046.回復士ジェシカ
ジェシカの生い立ちは、波乱万丈とは無縁の穏やかなものだった。
修道院で回復術を会得するや、救いを求める子羊を助けたいと思うのは自然の摂理。最初は衛兵の屯所で。
それから教会を巡り、町の治療施設で働く内に冒険者と打ち解けていく。
歳が近い事もあって勤務外でも接し、気付けばパーティの一員に迎えられていた。
しかし清く健やかな聖職者の生活から一転。待ち受けていたのは“冒険”とは名ばかりの泥臭い日々だった。
一部の我儘なメンバーも相まって、何度辞めかけたか思い出したくもない。
それでも回復士の責任感や、パーティただ1人の女としての意地もあったのだろう。思いのほか長く所属したものの、その頃にはリーダーのエルメスばかり目で追っていた。
謙虚で、実直。決して他者を甘やかさないが、常に気を配ってくれる温かみのある優しさを持ち、剣の素振りも毎朝欠かさない彼を見るために、何度早起きした事か。
大抵の女であれば、彼のような好青年にすぐ惚れてしまうだろうと。つまりは自分もチョロい女の1人なのだろうと、少し自己嫌悪に陥ってしまう。
考えないようにしつつも、冒険者業は順調に進む。回復術で多少の無茶も押し通し、1年後には驚異的なスピードで“青銅”に昇級した。
射手フランダが宴会まで開こうと浮つくが、一方で魔術師ドットは冷静だった。エルメスも彼に同意見で、むしろ疑心暗鬼だったと言ってもいい。
確かにほぼ毎日。休む事なく真面目に依頼をこなしてきた成果とも言えるだろう。
しかし言ってしまえば、彼らの取り柄はそれだけ。勢いだけの若造の集まりが、そう簡単に昇級して良いものか。
2人の慎重な意見も、戦士レイトと盾士グルドンに“悲観論”と一蹴される。
そもそもエルメスのリーダー職も名ばかりで、主な役割はギルドの受付対応だけ。個別で好き勝手に発言し、行動するパーティのまとめ役でしかなかった。
いつ解散するかドキドキしながら見守っていたが、彼らは幼馴染だと聞いていた。
最後に加入したジェシカと違い、勝手知ったる仲。だから喧嘩し、衝突しようがそれは当たり前の事なのだと。
あまり深くは考えないように務めていた。
それでも森のさらに奥。“銀等級”の区画へ進むと提案した際は、流石のエルメスたちも強く引き留めた。
“銅”の仕事は討伐よりも隠密に徹し、魔物の生息分布図の作成や調査が基本。
“青銅”に上がってからは、数度キャラバンの護衛に就いたのみ。
前者は力を持て余し、後者は魔物が出なければ完全な給料泥棒。御者や商人の刺々しい視線に、仕事へ嫌気が差す気持ちはよく分かる。
ゆえに進むなら日時をしっかり決めて。入っても奥まで行き過ぎない事。
そして十分な装備を整え、安全を考慮するよう提案が挙げられる。
だが不完全燃焼の日々に加え、野心で滾る彼らが話を聞いていたか定かではない。
不安を抱えつつ、ノコノコ言われるがまま追従すること数日。地図を見れば銀区が近付き、1歩迫る度に鼓動が速く脈打つ。
隊列の半分は堂々と。もう半分はおっかなびっくりと。
足並みの悪さに反し、旅路は順調に進む。見慣れない魔物も討伐し、やはり杞憂だったと緊張の糸が緩んだ矢先だった――。
「ジェシカ!回復魔法、回復魔法でレイトを頼む!!」
「フランダ、奴の顔めがけてもっと撃て!少しは怯むはずだっ!」
移動中にジャイアントマンティスと遭遇し、6人中2人が重傷を負う。エルメスとフランダが注意を引く間に怪我人を引き離したが、レイトは白目を剝き、ドットは息をしていない。
