070.壊れたガラス人形
宙で巨大なガラスケースが振動し、その度に観客は恐れ慄く。しかし誰1人席を離れる者はおらず、被り付くように天井を仰ぎ見た。
透明な闘技場にはオーガ1匹。そして2人の女が奮戦するが、内1人は眼中に無いらしい。
標的にされないよう部屋の隅に身を寄せ、結果的にアデランテが1人で魔物を対峙し。剛腕や重足の一撃を躱すも、ガラスケースを直撃する度に足元が揺れた。
すると戦闘が一時中断される事態に陥るが、条件はオーガも同じ。一撃外すごとに大きくフラつき、隙を逃さず剣戟を叩き込んでいく。
だが分厚い筋肉は全てのダメージを阻み、表面を悪戯に傷つけているだけ。オーガも怯む様子はなく、アデランテも苦虫を嚙み潰したように顔をしかめていた。
それでも収穫は全くのゼロではない。視界の隅には四角い画面が浮かび、階下で演奏する領主の姿を映っている。
ワイングラスのふちを撫で続け、ふいに弾くような動作を行なった時――。
――来るッ!!
再びオーガに集中すれば、持ち上がった両腕が振り下ろされる。
咄嗟に横へ飛びのき、強烈な打撃音がガラスケースともども振動し。ヒビすら入らなくとも、空振った隙に容赦なく剣戟を見舞った。
蝶のように舞い、蜂のように刺す戦術に階下から黄色い声も上がるが、何度斬り込んでも“短剣”では表面に擦り傷を拵えるばかり。
例え突いても先端が辛うじて刺さるだけで、痛がる素振りすら相手は見せない。
「…防戦一方だな。ここまで剣技が通じないと流石に自信を失くしそうだ」
【剣を生やすか、変異するか。選択肢はいくらでもある】
「これだけ見られてたら流石にマズいだろ……それに」
チラッとオーガの背後を一瞥すれば、隅の方ではジェシカが縮こまっている。彼女含め、大勢の観客がいる中で“奥の手”は披露できない。
かと言って長引けば、最悪ジェシカにも標的が移ってしまう。
双方共倒れの未来を防ぐためにも、見世物にだけ意識を向けるべく。持ち前の反射神経や巨大な拳の進入角度と着弾地点をウーフニールが瞬時に計測したのち、単調な一撃を紙一重で躱す接戦を演じ続けた。
「…逃げ場は私らが落ちてきた穴だけ。ガラスも砕けそうにないし、本格的に手詰まりだな。ウーフニール、変身する以外の選択肢を頼む」
【皆無】
「少しは考えてくれよな…」
【怪物に何を求める】
「私が考えつかないアッと驚くような提案かな。現状を打破できる申し出があるなら是非聞かせてもらいたい!」
【随分と余裕だな】
「これでも決め手に欠いて困ってるんだ。強がり半分、現実逃避半分ってトコさ」
溜息交じりに笑みを浮かべるが、打開策を練るにも数々の条件に縛られ。しかしウーフニールも共に検討してくれている事実に。
“1人”ではない安堵感に浸る反面、怪物の片鱗を見せなければ勝てない現実が重く圧し掛かった。
思考も目まぐるしく回転させるが、突如グラスを奏でる音色が変わった気がした。オーガの攻撃も緩み、気怠そうに両腕が身体の横で垂れ下がる。
醜い虚ろな表情は依然変わらないが、途端にアデランテから興味を失ったように。クルリと反転すれば、隅にうずくまるジェシカに向かった。
早くも訪れた最悪の展開に床を蹴り、勢いよく背中を斬りつけるが、何処を斬っても効果は同じ。奮闘空しく、音色がオーガを導くようにジェシカへ向かわせた。
しかしオーガは幸い鈍足で。素早く回り込めばジェシカを抱えるが、人1人分の負荷は思いのほか機動力を削いだ。
加えてオーガの巨躯を避けるべく、隙間を縫うように抜けた先でアデランテの背後を剛腕が直撃した。
「……がぁッ!!…ぐぅ…」
「アデットさん!」
「わ、私に構わず走れッ!とにかく逃げる事だけに専念しろ!」
倒れた拍子にジェシカを投げ出してしまうが、戻ってこようとした彼女に咄嗟に大声で怒鳴った。
反動で身体が軋んだが、部屋の反対側へ去った後ろ姿を捉えつつ。ゆっくり身体を起こせば、問題なく四肢は動く。
生身ではない事が功を奏したのか、皮肉な笑みを浮かべたのも束の間。床から伝わった振動にすぐさま這いながらも駆け出した。
ガラスケースの端ではジェシカが逃げ回り、歩幅の大きいオーガはすぐに追いつく。長い腕も軽く伸ばすだけで届くが、直後にアデランテが強引に間に割って入った。
そして当然の結果ながら。短剣ごと身体を握り込まれるや、勢いを載せて床に叩きつけられた。
全身の骨が砕ける激痛が駆け巡るが、それでも手足は折れず曲がらず。吐き出す血反吐もなければ、代わりに意識がぼんやり遠のいていく。
「……あ、アデットさ…きゃーっっ!?」
アデランテを回復すべく近付いたジェシカに、オーガの魔の手が再び忍び寄る。悲鳴に飛び起きて再び割って入れば、同じ要領で掴まれて宙に放られた。
