073.冒険者ジェシカ
――教会の鐘を鳴らしてくれッ!
突然耳元で囁かれたアデットの提案は、到底理解し難い物だった。答えを得るまで問い詰めたかったが、透明な檻から早々に脱出したかったのも事実。
何よりもジェシカ自身が役に立てず、残るだけ無駄な事も重々承知していた。
だからこそ彼女の期待に応えるべく。ひたすら手足を動かして登り続けたが、垂直の壁を匍匐前進するなど人生で。
むしろ誰も経験した事が無い強行軍に加え、下方に引き寄せられる錯覚が常時ジェシカの進行を妨げる。
とめどなく流れる汗を拭いそうになるが、その度に慌てて壁に腕を押し付けた。
自分に何度言い聞かせても、咄嗟の習慣は中々止められない。ホッと一息吐きつつ、改めて腕に巻きついた白い糸を一瞥した。
「……これ。何で出来てるのかしら…?」
壁に付着させれば人の体重を容易に支え、こんな代物をどこで入手したのか。そもそも何処に、どうやって隠していたのか。
山程浮かぶ疑問は、頼み事を終えてから全てアデットにぶつければ良い。それに身体を支える程の粘つきが顔に触れようものなら、何が起こるか容易に想像できる。
気を引き締めて登攀を再開するが、ふいに冷たい感触が首筋を撫でた。思わず悲鳴を上げそうになり、両腕と足が張り付いていなければ落下していた事だろう。
しかし慎重に片腕を剥がし。髪に触れないよう細心の注意を払って掴んでみれば、やがて指先に伝わる形状に振り返った。
暗闇に慣れた瞳が1本のロープを捉え、反射的に掴まろうとしたところでピタリと静止する。
それから四肢に巻かれた布を糸ごと脱ぎ捨て、思いきってローブにぶら下がった。
全裸同然で這うように登り続けたおかげで、すでに身体はボロボロ。胸を始め、壁に擦り付けた素肌がヒリヒリと痛んでいた。
だがロープを使えばソレらも改善される事を期待したが、自重を支えてくれた糸はもう無い。判断を早まったかと半ば後悔しつつ、決して止まらずに上を目指した。
もっとも始めて早々に腕は痺れ出し、足も蒸れて気持ちが悪い。溜息とも息切れとも区別できない空気が、常に肺を掻き毟っていく。
視界も霞み、いっそ全てを手放したくなる気持ちが脳裏をよぎった刹那。ふとロープの先が見えなくなれば、最後の力を振り絞って“ふち”に手を掛けた。
登り始めてやっと遭遇した取っ掛かりに掴まり、全身全霊で身体を持ち上げれば、そのまま仰向けに身を投げ出す。
何度も肺に空気を送り込むが、レンガ造りの天井では今1つ旨味が感じられない。それでも達成感が全身を隈なく巡り、思わず笑みが綻んだ。
「……ま、魔法で、体力も回復…できればいい、のに…」
胸を膨らませては萎ませ。手足が上げる悲鳴も無視してひっくり返れば、うつ伏せの身体を徐々に持ち上げていく。
やがて壁に寄り掛かると、重い身体を引きずって出口を目指すが、通路の長さはまるで分からない。
それでも垂直に登るよりも楽だと自分に言い聞かせ、永遠に感じる平坦な道を進んでいた矢先。
唐突に前方が明るく照らされたが、出口が見えたわけでもなければ、太陽光でもない。朧げに揺れていたのはロウソクの灯りだった。
「…ジェシカ様。申し訳ございませんが、途中退場は認められておりません」
行く手には若い女中が立ち塞がり、空いた手には銀に輝くナイフが握られている。
カツンっ、と1歩迫ればぺたんっ、と1歩下がる。
武器はおろか、満足に服すら着ていない身で。それも自身より背丈のある相手に勝てるだろうか。
――…危険だと感じたら迷わず隠れろ。隠れる場所がなければ死に物狂いで逃げろっ。
かつて所属していたパーティの助言がよぎり、また1歩下がった一方で。
――回復魔法があるなら多少の無茶は押し通せるんじゃないか?
