071.一縷の望み
支配されていたオーガの動きは実に単調だった。
掴む。
腕を振り回す。
叩きつけ。
三種の神器とばかりに繰り出す攻撃に、果たして見世物として成り立つのかと。他人事のように考えていた事案が、途端に様相を変えて襲ってきた。
踏みつけ。
蹴り。
全体重を乗せた突進。
跳び上がり。
頭突き。
野生を取り戻したオーガの猛攻に、吊るされた檻籠はいままで以上に揺れている。それまで魅入っていた観客も息を呑み、落ち着きを失くしたように見守っていた。
【…貴様の“全員”とは魔物も含まれていたのか】
「う~ん、洗脳が解ければ領主に対する怒りが芽生えて、共闘の道を開けるかもって期待してたんだけど…当てが外れたな。まるで親の仇とばかりに追ってきてる」
「バカ何ですか!?」
【愚か者め】
内外から容赦なく浴びせられる罵声が、アデランテの心をじわじわ蝕む。しかし落ち込んでいる暇はなく、所詮は目論見が外れただけ。
渾身の一撃を避け、汗1つ掻かない肉体にも関わらず無意識に顎を拭った。
ただでさえ攻撃が効かない中、怒りで隆起した筋肉は掠り傷すら受け付けない。だがジェシカからは完全に注意が削がれたおかげで戦線に集中できる。
一方で階下をチラ見すれば、領主が指揮権を取り戻すべく。グラスを忙しなく撫で回す度に不快な音がアデランテに響く。
もっともオーガはそれ以上に応えているらしい。時折悶絶して動きを止めるが、アデランテは勝負そのものに見切りをつけていた。
限られた戦闘条件下で、いつまた領主がオーガの支配下を取り戻すとも分からない。“正気の内”に思考と視界を最大限巡らせるが、予期せぬ事象が計画に綻びを生んだ。
魔物と言えど、時が経てば学習もする。不快な音に邪魔されなければ、如何に目前の獲物を捕らえるか。
薙ぎ払った時に避ける方向はどちらか。
それらの事柄を冷静に計算し始め、紙一重で躱されていた一撃も徐々にアデランテを掠める。
そして凶手が獲物の肩ごと腕を掴むや、勢いよく床に叩きつけられた。
苦悶は肉塊がぶつかる音でかき消え、再び拳を振り下ろせばガラスケースが絶叫を上げる。だらりと垂れ下がった肉塊を摘まみ、それからオーガの右に。
そして左に。
振り子時計のように左右へ叩きつけるが、ふとよぎった疑問がオーガの凶行を止めた。
反動で手放したアデランテが無造作に転がり、慌ててジェシカが駆け付ける。
しかし魔物には先程の状況でなぜ獲物が五体満足なのか。なぜ四肢が無事なのか疑問符ばかりが浮かぶ。
見えない壁や床の正体も。その下に群がる人間も。
そして何より“あれだけ”壊したのに、倒れても腕を突き立てる力が残っている事に。誰よりも困惑していたオーガは、鬱憤を晴らすようにアデランテを踏みつけた。
何度も、何度も。
そして何度も重い衝撃が床を突き抜け、起き上がる事も避ける事も出来ない。
激痛の中で顔だけ傾け、ぼんやり階下を覗けば観客の反応は様々で。
食い気味に見つめる者や、見るに堪えず口を抑える者。
険しい表情で眺める観客もいる。
一方領主は事態を収束すべく、グラスのふちを高速で撫で回していた。血走った目でオーガの様子を観察していたが――パリーンッ、と。
ふいにワイングラスが1つ割れ、連鎖するように隣り合ったグラスも割れていく。控えていた女中が慌てて処理を始め、領主も素早く観客を見回した。
幸い誰もが頭上の光景に夢中な上、ガラスケースの振動で割れた音にも気付いていない。
ホッと胸を撫で降ろした彼はワイングラスを再配置し、指揮者のように佇めば何事も無かった様相を取り繕う。
だが一連の出来事をアデランテは見逃さなかった。
直後にオーガの猛攻も止まり、不快さを訴える咆哮がガラスケース内に響く。
その隙に隅に避難していたジェシカの元へ転がり、すぐにアデランテに気付いた彼女は呪文の詠唱を始めた。
だが伸ばされた手を避けるように。むしろグッと引き寄せた途端。ジェシカの胸倉を掴むや、躊躇なくローブを引き裂いた。
「…き、きゃぁぁああっっ!!」
裸体を晒されたジェシカは反射的に平手を見舞ったが、アデランテの頬に赤みが帯びても、怯まずローブを破っていく。
咄嗟の抵抗も両手首ごと掴まれ。すかさず首元に顔を埋めれば、紅潮したジェシカは慌ててそっぽを向く。
首筋に掛かった熱い息に目を硬く閉じ、小さな身体が乙女の如く震える。
「…あ、あのアデットさ、ひっ!?い、今こんな事してる、ば…場合じゃ……そ、それに…ひゃぁ!?…わ、私にはエルメスがぁ…あ…やめっ」
