049.羊は眠らない
ギシっと軋んだ音に、突っ伏していた宿の店主が顔を上げる。扉に油を挿さなければと思いつつ、唯一にして毎日会う常連に挨拶しようとした時。
「――…大丈夫かい?」
自分から客に声をかけたのは、生まれて初めてだったかもしれない。それ程までに客がくたびれて見え、いつもの朗らかな口元が歪んで見える。
「大丈夫、ではないけど休めば何とかなるさ」
「何か温かいものでも飲む?」
また言ってしまった。
普段使わない気遣いに、表情が変に崩れてはいないか心配になる。
だが幸い客に気付かれる事はなく。あるいは余裕がないのか。
遠慮がちに手を振った彼女は、足を引きずるように階段を昇っていく。
ギィっ……パタン。
直す扉は入り口だけではないらしい。いっそ宿の扉すべてに油を差そうかと、取り出した買い物リストに素早く書き加える。
それから筆を止め、ふと視線を逸らしてから再び走らせれば“スープの具材”も書き込む。
扉の開け閉めにまで覇気がないようでは、宿の店主としても調子が狂う。
安眠のため、金づるのため。
リストを眺めながら頬杖をつき、調理風景を思い描く内に目を閉じていたらしい。
そのままリストの上に突っ伏せば、静かな寝息が部屋を満たした。
――パタンっ。
後ろ手に扉を閉め、ベッドに迫ると力なく倒れ込んだ。
顔を枕に埋め、このまま眠ってしまえればどれ程楽だろうかと。瞼よりも重い頭をゆっくり起こせば、ベッドの端に座り直す。
チラッと窓を眺めても外を見る事が叶わず、どちらにしても一帯は真っ暗。確認せずとも人の出歩きは少なく、今頃は就寝前の自由時間を過ごすか、少し遅めの夕食にありついているだろう。
「…夕飯、食べ損ねたな」
グーとも鳴らない腹を擦り、深い溜息を零す。いつもならウーフニールと明日の予定を話し合う時間だが、今は食欲も眠気も他人事のように思えてならない。
【思い悩むならば喰らえと何度も忠告したはずだ】
「それじゃあ余計に罪悪感で押し潰されるだろ…それに死ぬ思いまでして助けたんだ。そんな事して堪るかよ」
【今ならば貴様の腹の中で小僧に会わせてやれるものを】
「そうしたら親御さんに報告出来なくなって…って違うだろ!この外道ッ!!そんな言い方するなよ。食欲が減ったらどうしてくれるんだ!」
【やはり無理にでも喰らうべきだったか…】
平行する裏と表の会話に、またベッドの上に寝転がる。
オルドレッドに伝えるための、ダニエルが残した“言葉”や“想い”など。1度も会話をしていない相手の心内など、分かるはずもない。
かといって虚言をでっち上げる器量も、それを伝える度胸もアデランテにはなかった。
だが“成り代わり”を得意とするウーフニールならば。ふと思いついた心当たりも、他者との関わりを拒む彼が協力するはずも無かった。
この手の面倒事は、大元を喰らって“無かった事”にする方が早いと言うだろう。
「…なぁ。最期の言葉みたいなのって、なんかないのか?」
【喰らった直後にも貴様に見せた】
「パーティの仲間を助けたいって話はもう解決したろ?そうじゃなくて…うう~ん……遺言?とかさ」
【ない】
「じゃあ形見がどうとかって話は…」
【ない】
「ッッ、そんな素っ気ない言い方するなよ!曲がりなりにもお前の身体だろ?私の悩みはお前の悩みでもあるんだぞ!」
【ならば喰らわせろ】
「それはダメだ」
やはり埒が明かなければ、解決策も思い浮かばない。このまま就寝し、明日起きてまた考える他ないだろう。
仕方なく瞳を閉じると一向に訪れない睡魔に苛立ち、思考を空にしようと試みる。だが浮かぶのはダニエルの最期と、懇願するオルドレッドの姿ばかり。
必要なのはアデランテの後悔の念ではない。ダニエルの想いなのだと、解けない方程式に1人葛藤していた矢先。
「分かった!!…ちょっと待ってくれ。今ので忘れた…え~っと。そうだ、記憶だ。ウーフニール!」
【うるさいぞ】