そう告げたアデットの飄々とした顔が続けて脳裏に浮かぶ。
焚火を起こしながら口走った彼女を、無責任だとエルメスは嗜めていたが、そんなアデットもジェシカを投げ飛ばし。
死地へ堕ちていくというのに笑みを浮かべ、力の無い回復士に全てを託してくれた。
1歩下がった足を力強く押し込み、息を整えればキッと女中を睨む。致命傷さえ受けなければ刺し傷の1つや2つ。きっと耐えてみせる。
「………そっ」
「…そ?」
「そこを、どいてぇええーーー!!」
防御も何も無い。攻撃すら念頭に置かず走り出せば、女中の脇をすり抜けるように突進した。
もしも体力が全快であれば、あるいは彼女の計画も現実味を帯びたかもしれない。
「んんっっ…はなして!!はなしてよぉっ!!!」
「申し訳、ございませっ…んがお戻り願います」
目を瞑った決死の行動も、身体が半分も過ぎる前にあっさり女中に囚われた。
それでも腕を。
肘を。
足を。
全身を使って抵抗し、その度に女中の身体を殴打した。しかし床へ落ちたロウソクが遠ざかり、元来た道に押し戻されている事を思い知る。
必死に踏ん張っても力負けし、なけなしの体力もみるみる消耗していく。
このままガラスケースへ戻されたところで、アデットは決して責めないだろう。その時にもきっと浮かべる彼女の笑みが余計に突き刺さり、汗に混じって涙が頬を伝った。
所詮は非力な回復士でしかないのか。後方支援に慢心せず、冒険者として体力をつけるべきだったと。
とめどなく後悔が押し寄せるも、ふいに抵抗が無くなると投げ出されるように倒れ込んだ。
顔を擦るよりも通路内に響く悲鳴が注意を惹き、すぐに起き上がると同時に、女中の首筋に噛みついたキツネの姿を捉えた。
彼女がいくら暴れ、押し返しても黄昏色の獣は離れない。
ロウソクの明かりが迸る鮮血を照らし、通路を赤く。怪しく染め上げていった。
「…やめ、やめて……やめてあげてっ!!」
野生の獣に何故通じると思ったか定かではない。ワシとの経験に毒されたとしか思えない発言をするや、一瞬キツネと目が合った。
ギラつく瞳の矛先が、次は自分に向けられた気がして。不安と恐怖で身体が委縮するも、キツネは女中からパッと離れてくれた。
そのままジェシカたちから後ずさり、しばし見つめると興味を失ったように。踵を返して通路の奥へ去っていく。
唐突な出来事に思考が停止するも、空気の掠れる音が意識を現実に引き戻す。速やかに女中へ駆け寄れば、首を押さえる彼女の手にソッと指を絡めた。
「“穢れた身を清めよ。新たな生に喜べ。我が名をもって命じる。愛しい源の主よ”」
途端に新たな光源が一帯を仄かに照らし、2人に温かみをもたらした。しかし通路の奥から吹き込む夜風は、全裸同然のジェシカを蝕む。
背筋が一瞬震えたものの、それでも残ったローブを破れば、女中の傷口へ当て始めた。
「出血は止めましたが、傷は深いのでもっと時間を掛ける必要があります。でも今は急いでいるので、ひとまず安静にしてもらって、治療はその後に…っ」
「……なぜ…助けるのです?」
説明の途中に手首を掴まれ、辛うじて聞き取れる掠れ声に顔を上げる。女中の首は赤く染まり、呼気もいまだ荒い。
今なら子供でさえ彼女に勝てるほど衰弱し切っていたはずが、弱々しくも真っすぐ向けられた瞳から、不思議と目が離せなかった。
「……そんなこと言ったら、あなただって武器を使わなかったじゃない。怯ませるなり、弱らせるなりすれば、もっと簡単に穴倉へ放り込めたでしょ」
「ゲームの参加者に傷を負わせるわけには参りませんので」
「…なんでこんな事、してるの?」
「村を捨てたあなたには分かりませんよ」
悪びれもなく、冷たい眼差しと言葉を向けられる。一瞬ムッとしたが、代わりに包帯代わりの布切れを強めに縛り上げた。
「うっ……そうでなければ、今頃は町の一員になっていたはずですから。ジェシカ様は隣の村からご両親を探す目的でいらしたと伺っております。いまさら郷愁でも感じておられるので?」
「…怪我人のくせに随分元気になったわね。でも…そうね。捨てたつもりはないけど、逃げたのは確かよ。つまらなくて、刺激が欲しくて。農家の娘に育って、農家の子供を育てるお母さんになって終わるなんて…決まった未来に縛られたくなかった」