背中を強く打ち付けては息が止まり、叩きのめされ。
追われ。庇い。
また一撃を見舞われる。
一方的な蹂躙に歓声が沸き起こり、ようやく観客の賭け札も意味を為し始めた。
「いかがでしょうか皆様!我が町が誇る技術を結集した強靭な〝箱庭”に、粗暴な魔物すら調伏する魔性の音色。皆さまのご協力があってこそ、今宵の演武を実現する事が叶ったのです。今1度っ!我ら自身の成果にっ!そして多大な尽力に、盛大な拍手を!」
領主の口上に、催しは大成功とばかりに拍手が鳴り響く。
下階は依然華やかな空気を保っていたが、一方で上階はまるで籠に入れられた虫ケラのようで。
天国と地獄がひっくり返された世界に辟易するも、奏者の不在でオーガは案山子の如く佇んでいる。
だがおかげで休息の機会が与えられ、その様子を察したジェシカも最初は恐る恐る。やがて確信を得ると迷わずアデランテの傍に屈み込んだ。
「“穢れた身を清めよ。新たな生に喜べ。我が名をもって命じる。愛しい源の主よ”…大丈夫ですかアデットさん?」
「あ、あぁ。問題ない。この通りピンピンしているさ」
「致命傷ばかり受けてるように見えたんですけど…それも何度も……本当にごめんなさい、私のせいで…」
「気にするな。それにお前が仕留められたら、次は私の番だ。今は互いに延命しているだけに過ぎない」
【戯れに関わっている場合ではない。生存を優先し、持ちうる能力すべてを駆使せよ。目撃者を残さねば何も問題はあるまい】
「見捨てる真似なんて死んでも御免だね…それにな。死に損ないの私にも意地の1つや2つくらい残ってるんだ。必ず全員で脱出してみせるさッ」
「アデットさん……でもこのままじゃ…」
涙を零すジェシカは顔を覆い、その様子を見ていた観客が指を差して笑う。
もっとも――ギロリと。鋭い眼差しでアデランテが睨みつければ、男はヒッと腕を引いて視線を逸らす。
溜息を吐きつつ、子供のように泣きじゃくるジェシカを撫でてやれば、彼女の泣き腫らした瞳に戦意は感じられない。
だが決して責める事はせず。ニッコリ微笑んでやると、ジェシカのくしゃくしゃになった表情に生気が戻った。
「死ぬのは誰だって怖いし、その気持ちは痛いほど分かるよ。誰よりもな」
「…アデットさんが?」
「あぁ。痛くて、辛くて、悔しくて…とても寂しいものなんだ。でもだからって諦めるわけにもいかないだろ?」
「……ひっく。私だって、諦めたくは、ひっく。ないですけど…こんな状況じゃ…」
「やるだけやってみるさ。それにな。案外カミサマが見守ってくれてるかもしれないぞ?」
「…神、様?」
不思議そうに見つめ返すジェシカから、階下の騒ぎへ視線を移す。どうやら魔物の操作が賭けに影響する事を観客が訴え、領主が応対に追われているようだ。
しばらくは休戦できそうだが、案を出すならば今しかないだろう。
ゆっくり立ち上がればジェシカに裾を引かれ、振り返ると涙を拭ったジェシカの。不安ながらも、瞳の奥に宿る力強い眼差しを向けられる。
「どうしましょう。アデットさんの攻撃も通じてないみたいですし、私はまったく役に立ちませんし…どうしよう」
「そんな事はないさ。回復魔法のおかげで大分元気が出てきた」
【魔術による治療よりも、肉体の再生にその身を渡せば全てが解決する】
「……実は1つ、脱出する案があるんだ」
「ほ、本当ですか!?」
「今思いついた」
「…本当に大丈夫なんですか」
ジェシカの心配をよそに、アデランテは魔物に向けて剣先を向ける。
「まだ試していない事があってな。うまくいけば全員で脱出できる」
【待て。何をする気だ】
ウーフニールの制止も聞かず、走り出したアデランテはオーガとの距離を詰めた。
凶腕の間合いに入ろうと魔物は指先1つ動かず、さらに懐へ入れば地面をスライドし。そのまま足の間に到達するや、視界に映るただ1点を目掛け。
突き上げるように。容赦なく短剣を打ち込んだ。
――グォォォォォォッッッァァァルルルアアアッッ!!??
途端にケース内を轟音が揺らし、階下でざわついていた声も止まる。
一斉に見上げれば人形然としていたオーガは様相を一変させ。声にならない悲痛を上げながら股間を掴み、忙しなく跳び回ってはのたうち回った。
その様子にジェシカと観客は唖然とし。ウーフニールでさえ言葉を失っていたが、対照的にアデランテは胸を張って佇んでいた。
自身の成果を誇らしく見守り、やがてオーガが股間を擦りながら、のっそりと。
重い身体を起こしてアデランテに視線を送るが、その瞳には一点の曇りもない。代わりに酷く澄んだ怒りと憎悪が、雷雲の如く満たされていた。