った。
――フっシャーーーーーーーッ!!
直後に木々が砕かれ、巨大な魔物がアデランテを見下ろした。
太い2本足は頭上の木々に頭を突っ込む程の巨躯を支え、4つの二回り小さな腕が木々を左右に押し開く。
口の左右に生えたハサミはギチギチ鳴り、それまでアデランテと睨み合っていたのも束の間。ハサミを閉じたまま走り出せば、即座にその場を飛び退いた。
直後に背後にあった岩ごと魔物が破壊しながら突進し、立ちはだかる障害を薙ぎ倒しつつアデランテを追う。
再び追いかけっこが始まったが、ふいに踵を返せば魔物の足の間をすり抜け。すれ違い様に関節を剣で叩きつけても、効いている様子はない。
幾らか落胆を覚えたが、戦闘において失敗を引きずるのは愚策。すぐさま反転して地を這う魔物の背中に飛び移り、頭部を目指して一気に駆け出した。
途端に左右に開かれた甲殻を慌てて掴み。危うく弾き飛ばされる所だったものの、身体を翻せば再び元の行程に戻った。
程なく魔物の頭上に到着するが、顔は背中の外殻同様に剣が通じない事は把握済み。ならばと頭を可動させる柔らかな首を狙い、全体重を乗せた回転切りを魔物に放つ。
だが斬り口は思いのほか浅い。滑りやすい足場に下半身の踏ん張りが利かず、無用な挑発で終わった一撃は魔物を激怒させただけ。
途端に首を振り回せばアデランテは宙へ投げられ、そのまま木に背中を打ち付けた。強烈な衝撃に呼吸が止まり、咆哮を上げた魔物がハサミを広げて突進してくる。
通過する全ての物体を粉砕しながら。やがて閉じられた刃を避けたつもりが、がっちり肩口を挟まれてしまう。
もっともハサミを躱したところで、魔物の巨躯に押し潰されるのが関の山。敗北必至の戦況に瞳を閉ざし、思わず深い溜息を吐く。
それから瞼を開けばハサミはそれ以上食い込まず、時間を止めたように魔物も動かない。
「……だぁーッ、またダメだったか!」
しかめっ面を浮かべるアデランテを合図に、突如世界が歪み出す。周囲を覆っていた一面の緑も、巨大な魔物も淡く透き通っていく。
次には耳元でゴポゴポ音が聞こえ、足元から一気に水がせり上がってきた。風や木々のざわめきも途絶え、呼吸をする度に泡沫が零れても息苦しさはない。
いくらか浮遊感を覚えながら立ち上がれば、肩を回しつつ様変わりした景観を一瞥した。
その光景はまるで水槽の中にいるようで。腕を伸ばせば水が纏わりつく感触が伝わっても、濡れる気配はない。
冷たさもなければ、腕をゆっくり降ろすと目の前を魚がスイ~っと横切っていく。
思わず声を上げそうになったが、魚は無警戒に漂うだけ。透き通った身体には、虹を蓄えたような色彩が垣間見える。
好奇心に勝てずに再び手をかざすが、魚はそれでも進路を変える事はしない。そのまま掌に触れるや、スルリと吸い込まれるように通過して泳ぎ去ってしまう。
ウーフニールには“空間投影の産物”と説明されていたが、実際に体験してみるまでは全く理解できなかった。だが改めて空間に身を置けば、言わんとしていた事を身体で把握した。
先程見た森も。
魔物も。
すべて“透明な色彩魚”が創り上げた、仮初の世界に過ぎない事を。
「それで音や質感まで再現できるんだから凄いよなぁ…それに衝撃も」
感心する間も片腕は触れる事のない魚に伸ばされ、残る一方は労わるように肩を擦った。しかし苦虫を嚙み潰したような顔を歪めれば、痛みは残らずとも木に打ち付けられた記憶は脳裏に刻まれている。
敗北の味もいまだ新鮮で、修行不足に肩を落としながら歩き出す。水中独特の抵抗は感じるが、動きを阻害されるほどではない。
陸上を闊歩する要領と変わらない、不可思議な感覚に囚われながらも、視界の端まで広がる水中世界をゆっくり堪能していく。
