074.序曲
目を瞬かせ、仰向けに倒れていた自身に疑問を覚えると唇を僅かに動かす。
「…既視感、ってやつか」
ウーフニールを摂り込んだ時とは環境が異なり、全体が極めて無機質な眺めであったが、それでも全身の脱力感が彼との出会いを彷彿させた。
当時は鳥や木々の囀りが聞こえたものの、耳を傾けたところで何も聞こえない。頭上高くにあった脱出口はさらに遠ざかり、ガラスケースも残骸だけがぶら下がっている。
ようやく身体を起こせば辺りを見回すが、どうやら“観客席”の只中に落下していたらしい。
周囲には大小様々なガラス片が散乱し。床に突き刺さっている物もあれば、椅子やテーブルを砕いた物まである。
あるいは横薙ぎに倒され、無傷の物はごく少数。何もかもが血に染まった空間は、かつての優雅な趣きが微塵も残されていない。
【――…いつまで呆けている】
唐突に腹底を揺さぶった声に、ビクッと肩を震わせる。それと同時に落ち着きを取り戻せば、後押しされるままに立ち上がった。
「……一体なにがあったんだ?」
【どこまで覚えている】
「んー…食べられてる時に鐘の音が聞こえたくらい……身体!私の身体ッ」
ハッとなって全身をまさぐるが、傷口はまったく見当たらない。
サーコートの下に着る鎖帷子の感触に、その上からも主張する胸や腰のくびれ。そして咀嚼されたはずの肉体は撫でた先々から感じられた。
圧倒的な回復力に喜ぶべきなのだろうが、複雑な心境で溜息を零せば、再び見回した部屋に観客や領主はおろか。オーガすら不在の空間に首を傾げた直後。
突如白い霧が視界を覆い、ガラスケースに閉じ込められたオーガの姿が映った。
頭を抱えながら絶叫する様子から、鳴り響く鐘の音に苦しんでいるのか。全身を乱暴に振り回せば、そのままガラスケースに我が身を叩きつけ始めた。
剣筋も通さない皮膚は徐々に裂け、鮮血も一帯に撒き散らされ。もはや狂気に侵された行動に畏怖すら覚える最中――ビシっ、と。
歪な轟音に混じって氷が弾けるような音が木霊すれば――ビシビシっ、と。
透明な檻に走ったヒビが倒れたアデランテまで広がった途端、堰を切ったように底が粉々に砕け落ちた。
雷鳴が如き残響を轟かせ、鋭利なガラスが雨となって観客に降り注ぐ。
[……う、うぅぅっっ]
[キャーーーーーーーーっ!!]
[来るな来るな来るっ…]
それからは阿鼻叫喚。そして一帯は血の海に沈み、晩餐会は瞬く間に地獄絵図と化した。
降り注いだガラスは触れる物すべてを貫き、命を落とさずに済んだ者も、猛威を振るうオーガに次々捕食されていく。
その間も命乞いをする声や耳障りな咀嚼音が響くが、一方で先程の咆哮が嘘のように。落下の衝撃で骨が突き出し、傷だらけになろうとオーガが声を発する事は無い。
ただ無言で観客に腕を伸ばす様相を収めながら霧が視界を包み、再び“宴の後”が眼前に広がった。
「…あの騒ぎの中で良く寝てられたもんだ」
ひとまず状況を理解したところで足元を見下ろせば、真っ二つに折れた机の上に佇んでいた。
オーガと共に落下した際、アデランテが着地先で受けた衝撃を刻々と物語り。呆れるように頭上に視線を移せば、ガラスケースの残骸が僅かに天井でぶら下がっていた。
「…上から見ても高いなぁ、とは思ってたけどさ。あの場所から落ちてよく生きていられたもんだな……下の連中は全員オーガに食べられたのか?」
【半数は捕食され、半数は檻が落下した時点で死に体だった】
「死体まで漁るとはずいぶん腹が減ってたんだな」
【屍はウーフニールが喰らった】