嬌声はガラスケースを通って余さず階下に伝わり。呼応するように観客を息を呑めば、さらなる展開が求められる。
それからは彼らの要望に応えるように。互いの吐息が耳元で木霊し合い、火照りが疼きに取って変わった刹那。
ふいに両腕が解放され、アデランテもまた離れていく。鼓動が急速に鎮まり、恐る恐る瞼を開けば手足には破かれたローブが巻かれていた。
その上には幾重にも煌めく白い糸が張りつき、疑問よりも好奇心が胸の内でトキめいた。
「その糸にはゼッタイ触れるな」
戒めるように呟くアデランテに、伸ばした指先を慌てて引っ込める。
しかし直後に階下で聞こえた声に胸元や下半身を隠し。数秒前の交わりが再燃するが、アデランテを睨みつけても彼女はいつも通り。
曇りない瞳を真っすぐジェシカに向け、急速に毒気が抜かれてしまう。
挙句に肩を掴まれ、顔を寄せられると思わず震えたが、耳元で囁かれた柔らかな声にジェシカの強張りも解けていく。
「…チャンスは1度っきりだ。説明してる暇はないから、よく聞いてくれ」
女2人が重なる姿に、階下ではいまだ歓声が止まない。領主もようやく支配権を取り戻したが、演奏もせずに会場の賑わいを満足そうに眺めていた。
だが踵を返したアデランテが特攻し、洗脳とも反射とも取れないオーガが剛腕を振り上げるが、脱力した一撃はあっさり外れる。
それからもつかず離れず。肉薄して纏わりつくアデランテは紙一重で躱していく。
繰り返される攻防にまた観客が飽きるのではないか。
再び獲物を切り替えるのではないか。
漠然とした不安にジェシカも身構え、身体を覆うのも忘れそうになる。
それでも作戦通りオーガの背後で距離を取り、やがて上から下へ。力強く振り下ろされた拳がアデランテを掠め、床へ思い切り叩きつけられた瞬間。
「――…今だッ!!」
号令と共にジェシカが走り出し、アデランテもオーガの懐に飛び込んだ。
全力で足の指に突き刺し、筋肉の要塞が通用しない末端部分を刺激するや。深々と押し込んだ鋭い痛みが、オーガをさらに屈ませた。
魔物の丸まった背中に向かうジェシカも、いざ走り出したのは良いものの、アデランテの計画の意図がやっと伝わったらしい。
だからこそ決意が一瞬揺らいだが、一方で自分が足手まといである事も痛感している。
――私を信じてとにかく走れ。何があっても止まらずに走るんだ…。
耳元で囁かれたアデランテの言葉を信じれば、残ったローブがはだける事も厭わず。やがてオーガの太い踵に飛び乗ると、丸太のような足を昇って背中に辿り着く。
それから唯一の出入り口をグッと見上げても、明らかに高さが足りていない。
人間には到底届かない距離にも関わらず、それでも走る事をやめなかったジェシカが、オーガの後頭部に差し掛かった時。
短剣を引き抜いたアデランテも魔物の巨躯を駆け上がっていた。
醜い顔横をすり抜け際に、2撃目を思い切り片目へ突き刺しながら。
――ッッォグル゛ル゛ォ゛ォ゛ォ゛ォォォッッッ!!
途端に領主の演奏を跳ね飛ばす咆哮と共に、激痛でオーガが顔を上げた。首に佇むジェシカを振り落としかけたが、直前にアデランテが両手で抱き上げる。
おかげで“その先”の細かい説明も不要だったらしく。アデランテの瞳を覗けば、言わんとした事が嫌でも伝わったのだろう。
心の準備をする間もなくオーガが反り返れば、タイミングを合わせて飛び上がったアデランテは、上空遥か高くに舞い上がった。
比例して近付く脱出口にも必死に手を伸ばすが、やはりジェシカの手が届く距離ではなく。しかしアデランテの腕に籠もる力が背中に伝わった途端――。
「――ッッうぉぉおおおおおおりぃあぁぁぁぁあああーーーーー!!!!」
オーガに負けない、勇ましい叫び声がガラスケースに轟いた。ジェシカの身体は一層脱出口に近付くが、掴める取っ掛かりはない。
だがガッシリと。思いきり伸ばした腕が壁に張り付けば、身体が宙を力なくぶら下がった。
困惑に見下ろしかけるも、ふいにアデランテの言葉が脳裏に浮かぶ。
「……何があっても、止まらずに…」
疑問を切り捨て、思考を一切遮断する。足手まといの自分が出来る精一杯の事は、愚直にただ突き進む事だけ。
垂れ下がった腕を持ち上げれば、べったりと壁に張り付け。手を懸命に動かせば、足も蹴るように昇っていく。
ジェシカの姿は程なく観客の視界から消え、背後にはオーガの残響だけが轟いた。