「この町に滞在されるのであれば、立派なガラス職人になれるかもしれませんよ?あるいは女中として領主様に仕える道も」
「死んでも御免だわ。それにね、どんなに生まれ故郷から離れたって、何処へ行っても失う物は沢山あるのよ…でも得る物も負けない位たくさんあるんだからっ」
修道院。
冒険者ギルド。
かつての仲間。
エルメス。
そしてアデットと愉快な仲間たち。
悲しい事はもちろん、死に直面した事さえあった。しかし一方で、村を出なければ一生経験できない出会いも溢れていた。
最後に布を縛り、結び目をわざと強く引っ張れば女中の顔が歪む。念の為にもう1度だけ回復魔法を唱え、スッと立ち上がれば目元を乱暴に拭った。
それから裾を持ち上げれば、女中に剣先の如く突き付けた。
「これ、縫ってくれたの。あなたですよね?」
殆ど破けてしまったが、まだツギハギ跡は目に見えて残っている。
かつてアデットがエルメスに手解きをしていた際。相手の目を見れば狙ってくる場所も分かる、と伝えていた話を覚えていたからか。
いざ突進を決意し、無意識に相手の視線を観察していた矢先。女中はローブの下手くそな縫い目をずっと見つめていた。
グッとさらに近付ければ彼女は顔を背け、無言の肯定を示す。
「なんで助けるのかって質問。私が回復士で、元修道女だからだけど…縫ってもらったお礼、で納得してもらえるかしら?」
「…色々見えていますよ」
「これでも冒険者ですから。いまさら恥じらっても…あれ、プレートがない」
「……屋敷に保管されておりますので、用とやらがお済み次第、ご案内差し上げましょう」
戦意を喪失した彼女に、それ以上投げかける言葉はない。落とされたナイフを拾えば、振り返る事なく通路を駆け抜けていく。
ペタペタ走る内に夜風がますます強くなるが、火照った身体には丁度良い。
やがて月明かりが差し込む階段を昇り、勢いよく物置小屋から飛び出すが、脱出を歓喜するにはまだ早かった。
再び走り出せば館へ侵入し、正面扉でガチャガチャ取っ手を回す。ビクともしない鍵に正攻法を諦め、工芸品の1つを掴めば窓ガラスに放り投げた。
途端に盛大な反響音が屋内に響くが、咎める者は皆地下にいる。窓枠に残ったガラス片を砕きつつ、破ったカーテンを足や身体に巻き付けていった。
「…なんか略奪してる気分だなぁ」
状況が状況とはいえ、修道女とは思えない活動に自己嫌悪すら覚える。それでも大義名分を掲げ、首をぶんぶん振れば不気味な庭園を走り抜けた。
長い坂道を下り、やっと湖は見えたが肝心の橋は月明かりに浮かばない。
しかし遠くに見える孤島。何よりも所々踏み抜いたような橋の破片が目印になり、思い切って足を乗せる。すると足裏を確かな感触が押し返し、ホッとしたのも束の間。
ふと聞こえた足音に振り向けば、坂道に人影が朧に見えた。フラフラ歩く様に女中かと思うも、一瞬戻りかけた足が止まる。
1人に見えた人影の後ろからゾロゾロと。群れを成して向かって来る集団に、雲隠れしていた月光が降り注いだ。
現れたのは庭園で固まっていた、人の形を模したガラスの彫刻。男女の造形をくねらせ、一律に透き通った身体で真っすぐジェシカに向かって来る。
「……うそでしょ?」
小さな悲鳴も虚しく、ガラス人形は歩みを止めない。すぐに反転すれば橋を渡り、孤島を目指して一心不乱に走り出した。
直進していたつもりが、疲労や人間の頼りない感覚器官のせいだろう。時折見えない手すりに身体をぶつければ、初めて道を逸れていた事に気付く。
しかし鈍痛に嘆く暇はない。ガラス人形の行進が背後から聞こえ、最後に見た時は大挙して橋に押し寄せていた。
止まれば確実に距離が縮む状況に走り続け、やっと陸地に足を乗せれば、手を前に伸ばして不可視の祈り像に触れる。
足音に怯えながら向きを確認し、やがて見えない橋に再び重い足を乗せた。
その拍子にガラス人形を視界の端で捉え、伸ばされた鉤爪を屈んで躱す。裂かれた髪先が宙を舞うが、距離を少しでも離すべく欄干を手繰りながら進む。
荒い息遣いは肺を蝕み、背後で断続的に響く足音に涙が零れそうになる。だが伸ばした腕が手すりを空振り、勢いのまま転がれば土の味が口に広がった。
顔を拭いながら起き上がれば、視界に飛び込んだ漆黒の森に一瞬息が詰まるも、直後に聞こえた足音に這いながら茂みへ飛び込んだ。