「え゛っ…」
途端に表情が固まり、腰を撫でていた手をソッと腹に回した。受けたダメージに関わらず、心なしか身体の調子が良い。
“血肉の補充”と以前述べられた言葉に血の気が引いたが、それでも踏み出せばガチャリと。割れたガラスの上を踏み歩き、無人の会場をサッサと離れる事にした。
奥に見える両開きの扉の内、片側がへし折れて床に転がっていたが、オーガの血は点々と外まで続いている。
逃げた生存者を追ったか。単純に狂ったまま会場を後にしたのか。
血痕を辿るアデランテが首を傾げれば、耳元に領主1人と女中4人の脱出劇が語られた。
「う~ん、客を見捨ててトンズラか…まぁ仕方ないんだろうけどな」
祭壇の横を通り際に一瞥すれば、ワイングラスはすべて砕けていた。魔物を制御できない彼らが、オーガに立ち向かえるはずもないだろう。
警戒しながら開けっ放しの扉を抜け、狭いながらも豪華な廊下を通っていく。しかし散乱する血や、めくれた絨毯。
そして等間隔に壁から突き出した燭台が所々ねじ切れ、優雅さは微塵も残されていない。凝った内装から察するに、催しはこれからも続けるつもりだったのだろう。
呆れて物も言えないが、文句の矛先は今頃オーガに追われているはず。気持ちを切り替え、結果を見届けるべく血痕を追っていた矢先。
――ドォォォオンンっっ…
壁が震え、パラパラと土埃が天井から舞う。遠方から伝わる振動に駆け出せば、短い廊下や階段を渡って徐々に音源に近付く。
やがて抉れた廊下の角を曲がった先。嗅ぎ覚えのある異臭に身構えたが、目当ての魔物はアデランテに反応を示さない。
ただ眼前の扉を無心で叩き続け、それでいて力強さは感じられず。扉を撫でるように拳を押し付けるだけで、当初聞こえた地鳴りは息を潜めていた。
武器を抜けばオーガに近付き、剣先で軽く背後をつつく。それでも反応は無く、堂々たる無視っぷりに物寂しさすら覚えてしまう。
「…一体どうしたんだ?おーぃ、さっきまで叩きのめしてた相手なら後ろにいるぞ。まさか忘れたわけじゃないだろぉー…反応なしか」
【恐らく忘れている】
「なんだと?」
不可解な発言に顔を上げるが、ウーフニールと目を合わせられるわけでもない。
代わりに扉から離れないオーガを恐る恐る。距離を取りつつ覗き込めば、顔や歯はボロボロ。
腕も辛うじて形を保っているだけにも構わず、扉を殴り続けて血で染め上げていた。
瞳からは野性味も感じられず、かといって洗脳されていた時のギラつきもない。敵意どころか生気すら宿さず、白みがかった眼には扉が映っているのかも怪しかった。
しかし口周りや身体中にこびりつく赤黒い液体は、アデランテが意識を失った後の凶行を鮮明に物語っていた。
今ならば敵も隙だらけだが、そこはかとなく漂う不気味さに。何よりも勇猛果敢に挑戦し、そして破れたからこそ覚えた哀愁に剣を振るう事が躊躇われる。
【何をしている】
「……負けたとは言っても、勝者がこんな姿じゃ喜びようもないだろうと思ってな。鐘の破壊力には恐れ入ったよ」
【記憶を欲し、喰らい、絶え間なく変化する怪物の一部を喰らえば当然の結末だ】
「…何が“当然”なんだ?」
【貴様の不手際によって奪われた肉体は、血肉になること無く記憶を貪るに至った】
「不手際って…まぁ、そこは謝るけどさ。今の言い方だと食べられた私らの身体が、勝手にコイツの中で動いたように聞こえたぞ?」
【認識に相違はない】
「…なら今のコイツは記憶も何もない魔物ってことか?」
【恐らく生物であった事すら自覚していない】