地面から突き出た数々の岩棚には、ぽっかり開いた空間に本が詰められ。手近な棚から1冊引き抜けば、表紙は硬くて中も分厚い。
子供が読むには厳しい大きさだが、問題なく片手で開けばページをパラパラめくった。
紙は1枚として濡れておらず、文字も薄れる事なくはっきり目を通せる。
「…筋肉繊、維のしゅう…収縮に伴うがいこ、外骨格?へ作用する……」
――パタンっ。
一行も読み終えない内に本を岩棚へ戻し、ほかの陳列物をザッと一瞥する。
岩棚に収納された本の内容は殆ど同じで、次の書物を取る気にもなれない。無念そうにその場を後にしつつ、もう1度一帯を見回す。
水。
色彩魚。
砂地の床。
水草の巻物。
書物が収められた岩棚。
ありえない空間だとは理解しているが、どうしようもなく惹きつけられる幻想的な世界に。柔らかな床を無意味に転がり、しばし戯れたい心境も空腹に邪魔されてしまう。
再び歩き出せば支柱のない螺旋階段に行き着き、段差を快活に昇っていく。最後に手すりを掴み、名残惜しそうに空間を見収めれば、向かう先は行き止まり。
直前で足を止めれば、頭上の落とし戸をゆっくり押し上げた。
「……ただいまー」
身体を引き上げ、ポツリと呟いて辺りを見回すが誰もいない。濡れてもいない衣服を反射的に払い、円卓に近付けばソファにどっかり腰を落とした。
1階のスペースは各段に広がり、オーベロンによる祝福の恩恵なのか。
床を占めていた円卓が寂しくすら感じられたが、今や寝転がれるソファまで置かれている。
背もたれに身体を預け、頭上を仰ぎ見れば天窓からは朧げな明かりが差し込み。照らされた吹き抜けの階層には、無数の本棚に各階へ続く螺旋状の回廊が映る。
見慣れた光景は何度見ても心を癒し、臓書ほど安らげる空間はこの世に存在しないと確信を持たせる。
「…なんだかんだあっても、ココが1番落ち着くんだよなぁ……ウーフニールはどこに行ったんだ?」
天井を仰ぎ見ながら階層を一瞥するが、視線を泳がせても姿は見えない。そのまま横に倒れるとうつ伏せのまま、落とし戸にジッと視線を向けた。
地下へ続く階段はフェイタルの町を彷彿させ、領主の館ではガラスケースが。黒幕の店では白銀のセラフが待ち受けていた。
だがアデランテの腹底には、幻想的な水槽が広がっている。
優越感にほくそ笑むも、一方で“改装”される度に大切な物が失われているのも事実だった。
「……自覚がないだけマシ、か」
【何がだ】
突如聞こえた声に跳びあがり、咄嗟に背もたれを掴んで転がり落ちずに済む。振り返ればソファの裏に黒檀色の巨塊が佇み、無数の瞳をいくつも向けてきていた。
子供ならば一目で失神する光景だが、アデランテが臆する事がない。むしろ苦言を呈すべく起き上がるや、何本も生えた黒い腕の1つが円卓まで伸びる。
途端に機嫌を直したアデランテも居住まいを正せば、置かれた本を見下ろし。独りでにめくられたページが光り輝くと、豊潤な香りが漂う鳥の丸焼きが現れた。
「…ッッいっただっきまーす!!」
自分の声を合図に即座にかぶりつくや、三日三晩食事を抜いたように鶏肉の脂身を味わった。ゴブレットを一気に飲み干せば、甘いリンゴの酸味が口内に広がっていく。
疲労も一緒に溶ける感覚に身体を椅子に沈め、空き皿は本が閉じられると同時に消えた。
「ふぅ~……また負けちまったよ。これで何回目だ?」
【23戦23敗】
「くっそ~、急所を狙える所まで詰められたのは良かったんだけどな。リーチの差がありすぎると正中線は狙いにくいから、一撃を末端に移しても身体が硬いし…でも武器の切れ味だけの問題でもないし……んむぅ…」