回復士でなくとも手遅れなのは一目瞭然だった挙句、グルドンは戦闘に参加せず、後衛の防御と称して怒鳴るばかり。
彼さえ黙っていれば、とっくに撤退を訴えかけていたろう。
斬撃と怒号。涙と恐怖で顔も上げられない中、最悪の事態は意図も容易く訪れた。
パキーンっ、と。乾いた音に肉の裂ける音が混じり、聞き慣れたエルメスの声も悲鳴に変わる。
宙高く飛ばされた彼は地面に倒れ込み、蒼白になったフランダは躊躇なく逃走。グルドンも振り返らずに後を追った。
立案者2人の後ろ姿に裏切りと絶望を覚え、逃げたくとも身体が動かない。最悪這えば逃げる事は出来たろうが、見ればエルメスはまだ息をしていた。
彼を見捨てるわけにいかず、どっちつかずの迷いがジェシカの思考を塗り潰した時――。
――ゴっ。
ふいに鈍い音が響き、ジャイアントマンティスの脚に突進する魔物の姿を捉えた。 果敢にソルジャーラビットは挑んでいたが、片脚をド突いた程度で倒れるはずもない。ジャイアントマンティスも当初は怪訝そうに足場を変え、軽くあしらうだけだった。
しかし歯牙にも掛けていない様子は、やがて徐々に追い払い方も獰猛になっていく。それから怒りを露に追撃を始めるや、共に森の奥へ去って行った。
あとには静寂とジェシカだけが残され、そのまま意識を手放してしまいたかったが、ふいに顔を上げれば、慌ててエルメスの傍まで這って行った。
微かに息はしているが、ホッと胸を撫で下ろしている時間もない。すぐさま両手を掲げれば、回復魔法を唱え出す。
「〝穢れた身を清めよ。新たな生に喜べ。我が名をもって命じる。愛しい源の主よ”…頑張ってね、エルメス。必ず治してあげるから……ソルジャーラビットの縄張り意識って、あんなに強かったんだ…知らなかった」
温かな光がエルメスを包むが、魔物同士の争いを初めて括目した困惑が抜けない。それでも傷口は徐々に癒え、笑みを浮かべたくなったが、負傷箇所は他にもある。
腕や足。
身体。
首と無数にあり、血はだくだく流れて止まらない。
キリがない容態に回復魔法を解除し、ローブを破りながら応急手当に切り替えるが大きな傷を治せば、小さな傷から出血を。
小さな傷から治すと、大きな傷で致命傷を。
いっそ町まで引きずりたいが、動かせば苦しそうな呻き声が上げられる。目を開ける事はなく、ジェシカが使える回復術も下級魔法のみ。
助けられるはずの命が、己の未熟さのせいで失われつつあった。
もっと魔術を勉強していれば。あるいは最初からパーティを断っていれば。
きっと彼らも気を大きくして、銀区に踏み入る事もなかったはず。なけなしの回復術で傷を癒し、涙を零しながら謝罪の言葉を紡いでいた時――ガサッ、と。
大きく揺れた茂みに身体ごと跳び上がり、咄嗟に剣を拾えば両手を突き出すが、剣術の腕前はからっきし。
挙句に剣先はへし折れ、本来の殺傷能力も完全に削がれている。
それでも震える手を突き出せば、振動で剣がカタカタ鳴いた。たとえ相手がソルジャーラビットでも、勝てる可能性は微塵もない。
しかし手の力が途端に緩めば、そのまま剣を落としてしまった。指先の震えは止まらず、ようやく胸元に引き寄せると大きく息を吐く。
茂みから姿を現したのは魔物でなく同業者。その首元に下げた青銅のプレートが何よりの証だった。
「……大丈夫、ですか?」
開口一番で掛けられた言葉に「大丈夫に見えるっっ!?」と怒鳴りそうになった。
