056.森林回帰
約束の2時間後。エルメスたちが町の外で待っていると、新調した装備でアデットを出迎えた。
改めてお礼と遅い自己紹介を済ませるが、不思議と相手の反応が悪い。
ワンテンポ遅れたような。あるいは初対面の相手と話すような違和感に、思わずジェシカと見合わせる。
確かに浮浪者然としていた手前、今は見違えるような姿とも言えよう。だがその程度の変化で、大金を貸し与えた相手の事を忘れるか。
疑問は甚だ尽きないが、今や2人は鉄等級のプレートを下げた“初心者”。
不安は残るが金のため。未来のため。
意気揚々と若者たちは街を出発した。
目標はソルジャーラビット10匹。ぐんぐん町は遠ざかり、茂みを踏みしめる音が一帯に響く。
鳥がいれば飛び立ち、川があれば魚が逃げる。猪の如き破竹の勢いで突き進んでいたものの、ふいにアデットが足を止めた。
振り返れば息を切らしたエルメスに、遅れて追ってきたジェシカが木に寄り掛かっていたが、そうでもしなければ背負った荷物に押し潰されていたろう。
「……まだ1時間も歩いてないぞ?」
「ぜーぜーぜー…ハァ、速いんですよ!俺たち途中走ってましたからね!?それに荷物も背負ってるから重くて……そういえばアデットさん。荷物は?」
「行って帰るだけなのに、何を持っていくんだよ」
「日帰りのつもりだったんですか!?ソルジャーラビット相手でも10匹ですよ?ジェシカも何か言って…大丈夫か?」
ようやく最後尾に視線を投げれば汗を流し、もはや会話もままならないジェシカは、半ば溶けたように崩れ落ちている。
止む無く休憩を挟めば水を飲み、行動食を食らい。まともに会話が出来るまで、さらに数十分は要した。
まだ魔物1匹すら遭遇していないのに、2人の体力はすでに限界。先行きに暗雲が立ち込めるが、アデットは木に寄り掛かって虚空を眺めるだけ。
疲れている様子もなく、腕を組んだままジッとしている。
洗練された姿にふと“通りすがりの同業者”と告げた彼女の言葉を思い出し、いざ観察してみれば、なるほど確かに。
颯爽と現れては消える風のような印象に、“通りすがり”とは言い得て妙に感じた。
立ち振る舞い。
身軽な装備。
フードも目深く被り、絵に描いたような冒険者像につい魅入ってしまう。
おかげで後ろから刺すような視線に反応が遅れてしまった。
「…惚れたの?」
「そんなわけないだろ。顔も分からないのに」
「顔が分かれば惚れるの?」
「やけに噛みついてくるなー…別にそういうんじゃないって。曲がりなりにも俺たちのスポンサーなんだから…ちょっと。いや、色々気になる事があるだけだよ」
「それは私も同感…」
「休憩できたか?なら出発するぞ」
ビクつく2人を気にせず、木から離れたアデットの合図に慌てて荷を片付けた。
再び始まる地獄の行進に足が重くなるが、速度は明らかに半減し、追いつくまで立ち止まっては歩き出す事を繰り返す変化に、ホッとする反面。
かつて青銅クラスに昇り詰めた栄光が、急激に色褪せていく。
もはやアデットの荷物持ちをしているようで、情けなさに涙が流れそうだったが、幸い汗が代わりに額から滴ってくれた。
体力にも余裕が生まれ、魔物の1匹位なら何とか対処できるだろう。
しかしアデットが唐突に立ち止まるや、剣を抜いた彼女に倣って慌てて武器を抜いた。
荷物を降ろせば周囲を見回すが、特別危険は感じられない。追いついたジェシカも庇い、緊張が伝わった彼女も杖を構えて辺りを窺った。
「…ソルジャーラビットを1人で何体まで倒せる?」
「え゛…1度に襲われても2体なら何とか対処できると思いますけど」
「なら10体分を1度に相手できる感覚で立ち回ってくれ。怪我したらすぐ治療してもらうようにッ!」
荒々しい声音を上げるや、直後に何かが接近する気配を察知した。
すぐさまジェシカを避難させ、堂々と佇むアデットの隣に立てば、徐々に茂みをかき分ける音が近付き、武器を突き出して身構えたのも束の間。
一直線に草葉が分かれただけで、そこには何もなかった。突風でも吹いたのかと剣を下ろすが、直後に横腹をアデットに蹴り飛ばされる。
軽装越しに走った鈍痛で息が詰まるも、まだ宙に身体が浮いている最中。エルメスたちが立っていた場所に、凶悪な穴が穿たれた。
ようやく地面に身体が転がっても、目を拭ったエルメスにはやはり何も見えない。
「落ち着いて地面をよく見ろ!見えないだけで、そこに“いる”んだ!」
飛ばされた激に驚くも、見れば草地が不自然に潰れている。
しかしゆっくり観察している暇もなく、エルメスに向かって地面がさらに窪む。咄嗟に背後へ飛びずさり、それでも止まらない突進に剣を身構えた時。
――ガキっ、と。
剣が。
肩口が。
鋭い痛みが突如襲い、同時に地面へなぎ倒された。
反射的にジェシカが飛び出したが、吹き抜けた一陣の風がローブをめくり、思わず足を止めた隙に、アデットが先にエルメスの元へ到達していた。
直後に前方に向かって一閃振るうも、勢いよく空振るだけで手応えはない。
しかし剣先に続いて握られた土も放れば、僅かな土くれは宙に引っ掛かったまま漂い、敵の位置を捉えたアデットは、真っすぐに剣を突き出した。
――キッシャァァアアアーーーーーーーーッッ!!!!
