053.濁り珈琲
カウンターで頬杖をつく店主は、いつもの場所で、いつものように座っていた。
今日も客の気配はなく、開かずの扉を眺めながら大きな欠伸をする。
外と室内の掃き掃除。
雑巾がけ。
埃掃き。
灯りの明滅確認。
扉に油も挿し、1日の作業を終えて暇になってしまった。昼間の程よい暖かさも相まって、いつもなら即寝落ちしていた事だろう。
しかし今日は。と言うよりかは、ここ最近眠りが浅くなっている。
それもこれも数週間前から泊まり続けている、物好きな女冒険者のせいだ。
「……まさか死んでるわけじゃないだろうね」
階上に振り向きたい衝動を抑え、憮然と宿の入口を眺め続ける。
それでも頭に浮かぶのは、1週間も部屋から出て来ない客の事ばかりで、それまで毎日顔を合わせていれば、物寂しさすら覚えてしまう。
思い当たる節は珍しく元気がなかった、あの夜の事であり、仕事で何かあったのかと。いっそギルド職員の妹に聞けば分かるだろうと考え、しかしすぐに思考をかき乱す。
前金を貰って問題も起こしていない以上、客に深入りする道理もない。
一介の店主が何故余計な事を試みているのか。
しかもよりによって、口うるさい妹に接触しようとしたのか。
自身の考えを理解できないまま、依然訪れない眠気に苛立っていた矢先。入り口がゆっくり開かれた。
だが客には不幸な事に、今はとびきり機嫌が悪い。いつも以上に不愛想な対応になりそうで、辟易しながら顔を上げた途端。
少し驚いたように目を見開き、浮きかけた腰を椅子に戻した。
「…最近は珍しい客ばっかだね。忙しくて眠れたもんじゃないよ」
「……客じゃなくて妹なんですけど」
不満そうに睨まれるも、周囲をキョロキョロ見回す仕草は客人そのもの。うっかり笑うと一層鋭い視線を浴びせられたが、それ以上刺激しないよう口を閉ざした。
所詮は実の妹だと言うのに、何故か沈黙の居心地が悪く。数々の言葉が脳内を交差するが、長年宿を経営してきた習性からか。
自然と口にしたのは、店主マニュアルにも書かれた挨拶文だった。
「何の用だい?」
「ここにアデットさん泊まってるでしょ?仕事の受注に来ないから、心配で様子を見に来たの。これ、アデットさんに差し入れね」
片手に持った袋をカウンターに乗せ、グッと押し込まれては受け取らざるを得ない。妹の変わらない強引さに呆れるが、音からして中身は果物の類だろう。
一瞥するだけで触れもせず、再び妹に視線を向けた。
「いいのかい?ギルド職員が冒険者1人を贔屓しちゃって」
「ご心配なく。今日は非番だし、アデットさんの専属担当だからこれ位ふつうよ」
「専属?」
「一部の冒険者で顔を見せたがらない人もいるから、臨時で入る仕事みたいなものかな。でもアデットさん、もの凄く綺麗なんだからわざわざ隠さな…ゲフンエフンっ!」
ハッと顔を背けるや、わざとらしく咳き込む妹を訝し気に見つめる。思い返してみれば、客の顔など1度も見た事がなかった。
フードをいつも目深く被り、頬の傷と笑みを浮かべる口元しか記憶にない。
彼女も専属を必要とする位には、顔を誰にも晒したくないのだろう。
少なくとも不愛想な店主が経営する、路地に隠れた宿を使う程度には。
今更ながら珍客の素性に納得し、いまだ取り繕おうとする妹に視線を戻す。危うく洩らしかけた個人情報を止められた事から、少しは成長しているらしい。
それでもまだ未熟な肉親に嘆息を吐き、袋の中身をパッと漁る。中には何故かキャベツとジャガイモが転がり、奇天烈な差し入れに疑問符が浮かんだ。
「…まぁ、丁度いいんじゃない?多分食事もしてないだろうから」
「え゛、そうなの!?」
「いつも剣を腰に下げてるだけで、カバンも持ち歩いてないからね。出掛ける時も戻ってくる時も手ぶらの不思議な冒険者様だよ」
「…アデットさん、本当に泊まってる?」
「夜寝る前と朝出発する時はココ通るから、泊まってるんじゃない?前金払う位だし、変わり者もいいところよ…それに宿を信用しない客も中にはいるからね。荷物だけどっかに隠してる人も珍しくないだろうし」