徐々に身体を起こして速度を上げるが、殆ど晒された肌は強行軍には向かない。枝葉が鞭のように襲い、岩や根が足元に痣をこさえる。
「……回復魔法が、痛っ!…あるなら多少のっ、無茶は押し通せる!!」
それでも呪文を唱えながら痛みに耐え、我が身を顧みずに突き進んでいく。
手足の汚れは後で洗い落とし、傷も回復術で治せば良いだろう。駄々をこねる子供の如く枝葉を振り払うが、根に引っかけた足までは退かせない。
為す術も無く地面に突っ伏し、なおも抗おうと痺れた腕で這うが、ふいに足首を掴む冷たい感触に身の毛がよだった。
仰向けに転がれば残る足で蹴り付けるも、自前の非力さゆえか。はたまたガラス人形の握力が強靭なのか。
ずるずる引きずられてしまい、木に掴まれば身体の内側が軋み出す。
「……もぅ、だめぇ…っ」
指先の力が抜けていき、アデットの顔が浮かぶ。結局彼女の真意を理解できず、挙句に“依頼”すら完遂出来なかった。
悔しさばかりが滲み、徐々にガラス人形の群れに摂り込まれていく。ジェシカの腕も伸び切り、出来る事は瞼を固く閉ざす事だけ。
しかし茂みが一際大きく揺れるや、途端に凶悪な唸り声が一帯に響き渡った。直後に掴んでいた腕が砕かれ、次々取り囲んでいたガラス人形もその後を追う。
それから流れた静寂に身体を起こせば、突如手首を引っ張られた。そのまま進まざるを得ず、慌てて立ち上がれば前屈みに走り出す。
「…き……キツネちゃん!?」
唸るでも噛みつくでもない。手首も優しく咥えられるが、通路で助太刀してくれた獣かも分からない。
それでもジッと見つめてくる横柄な視線には覚えがあった。
「…まさか、アデットさんの知人の…ってわけないよね」
疑問が答えられるはずもなく、鼻を鳴らしたキツネが手首を放す。そのまま前を走り、ついて来いとばかりの後ろ姿には有無を言わせない迫力がある。
当然躊躇したものの、ジェシカに迷っている暇はない。1つは彫った目印が夜闇で見えず、2つ目にいまだ背後から足音が迫っている事。
もはや正気の沙汰とは思えない行脚に溜息を零すが、ふいに前方でキツネが立ち止まった。
おもむろに顔だけ向けてくるが、ふいにその姿が先導するアデットと重なり、慌てて目を擦っても映るのは獣だけ。
それからはキツネの後ろを死に物狂いで追い、見失っても揺れる草や音を頼りに進む。本格的に見失えば、キツネが顔を出して再び案内してくれた。
幾重もの緑を乗り越え、やがて茂みを飛び出した先。開けた空間に出れば、途端に教会が眼前に現れた。
「…本当に着いちゃった」
驚いて脱力するあまり、身体中の痛みがドッと押し寄せてきた。
切り傷。
擦り傷。
打撲痕。
数々の怪我に回復魔法を唱えようとするが、アデットの姿がまた浮かぶ。すぐに毅然とした表情で立ち上がるが、数歩進み出したところで足を止めた。
アデットの依頼に関わる“鐘楼”への道は、思えば階段を自ら砕いてしまった。突如襲ったジレンマに首を傾げるが、建物の角から覗いたキツネが注意を惹いた。
呆けたまま様子を見に行けば、地面に座したままジェシカを出迎え、その視線を追えば教会の壁は穴だらけ。
普段なら真っ先に浮かぶ疑問も押し退け、訝し気にキツネを見つめ返す。
「……また登らなきゃいけないの?…はぁ」
愚痴を零しながら深々と溜息を零すが、ふいにキツネが振り返って唸り声を上げた。木々を押し分けた人形の軍勢が迫る音に、悠長な事は言っていられない。
心の準備をする間もなく取っ掛かりを掴めば、少しずつ外壁をよじ登っていく。身体の芯が悲鳴を上げるも、振り返ればキツネが人形相手に奮闘している。
心強い味方に思わず破顔するが、取り零しがジェシカの後を追えば、すぐに登攀を再開した。
追い立てられるままに屋根に辿り着けば、四つん這いのまま鐘楼を目指し。傷つき、汚れ、荒い息遣いを上げる様相は獣そのもの。
だが恥も外聞も、命が掛かっていれば知った事ではない。それも自分だけではなく、アデットやキツネも身体を張ってくれている。
人形の魔の手を振り切り、欄干を砕きながら飛び込めば錆びだらけの鐘も目前。
なおも透明な腕が伸ばされる最中、最後の力を振り絞って巨大なスイッチに掴まれば、全体重を掛けて押し込んだ。