途端に何もない空間から絶叫と鮮血が吹き出し、熊の身体にトカゲの頭と足を生やした魔物が露わになれば、ギロリと睨みつけてくる迫力に思わず息を呑んだ。
それでも冒険者の気概が剣を拾わせ、痛む肩を抑えながら立ち上がるや、雄叫びを上げた魔物は勢いよく尾を振った。
咄嗟に全員が背後へ身を引いたが、千切れた尻尾は鞭の如く襲い掛かってくる。
素早く躱したアデットはすぐに逃げた魔物を追い、残されたエルメスたちは呆然と。いまだ暴れる尾を、ただ静かに見下ろしていた。
当たればタダでは済まず、気味の悪い光景に後ずさりたくなるが、いつまでも放っておくわけにもいかない。
タイミングを見計らい、エルメスが全身で覆い被さるように押さえ込めば、遅れてジェシカも突撃し、杖で押さえ付けても2人の身体が悠々と持ち上がる。
やがて魚の如く跳ね続けていた尾も徐々に抵抗を無くし、最後に僅かな痙攣を残すや、完全にただの“物”に成り下がった。
それでも念を入れて押さえ続けた2人も、脅威が去った事をようやく確信すれば、途端に訪れた静寂と安堵に全身の力が抜けていく。
「……何やってるんだろう。俺たち…痛っ」
「エルメス動かないで!今治すからっ…“穢れた身を清めよ。新たな生に喜べ。我が名をもって命じる。愛しい源の主よ”」
とめどなく汗を流すエルメスの傍らで、ジェシカの放った光が肩口を包み込む。
ゆっくり傷口は塞がっていくが、ふとアデットの事を思い出し。すぐに立ち上がって魔物が去った方角を睨むが、足を掴まれては身動きが取れない。
「治療中なんだから、まだ動かないでっ」
「でもアデットさん1人に任せるわけには…」
「きっと大丈夫よ!私とエルメスが……びっくりして動けなかったのに、1人であんなに活躍してたもの。それに怪我した身体で行ったところで、迷惑かけるだけよ」
ジェシカを振り払えないのを良い事に、次々心に突き刺さった言葉が、なけなしのプライドを崩していく。
しかし紛れもない事実に反論も出来ず、無言で座ると治療が再開された。
その間に戦闘を思い返せば、初めて遭遇した魔物に。むしろ見えない敵に驚いたとはいえ、自分の動きは足手まといそのものだった。
悔しさに零しかけた溜息をグッと堪え、仄かな光が消えるとグルグル肩を回す。
痛みは残っておらず、血も洗い落とせばすぐに落ちるだろう。ジェシカにいつもの調子で感謝を述べようとするも――ガサッと。
草をかき分ける音に跳び上がり、慌てて身構えたのも束の間。肩を落とすと、危うく武器まで手放しそうになった。
「2人とも無事か?」
「…えぇ、エルメスも治療を終えたので、無事です。アデットさんの方こそ1人で大丈夫だったんですか?」
「問題はない。さっきの…【ヴォートサラマンダー】?っていう魔物だけど、逃げられてしまった。すまない」
フードの上から頭を掻き、無念そうに告げる彼女を責める筋合いはない。だがその割には悔しさが微塵も感じられず、むしろ爽快感が滲み出ている気がして。
それとなく指摘すれば「久しぶりに身体を動かせたから」と答えが返された。
「暗くなってきたな。2人はどうするんだ?」
そして他人事のように尋ねる彼女に唖然とし、見上げれば夕焼けが瞳に差し込んだ。
1日最後の明かりに手をかざし、分かり切っている答えをアデットに返す。
「……安全な場所を探して、今夜は野営します。それでいいかジェシカ」
「ここじゃダメなのか?」
「魔物に襲われた場所で休むわけにはいきません。もう少し進んでからでも…そういえばアデットさん。1度も地図を開いてる所見てませんけど、道は大丈夫なんですか?」