「……質の悪い食当たりに遭ったってところだな。ご愁傷様」
眼下で手を振っても認識されず、扉を叩いている理由すら忘却しているのだろう。ガラスケースでの暴走も、記憶を奪われる恐怖への最期の抵抗だったのかもしれない。
そして観客を捕食したのは、外部から記憶を補完しようと試みた結果なのだとしても。人形然となった敵の成れの果ては、いつか訪れるだろうアデランテの最期と重なって見えた。
「…なぁウーフニッ」
【知らん】
「私の記ッ」
【興味はない】
「…~ッちょっとくらい真剣に聞いてくれてもッッ」
【肉体の再生に伴う素材を補充すべく、対象の搾取を開始する。問題はないか】
有無を言わせない声音に反論できず、諦めて頷けば黒いモヤが吐き出されていく。
気道を塞がれ、相変わらず息苦しくなる行為に涙が浮かぶのはいつもの事。だがオーガは怯える様子もなく、モヤに姿が消えるまで扉を叩き続けていた。
それから喉が膨らめば腹底にウーフニールは沈み、巨体がアデランテの体内に収まった不思議に首を傾げる一方で。
鉄扉に近付いて耳を澄ませば、中から複数のすすり泣きが聞こえてくる。
試しに扉を叩くと悲鳴が洩れ、「がぁぁあーーッ」と子供を脅かすような声にも、絶叫で反応する様子にクスクス笑う。
足元に落ちた山羊のマスクから、その先に領主が立て籠もっている事は明白で。最後に数度乱暴に叩いて離れると、扉向こうから棚や壺が壊れる音が響いた。
【喰らわないのか】
「正直小物っぽいし、放っておいても大丈夫だろうよ。それに私がオーガにムシャムシャされてるトコはバッチリ見てたはずだから、2度と会わなきゃ死んだと思ってくれるさ」
【……白銀のセラフの処分。鐘を打ち鳴らす事で終わりを迎えたのか】
「領主が言った通りなら、今頃町中のガラス細工が壊れてるはずだから、天使も歌う暇はないだろうよ。ところで修道女様の方はどうなった?鐘をうまく鳴らしてくれたのは知ってるけど」
【名の記憶を放棄したな】
「…それで、どうなんだ?」
鋭く切り込まれた言葉に咳払いで誤魔化せば、直後に視界の端から四角い画面が拡大される。
再生される映像の中で、最初に浮かぶのは女中コルテリアの妨害。それから庭園のガラス人形に襲撃され、森林を強行突破したジェシカが鐘を鳴らし、衝撃で崩れた教会に呑み込まれていく光景が流れていった。
「――…おい、ちょっと待て!!最後の方、すごい事になってたぞ?彼女は大丈夫だったんだろうな!?」
【瓦礫から引きずり出した。命に関わる負傷はしていない】
「…そうか」
ホッと胸を撫で下ろしつつ、ほぼ1本道の通路を歩む。巨大な鉄扉に辿り着けばあっさり開き、厨房へ出ると一瞬空腹感を覚えた。
しかし腹の音を抑え、早足でその場を離脱。再び廊下に出れば、砕けたガラスの展示品を通り過ぎていく。
その足で庭園に出るが、一帯はもぬけの殻も同然。薄気味悪いガラスの彫像は1つとして無く、やっと落ち着いた情景が眼前に広がった。
【どうした】
小道を半分進んだところで、星を覆い隠すような声音が腹底から響く。
「…どう、って何がだ?」
【魔物を喰らった際、貴様の中で冷気が漂っていた。何を考えている】
「……お前には隠し事ができないな。冷気の方は…くだらない事が思い浮かんだだけさ。気にしなくていい…だけど、そうだな。もう少しだけ私に付き合ってくれないか?」
言わずとも追従する以外に彼には道がなく、無言の了承を得るとクスリと笑う。それから月がいまだ昇る夜空へ消えるように、颯爽と庭園を走り抜けて行った。