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050.紙々の迷宮

 最初に頭に浮かんだ言葉は“黒い液体”だった。


 黒曜石のような光沢をする、不気味に膨れ上がった液体の塊。その表面を黒い滴が際限なく垂れるが、床に零れる事は決してない。

 全身に無数の巨大な目玉を生やし、やがてソレらがギョロりと。アデランテに全て向けられる。


 背筋に走った悪寒に一瞬硬直するも、本能的に踵を返すと全力で走り出していた。



――止まっていたら殺されるッッ!



 矢の如く通り過ぎる本棚の端を掴めば、曲がり角で急旋回し、通路を縫うように進んでも一向に出口らしい場所が見当たらない。

 景色も一向に変わらず、焦燥感ばかりが積もっていく間も、背後からはベタベタと。怪物が執拗に追ってくる足音が聞こえてくる。


 対峙する気力も沸かないが、それでも剣を握ろうとすれば虚しく空を掴み、勢い余ってバランスを崩しそうになれば、強引に本棚に身体をぶつけて体勢を整えた。


「…剣が、ない!?」


 いくら腰を漁っても、肌身離せないはずの剣が鞘ごとない。悪夢の線が一層濃厚になるが、足を止めて確かめる気にはなれなかった。

 怪物と距離を離すためにも、棚に収まる本や箱を乱暴に背後へ放り、荒れた通路のおかげで同じ場所を何度も回らずに済む。


 しかし長い“追いかけっこ”に、流石のアデランテも息が切れ始めるが、諦めなかった報償か。

 前方に差し込む明かりに希望の兆しを見出し、一気に走り出したのも束の間。胸まで達する鉄柵を咄嗟に飛び越え、疾走した勢いのまま宙を滑空していく。


「――…あっ」


 ようやく見つけた脱出口のはずが、足元から背筋に掛けて冷たい風が吹き抜けた。

 手足は無常にもバタつき、程なく吹き抜けを漂っている現実に気付かされるも、眼下は確かめるまでもない。

 今や到底無事では済まされない高さにおり、反対側にそびえる鉄柵に届くはずもなかった。


 それでも必死に腕を伸ばしていたアデランテに、ふと笑みが綻ぶ。柵の奥にも書架が並び、仮に辿り着いた所で迷宮に逆戻りするだけ。

 しかし不思議と絶望を覚えないのは、ウーフニールが共にいると思えるからだろう。身体の所有者である彼が、アデランテの危機に黙っているはずがない。

 