閃きと共に飛び起きるが、対照的に眠りを妨げられたような。それでいて普段と変わらないウーフニールに、心なしか興奮が少し冷める。
しかしおかげで思考がさらに冴え渡った。
「記憶だよ!アイツのきおく!!」
【それがどうした】
「私がこうして考えて、話してる事だって記憶の内の1つだろ?ならソイツの記憶の中で、親に関する想いとか10個や20個はあるはずだ!」
【………確かに保管されているが、個々の思想に脈絡はなく、時系列も異なる】
「でも想いは一貫してるはずだ。そいつを…言葉を切って繋げていけば、最期の言葉である事実に変わりはないと思うんだけど……どうだ、出来そうか?」
前のめりになって告げた案に返事はない。勢いだけの的外れな考えだったかもしれないが、やがて腹底を這う声音が響き渡る。
【貴様が受けた依頼だ】
「……へっ?」
【――貴様が自ら探せ】
言葉の意味を理解する間もなく、突如視界が急速に遠のいていく。
月明かりや部屋も消え、奈落の底へ落下する身体を反転させれば、無限の暗闇に沈んでいく最中。アデランテを何度も救った魔法の呪文を叫んだ。
「……う、ウぅーーーーーフニィィイイイイルッッ!!」
残り少ない命を延ばすために与えられた、カミサマの贈り物。
どんな時でも彼女を守ってくれる“相棒”はしかし、一向に返事をくれない。
ありったけの声も闇に吸い込まれ、このまま地獄に堕ちるのではと。一瞬よぎった不安にアデランテの最期がよぎり、オーベロンと契約した情景が目に浮かぶ。
悪夢を打ち消すために再び呪文を唱えようとした刹那、突如全身が地面に打ち付けられ、衝撃で肺が震えた。
息も一気に吐き出されたものの、不思議と痛みはない。
「う、うぅ……あれ?」
恐る恐る目を見開くが、普通に息が出来る。
指先も曲がり、足も動く。
腕を伸ばせば固い枠組みにぶつかり、僅かな鈍痛が触れた先から走った。
「…感触はある、と……もしかして寝惚けたのか?」
知らぬ間に寝落ちしてベッドから落ちたのだろう。恥ずかしさに赤面するや、慌てて周囲を見回した。
先程の絶叫が店主まで届いたのでは。
だがそれ以前にウーフニールが聞いていたはずで。
言い訳を考えながら声が掛かるのを待ったが、アデランテの耳には何も届かない。
「…ウーフニール?」
それどころか周囲は暗闇で閉ざされたままで、状況が今1つ理解できない。
ひとまず立ち上がれば身体が鉛のように重く、膝から崩れ落ちかければ、慌てて枠組みに掴まった。
「……棚?」
疑問がもたげ、ひたひた触れつつ手を滑らせる。
当初の直感通りに棚の触感が返ってくるが、目をグッと凝らしていた矢先。突如本棚が眼前に現れると、咄嗟に後ろへ飛び退いた。
直後に背中へ固い物が当たり、慌てて振り返れば同じく本棚が佇み、それも1つではなく、横一列にずらりと並んでいた。
全ての段には所狭しと本や巻物が陳列され、それらを詰めた箱も不規則に置かれている。
1つでも手に取ってみたくなるが、あまりの量に、何処から手を付ければ良いかも分からない。
アデランテを挟むように佇む本棚は、見渡す限りに奥まで続き。夢の続きかとその場で困惑してしまう。
それでも足腰がようやく落ち着けば、書架の通路を指先でなぞりながら進む。
伝わる感触1つ1つが、とても夢の中とは思えない。だが景色そのものは現実味を帯びず、幻影を彷徨っているようにすら感じる。
なによりも書物、もとい活字に目を通すのは大の苦手。従来ならば悪夢の類であろうが、不思議と身体によく馴染む。
何故か郷愁すら覚え始めたものの、ふいに足を止めれば周囲に耳を澄ませた。
ゆっくり周囲を見回すが、通路の奥まで立ち並ぶ書架が視界を遮って、視覚には頼れない。
それでも何かが聞こえたのは間違いなかった。
「…う、ウーフニール?」
心細そうに問うた言葉に、相変わらず返事はない。
代わりとばかりに――ベタリっ、と。書架の端を黒い影が掴んだ。
ずるずると引きずるように影は力を込め、やがて書架の裏から這い出た“モノ”に、アデランテは目を見開く事になる。