【進展はないようだな】
「少なくとも書庫に上がってくる時、顔を押し戸にぶつけなくなったぞ。前は景色見ながら歩いてたから、毎回頭をぶつけてたしな」
嬉々としてアデランテが語れば、ウーフニールは本をさらって書架に戻っていく。
その間も2つの目で追うのは、臓書の管理者ただ1人。広大な空間を縦横無尽に動き回り、棚に腕を伸ばしては本に眼を通している。
他の手も別の書物を開き、別の眼が熱心に読み耽っていく。
見るもおぞましい姿形であるはずが、本を読む様はどこか洗練され。幾度眺めても飽きない光景は、しかしウーフニールの眼がギョロリと見つめ返せば、決まって顔を逸らしてしまう。
気まずそうに視線を泳がすが、再び盗み見れば彼は書架の奥へ移動していた。
憤慨したわけではなく。ただ別の書物を取りに奥へ入っただけだろうが、人が美味しそうに食べていると空腹を覚えるように。
読書家の彼を見ていると、自身でも本を読みたくなってしまう。
居ても立っても居られず、すぐさま回廊を登ると真っすぐ2階まで足を運び。途中で鉄柵に寄り掛かって見上げれば、5階に消えたウーフニールの姿は無い。
当分は彼の邪魔をする心配もなく、手前の本棚を左右上下。不規則に見回して1冊手に取れば、ページを軽くめくっていく。
活字だらけであれば元の場所に戻し、別の列に目を通せば挿し絵調の本を発見。早速読み込めば、中身は鳥の食生活が書かれていた。
ウサギにネズミ。
他の小鳥や消化を助ける薬草や花。
どこで食べたか。
寝床に適した穴場など、淡々と書かれている。
数分と経たずに“読み終えた”ところで満足そうに1階に戻るが、降りる途中でふと落とし戸が視界に映った。
記憶を再現する広大な仮想空間は模擬戦闘も可能にし。従って岩棚に収められた本は、すべて〝動作”や“環境”に関するものばかり。
活字の多さと内容の難解さに、いまだ一行以上の文章を読めた試しがない。
かと言って今降りたところで、“ギガントシザース”に再び敗北するだけだろう。
持て余した時間にしばし悩んだ末、そのまま自室へと。管理者のウーフニールすら入らない鉄の扉を潜った。
視界に飛び込むのは甲冑や武具。
子供部屋のような空間の小棚には、数十冊の絵本が収められている。
すかさず傍に座り込めば1冊。また1冊と手に取り、吟味するように文字を読んでいく。
内容は物語。
訓練。
戦場。
食事。
物語。
また訓練。
子供が読めば1度で飽きそうな内容に、それでも懐かしみながら目を通す。そしてようやく満足すれば、大の字に転がって天井をボーっと眺めた。
心の内に籠ってからというもの、最近の日課は戦闘訓練の後に食事休憩。それから気晴らしと魔物対策の発見を兼ねた読書をするが、いずれも騎士団の頃と生活は殆ど変わらない。
だと言うのにかつてない穏やかさについ笑みが綻び。やがて部屋に飽きれば起き上がり、扉を出る前に背後を名残惜しそうに振り返る。
すると本棚から飛び出した絵本が目につき、瞬く間に戻ればいそいそと小棚に戻す。
以前なら次の来訪時に直していたろうが、急速に心のわかだまりが溶ければ笑みがまた浮かぶ。
「…私もウーフニールに似てきたのかな……さて、今度はどう立ち回ろうかな…そうだ。ハサミを利用して…厳しいか」
気力が漲った所で向かう先は仮想空間。策は1つも浮かばないが、今ならどんな魔物でも倒せる気がして意気揚々と進んだ。
だが意欲が続いたのも、小棚から扉へ向かうまでの数秒だけ。扉を閉め、振り返った途端に黒檀の怪物が目と鼻の先で立ち塞がっていた。
無数の眼玉がアデランテを捉え、心臓が止まった気がしたのは錯覚ではなかったろう。