「ッッ…う…ウーーーーーフッ、ニーーーーール!うぐぅぇあ!?」


 下方に足から吸い込まれ、魔法の呪文を大声で唱えた直後。身体が殴られたように押し出されるや、空中でピタリと固定された。

 浮遊感に足はぶらぶら揺れ、固く閉ざした瞳を恐る恐る開けば、いまだにアデランテは吹き抜けの中央を漂っている。

 腰を絞る圧迫感にゆっくり背後へ振り向けば――ギョロリと。無数の眼と否応なくかち合い、剣があれば迷わず振るっていたろう。


 幸い手ぶらなおかげで凶行に走る事はなく、冷静に黒い。ドロドロとした巨体を観察すれば、怪物は宙に浮いていたわけではない。

 鉄柵から身を乗り出し、下から上へそびえる柱に。

 そしてアデランテの身体を、黒く粘ついた腕か。はたまた足を伸ばし、互いを宙に固定していた。


 それから放心するアデランテをゆっくり、少しずつ。慎重に引き寄せるや、再び鉄柵の内側まで戻された。

 いまだ解放される気配はなく、巨大な瞳もアデランテから離れない。表情無き怪物の意図もいまだ理解出来ず、それでも視線を逸らせば喰われてしまいそうで。

 決して目を背けまいと覚悟したのも束の間。全ての眼玉が一斉に向けられ、全身の血が凍り付いたように硬直してしまう。



【――なぜ逃げる】



 また身体が震えた。


 しかし聞き覚えのある、悪夢から這い出したような声に、思わず周囲を見回す。


「…ウーフニール?」


 前方は怪物で塞がれ、覗ける場所は殆ど無い。それでも旧友を求めて視線を泳がし、やがて注意は怪物へと向けられた。


「……ウーフニール、なのか?」


 躊躇しながら彼の名を呼ぶが、怪物の口は見えない。

 あるのは無数に浮かぶ、金色の瞳と視線ばかり。


「本ッッ当に…ウーフニール、なのか!?」

【…幾度と呼ばすとも、貴様の声はいつでも聞こえている】


 黒い液体の塊から言葉が放たれ、途端に身体の強張りも溶けていく。

 潤んでボヤけた視界を無理やり腕で拭い、綻んだ笑みから一転。険しく、鋭い眼光で睨みつければ、掴みかかる勢いで身を乗り出した。


「おまッ、死ぬ程ビビったろうが!無言で追いかけてくるなよ!!」

【貴様が一目散に背を向けるからだ】

「当たり前だろ!?宿にいたと思ったら急にデッカい…どこなんだ、ココ?書斎ってやつか?……とにかくだ!知らない場所で見た事もない化物が出てきたら、誰だって逃げるに決まってる!!あのまま寝落ちして、恐ろしい夢でも見てるのかと思ったんだぞ!?」

【出会い頭に会話を求めていれば、何も問題は起きなかった】

「んなこと出来るかぁあーッ!!!」


 頬を濡らし、感情を余す事なくぶつけるが、ウーフニールは気怠そうに目を細めるだけ。 

 意に介した様子も見せず、アデランテも疲労が相まって力が抜けていく。


 ウーフニールに身体を預け、項垂れていたのも束の間。ふとアデランテを見つめる瞳の1つを除き、残りがギョロついている事に気付いた。

 視線を追うように周囲を見つめれば、ようやく自身を取り巻く光景に息を呑む。


 

 広大な吹き抜けを中心に、円を描くように階層が連なり、それぞれに所狭しと書架が並んでいる。

 奥まで決して見える事はなく、踏み台にした鉄柵も、各階へ繋がる螺旋状の回廊に備え付けた手すりだったらしい。

 ウーフニールが掴まっている柱も、吹き抜け周りを等間隔に囲い、空間を支えるように堂々とそびえ立っていた。


「……天窓?」 


 柱を追って頭上を見上げるや、吹き抜けを覆っていたのは巨大な天窓。夕日を彷彿させる淡い光が差し込み、空間全体を温かく照らしていた。


 神秘的な光景に唖然としていたが、ふいにアデランテが床に下ろされるや、弾けるように走り出した。

 彼女の背中を眼が一斉に追い、捕縛しようと手が伸ばされる。


 しかし手すりにしがみついたアデランテは、上に下に。瞳を輝かせながら忙しなく首を動かした。


「こんなに、こんなに沢山の本を見るのは生まれて初めてだ…ッ」

【大したものでもあるまい】

「何を言ってるんだ!見てみろよッ…いや、お前の方が目は沢山あるだろうから、言うまでもないだろうけど……すごい景色だ」


 落ちかねない程に身を乗り出したアデランテに、伸ばされた手も止まり。目につく物を手あたり次第に視界へ納めようとする彼女同様、無数の目玉も一帯を見回した。


 ウーフニールには見知った空間でも、改めて見れば一瞬見え方が変わった気がして。アデランテの目を通して眺めていた錯覚に陥ったのも束の間。

 視線を彼女に戻せば姿は無く、回廊を勢いよく駆け下りる背中が見えた。

 

 溜息を吐くように唸り声を漏らせば、すかさず吹き抜けを飛び出して柱を伝い、下から2つ目の階層へ巨体を放り込む。

 すると書架の前で熱心に。パラパラとめくってはページを止め、忙しなく目を通しては、次の本を手に取るアデランテを一瞥した。


「…木の家……ローブの人間…これって!あのッ…カミサマの最初の依頼で行った町のッ!!」

【マルガレーテの町。黒猫の記憶だ】

「おおぉぉっ!…こっちには……あの魔術師の女の絵が描いてあるぞ!?ほら、私らが助け出した弟子2人の絵も!」


 酷く興奮しながら本を開き、感極まればウーフニールに1つ1つ見せていく。だが彼女の喜びに反し、無数の眼玉は冷静に状況を観察していた。


 指を止めて“読んでいる”ページは挿絵ばかりで。文字だらけの紙切れは飛ばされ、読了速度の謎が瞬く間に解けていく。

 それでも段の半分にも満たず、アデランテが熱心に本棚を読み漁っていた時。手を止めるとウーフニールを見つめ、金と青の瞳が混じり合う。


「…ところでそれがお前の、本当の姿なのか?」

【この空間を動き回るために適した仮初の物でしかない】


 無機質かつ淡泊な答えが返されるも、その体長は人間を優に超す。

 巨体を6、7本の。その気になれば流動する本体からもっと生やせそうな手で、自らを宙に支えている。


 口から這い出るモヤの存在を把握したのか。ジッとウーフニールを眺めていたアデランテが視線を逸らせば、チラッと奥まで続く書架を見つめた。

 