「私の頭の中にちゃーんと記録されてるから心配はない。それにさっきの魔物なら倒しッ……かなり負傷させたから、戻ってくる事もないだろう。荷物も結構持ってきてるみたいだし、移動より設営を優先した方が良いんじゃないか?」
淡々と告げる彼女の視線は、エルメスたち唯一の戦果たる尾に注がれていた。
“夕飯”を持ち運ぶ手間も考えれば。彼女の言葉を信じるなら、今いる場所でテントを張るに越した事はないだろう。
それでいて積もった疲労で歩きたくないのも否めず、ジェシカに無言で合図を出せば、早速荷解きを始めて夜に備えて焚火。
テント。
夕餉の支度と。
それぞれを慣れた手つきで着々と進め、あとは尾が茹で終わるのを待つばかりだった。
その間もアデットは見張りを務めていたが、周囲を警戒するより2人の行動を見守るように、ただジッと見つめてきた。
「…アデットさんは夜どうされるんですか?寝袋は私たちの分しかないけど、一応テントに余裕があるので一緒に…というよりアデットさんのお金ですから、偉そうな事は言えませんね」
「寝袋なら俺の分を使ってもらって、交代で寝ればいいんじゃないか?」
「私なら木の下で寝るから気にしないでくれ。それに何かが近付けばすぐに起きるから、2人は安心して寝てくれて構わない…それよりご飯はまだか?」
身の安全や会話よりも、食事に心を奪われているらしい。
彼女にそれ以上話しかける言葉もなく、出来上がった尾のスープと丸焼きを切って配れば、迷わずアデットはかぶりついた。
塩と胡椒をまぶした簡単な料理だが、焚火を囲んで取る食事は歳を重ねても楽しいもので。
解散したパーティの栄光に浸りながら、ふと尾を殆ど1人で食べ切ったアデットを一瞥すれば、カバンを漁って金貨の詰まった袋を差し出した。
「…残り。まだ半分はあると思いますけど、先にお返ししておきます」
「むぐむぐむぐ…私は使わないから2人で持っていてくれ。そもそもいくら入ってたのかも分からなッ……結構入ってたんだな。いつそんな話……貰った時か。全然聞いてなかった」
「なるべく使わないようにってエルメスと相談して買い物をしたつもりだったんですが…すみませんでした」
「あっ、あぁ気にしないでくれ。実のところ、私も使い道を持て余してたからな。冒険者の金は冒険者が使ってくれた方が収まりも良い」
不自然に会話を止めては、理解できない回答を繰り返すアデットに。大金の無償貸し出しや依頼の助太刀など、付き合いが長引く程謎は増していく。
しかし金欠と崖っぷちを経験したエルメスたちに、遠慮できる余裕はない。改めて謝礼を述べつつ、金貨を元の場所に押し込んだ。
「あまりお金に興味ないんですか?私たちの体験から言ってお金は大事ですよ?いくらあっても足りないくらい」
「…ひとまず有難く受け取りますけど、いつか必ず返すんで!アデットさんこそ必要になったらいつでも言ってくださいよ?」
「ははっ、その時はよろしく頼む」
「強がりじゃないですよ!?…でも渡された金を持ち逃げしたかもしれないのに、よく俺たちを信用する気になれましたね」
「そんな奴だったら何処へ行ったってうまくいかないだろうさ。それにさっきも言ったろ?その金は冒険者のための金なんだ。2人がこうして冒険者を続けてるだけで私は満足さ」
1人で頷くアデットにやはり理解できず、ジェシカと顔を見合わせる。得体の知れないスポンサーに投げたい質問は山程あったが、焚火が小さくなるにつれて疑問も萎んでいく。
同時に就寝時間も告知され、それ以上の会話も打ち切られると、明日に備えるべく全員が寝床に就いた。