決して客には言えない宿屋の裏事情を零せば、思わず鼻で笑ってしまう。
実際に所持品をくすねて成り上がった宿や、羽振りの良い店主の話は聞いた事がある。
だからこそ路地で、それも愛想の悪い主人が経営する店では尚更信用も何もないだろう。
十分理解できる相手の心情に、皮肉な笑みを浮かべたのも束の間。カウンターを叩くように迫った妹に驚き、顔を近付けてくる彼女に初めて畏怖した。
「アデットさんはそんな人じゃない!!それにお姉ちゃんの事いつも褒めてくれるんだよ?ホコリもなくて、整理が行き届いてて、安心して寝れるって……安くてもっと良い宿を勧めても、仕事熱心な店主だからって断られるし」
「…客を盗る真似しないでよね」
徐々に落ち着く妹の呼吸に合わせ、同じく段々冷静になっていく。予想外の人物から聞く想定外の評価に、動きまで真似るように顔を背けた。
久しく忘れていた感情が込み上げ、身体の熱がまだ引かない。髪で顔を隠したまま妹を一瞥すれば、カウンターを撫でながら周囲を見回していた。
やはり初めて訪れた客のように振る舞う姿に、つい声をかけてしまう。
「家具の位置とか何もいじってないから、改めて見なくたって勝手も知ってるでしょ」
「何年も来てなかったんだから、いくら見たっていいでしょ!それにホコリ1つないって聞いてたけど、ギルドより綺麗だから正直驚いてる。本当に業者とか頼んでないの?」
「稼ぎが良ければそうしてるわよ」
呆れながら妹に笑みを浮かべ、つられて彼女も笑みで応える。
会話をするのも、顔を合わせるのも。
こうして互いに笑顔を向けるのはいつぶりだったろうか。
記憶を手繰り寄せ、頭の中を整理していた刹那。
ギギィっ――と響いた音に、思わず2人で階上を見合わせた。足甲が廊下を踏み、徐々に階段へ近付いてくる。
やがて手すりを掴みながら降りてきた客は、相変わらずフードで顔を隠し、それでも店主と受付の2人を視界に収めれば、ニコっと口元に笑みが浮かんだ。
「あ~…【キャロライン】だったかな?ギルドの受付の。お姉さんと会いに来たのかな」
「い、いえっ!全っ然違います!!最近アデットさんがお見えにならないので、体調を窺いに…っ」
「1週間も部屋から出て来なかったしね。余計な詮索はしないつもりだったけど、大丈夫かい?何なら回復士でも呼ぶよ」
「…え~っと、少し待ってくれ。1週間?それにギルドから仕事の催促ってくるものなのか?」
「いえいえいえっ!?アデットさん連日来ていたのに、急に来なくなったので何かあったのかと思いまして…ジャイアントスパイダーの件でゴタゴタしてたのもありましたから、受付の待ち時間を考慮しての判断かもしれませんが」
「なんだいジャイアントスパイダーの件って?」
「お姉ちゃんは黙っててっ。とにかくお元気なら良かったです。ソロで、それも1日で仕事をこなせてしまう冒険者なんてお目にかかれませんからね。ここだけの話、ギルド内でも名前だけ1人歩きされているんですよ?」
姉に聞こえるのも構わず話しかけるキャロラインに、乾いた笑い声で応じる客。顔を隠す彼女には、恐らく望まない名声なのだろう。
当人の反応もそっちのけに、妹は興奮も冷めないまま、専属担当の誇りまで語り始めている。
勢いに乗ると口が軽くなる癖は治っていないらしく、音を立てて差し入れの袋をカウンターに置き直す。
「まぁ、何はともあれ。不肖の妹が“差し入れ”を持ってきたからね。良ければスープでも作るよ」
「おっ、いいのか?」
「少し時間が掛かるから、出来たら声をかけるよ」
暇潰しに丁度良いと席を立ち、ふいに妹を見つめれば遠慮がちに手を振られる。用事を済ませた彼女がお暇する気配を察し、好きにするよう伝えた矢先。
客から紙と筆。それからカウンターに置かれた、飲みかけの冷めたコーヒーを催促される。
不思議そうに客を見つめ、それから妹と視線が合う。
価値を失ったコーヒーを要求する意味が分からず、新しく淹れる事を提案しても「それが丁度良いから」と告げられる。
真意は依然理解できないが、それでも言われた通りに紙と筆。