「そうか……本を読んで、なんとなくは分かってるつもりなんだけどさ。ココはどこなんだ?」

【“読んだ”のか】

「ふふん、流し読みってやつだよ。こう見えて中身はしっかり頭の中に入ってるんだ」

【ならば最後に目を通した書物78ページに書かれていた内容は何だ】

「…さ、最後に覚えてるのは急に…まるで足の底が抜けて、どこまでも落ちてくような感覚でさ。気付けば本棚に囲まれてたんだよな、うん」


 決して振り向かず、背後に突き刺さる無数の視線からも目は逸らされる。

 だが腰回りを鷲掴みにされるや、瞬く間に階層から引き抜かれ、勢いよく柱を昇るウーフニールに、状況説明を求める暇もない。

 数秒と経たずに最上階へ到達するや、天窓へ強引に押し付けられた。


 差し込む温かな光とは違い、ガラスの冷たい感触が頬に伝わる。

 両手で引き離そうにも、強靭な力がアデランテの意思を拒み、仕方なくガラスの表面を滑るように前へ向き直れば、最初は漠然と。

 しかしすぐに天窓へ自ら張り付き、額をグッと押し当てた。


「――…宿屋だ」


 ガラス1枚隔てた向こう側。隈なく視線を泳がさずとも、ベッドから起き上がった際の光景が広がっている。

 路地が見える窓からは月明かりが見え、ソッと離れると部屋が見えなくなった。


 瞬時に夕日が顔を照らし、近付けば部屋が。離れると明かりが映り、不可思議な現象に身体を前後に揺らす。

 放っておけば100回は繰り返したろう行動も、身体ごと強引に引き離されると、否応なしにウーフニールと目が合った。


 幸い交わる視線は1つだけであったが、直後に全ての瞳が一斉に向けられる。それから無機質で、腹底を這うような、聞き慣れた声がゆっくり放たれた。


【この空間は貴様の心中にして、ウーフニールの臓腑そのもの。我らが喰らいし者たちが見聞きし、嗅ぎ、触れ、感じ、失い、得た、ありとあらゆる事象をすべて保管し、記録し続ける“記憶の臓書”だ】

「……私の、ココロ…のなか?」


 以前戸惑いは止まず、ふと眼下を見れば広大な空間が全て視界に飛び込んだ。あまりの高さに思わず彼の手にしがみつくが、原因はそれだけではない。

 

 空間そのものが。

 広がる臓書すべてがアデランテの中に広がっていると考えるだけで身体は震え、我城を得たような高揚感が沸々と込み上げてくる。

 

 その想いを言葉にしようとした刹那。グイっとウーフニールの眼前に引き込まれ、他に何も映らなくなる。

 アデランテの頭程もある金の瞳が、視界を全て覆った。

 

【そして同時に、この空間は貴様の物でもあり、管理者として厳正に保管する責を担う】

「…管理って言われても、正直文字を読むのは苦手で…」

【逃走の件は不問とする。だが次に書物を散らした時は、貴様を八 つ 裂 きにするからな。アデランテ・シャルゼノート】


 毛色の違う、凄みのある声と光景に喉を鳴らす。

 返事も出来ず、辛うじて首を動かして頷けば、ふと名を呼ばれた事実に場違いな喜びを感じた一方で。

 オーベロンとは異なる恐ろしい契約を結ばれた気がして。彼の怒りがひしひしと伝わって、掴まっていた手を強く握り込む。

 万が一吹き抜けに落とされてしまえば、警告通りの未来が待ち受けているだろう。



 そして彼ならやりかねない。


 そう思わせるだけの気迫と長い付き合いが2人にはあった。

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