そしてコーヒーを零さないよう慎重に手渡したが、差し出す際に緊張が伝わってしまったのだろう。
添えられた両手がソッとカップを持つ手を包み、そのまま手元に引き寄せられる。
「…ははっ、これじゃ受け取れないな」
ニコニコしながら。いまだ重ねられた手からは温もりが感じられ、呆然とその口元を見つめてしまう。
その間に指の隙間を縫われ、手元に注意を戻す頃には、コーヒーも筆もすべて相手に渡っていた。
「淹れたては君が飲んだ方がいいぞ。手が冷たかった」
「……いまさらで悪いけどさ。顔を見せてもらってもいいかい?一応宿泊客の顔は知っておきたいから」
刹那の悩みの末、思い切って尋ねると客はキョトンとして固まった。視界の端では妹が鬼の形相を浮かべていたが、職権乱用なのは分かっている。
だが彼女だけの秘密にされるのも癪で。自分でも珍しく他人に興味を持った事実も相まって、確認せずにはいられなかった。
もちろん嫌がれば、大人しく身を引くつもりであった。一言でも渋ってくれるなら「好奇心」で片付けようと。
そう返すつもりが、彼女は惜しげもなくフードを脱いだ。
影に隠されていたのは、青と金の瞳。
編まれた銀糸の髪は肩口でしな垂れ、凛々しい顔つきは男でも通用する。
あるいは御伽話に出てくる“王子様役”が適任だろう。
唐突な光景に思わず惚けていたものの、フードを被り直せば魔法の時間も終わる。他に要件があるか逆に問われ、何もないと告げれば次は妹へ視線が向く。
今週中にはギルドに顔を出せると言い残し、颯爽と階段を上がっていった。
それからパタンっ――と静かに扉は閉められたが、依然軋んだ音が耳につく。スープを持っていく時にでも油を挿そうと考え、いまだ惚けている妹を見つめた。
「……あっ、ちょっとお姉ちゃん!アデットさん素性隠してるんだから、あんな聞き方しないでよね、もぅ。失礼じゃない!」
「反省はしてるよ。でも綺麗…でもあるし、格好良くもあって、何だか不思議な人だったね」
「でしょ!?ほんっともう目の保養というか、イケメンだよね~。普段から見られないのが残念すぎ。そういう意味ではお姉ちゃんナイス!男だったら猛アタックかましてるよ~」
「まぁ、あのお客さんなら妹を任せられそうだね……なんだい変な顔して」
「…お姉ちゃん、そういうこと興味ないと思ってたから、ちょっとびっくりした」
「妹の結婚相手なんだから当たり前でしょ」
朗らかな雰囲気が唐突に消え、急に部屋が暗くなったように感じられた。思えば互いについて話した事はなく、妹の仕事先を知ったのもつい最近の事。
差し入れの中身を再度確認し、献立を頭の中で描きながら妹を一瞥する。
目が合うと気まずそうに逸らされたが、それでも胸の奥につっかえていた想いを制御しながら、冷静に言葉を紡いでいった。
「宿の相続、まだ根に持ってる?」
「…昔はそうだった。私のこと、お父さん信用してないのかと思って、ずっと腹が立ってた……けど、私なら他の仕事に就いてもやっていけるって信じてくれたんだろうな、って。お姉ちゃん人付き合い悪いから、お姉ちゃんに託したんだろうなって、思えるようになった」
「反論のしようがないね。でも遺言の残りを聞く前に泣きながら出てったから知らないだろうけどさ。宿の経営だけで一生を終えて欲しくないとも思ってたらしいわよ。建ってる場所が場所だし、負の遺産を押し付けるみたいで申し訳ない、って…最後の方に書いてあった」
こんな話をするつもりは全くなかった。
だというのに、父を手伝って妹と宿を回していた日々が浮かび、白紙の宿泊名簿が胸を締め付ける。
「また明日もっ!!……アデットさんに失礼がないか確認しに来るから…」
「…ん」
目元を擦りながら去っていく妹は乱暴に扉を扱うも、直前で優しく閉めた。
耳障りな軋み音は聞こえず、油を挿した成果を今1度確認させられる。
「……最後に出てった時は、扉が壊れるんじゃないかと思ったけどね」
ぼそっと呟き、ゆっくり厨房に向かえばスープの準備に取り掛かった。
コーヒーも入れ直し、いままで眠気が飛んだ試しが無かったものの、今日は特別よく眠れそうな気がした。