もっとも1人では無くなった安堵感が勝り、声を出す気にもなれない。首を振って今の心境を精一杯伝えるが、惨状に対して相手は酷く落ち着いているように見えた。
目深く被ったフードで顔は見えず、声や背格好からエルメスと同じ年頃だろうか。冷静に佇む彼を眺めていたものの、我に返ったジェシカはすぐさま回復魔法を唱え出す。
「あ、あなた1人?ほかにパーティは?回復薬とか、なにか治療に使える道具はない?お金なら町に戻ってからいくらでも払うからっ!」
エルメスと青年を交互に見つめ、勢いよくジェシカが捲くし立てた。視界の端では血の海が広がり、自分の顔が蒼白になっていくのが分かる。
もはや一刻の猶予もなく、青年が現れたのは幸運か。
はたまた使えない野次馬か。
せめて前者である事を強く願いながら、必死に術をかけ続けていた矢先。いつの間にか反対側に屈み込んでいた青年が、同じように両手をかざした。
「〝穢れた身を清めよ。新たな生に喜べ。我が名をもって命じる。愛しい源の主よ”」
暖かな光がエルメスの身体と、ジェシカの心をも包み込む。
彼もまた回復士だったらしく、奇跡的な巡り合わせに神へ感謝を捧げたくなるが、その前に青年に伝えるべきなのだろう。
ようやく絞り出せたのは感慨もない、ジェシカの単純な誠意だけだった。
「…あ、ありがとう」
出血も止まり、みるみる傷口が塞がるエルメスに心の底から安堵も覚えた。余裕も次第に生まれ、チラッと青年を一瞥するが返答は無い。
フードのせいか。あるいは疲れ切っているせいで、声が届かなかったのかもしれない。
今度こそ聞こえるように口を開けば、フードの下からポツリと相手が応じた。
「気にしなくていい…ヨ」
歯切れの悪い不自然な語尾に、一瞬眉をひそめる。
しかし命の恩人を詮索する真似はせず、それでもエルメスの容態が安定すると、意識は自ずと青年に向いてしまう。
「……助けてくれるのは有難いけど、あなたのパーティが心配するんじゃないの?」
「…1人だから平気」
「1人?あなた、回復士なんじゃないの?」
「えっ?…あっ、え~っと。アレだ!ヨ。仲間とはぐれて森の中を彷徨ってたら戦闘音が聞こえたから、コッチかなぁーって…」
歯切れの悪い声音に見上げれば、青年は増々俯いて顔を隠してしまうが、彼の首から下がる青銅プレートにジェシカも口を閉ざす。
身の丈に合わない上昇志向を持ったパーティは他にもいるのだろう。
彼もきっとジェシカに同じ。無理やり連れられた被害者なのだと合点がいき、急速に仲間意識が芽生える。
やがて傷が完治したエルメスの寝息で笑みも綻ぶが、振り返れば仲間の死体が並んでいる。
もはや治療も叶わず、回復士として出来る事は何もない。せいぜい埋葬し、祈りを捧げるのが関の山だろう。
沈痛な面持ちで青年に協力を仰ぐも、返答は思いのほか辛辣だった。
「埋めたところですぐに魔物や獣に掘り返されるのがオチだ…ヨ。心残りがあるなら形見を持っていけば良いんじゃないかな。財布の中身とか」
現実的だが、それでいて冷徹な一言に少なからず苛立ちを覚える。
もっともエルメスを助けてもらった手前、言い返す筋合いはない。それに彼らが死んでも、ジェシカたちは生きている。
生きていれば金がいる。
手を合わせ、2人に感謝と謝罪を。それから別れを告げれば、顔をしかめながら懐をまさぐった。
程なく金貨の入った袋を掴むが、音や軽さから中身に期待は出来ない。複雑な思いに駆られながら向き直れば、青年はエルメスの腕を肩に回していた。
無言で出発を促してくるが、確かにゆっくりしている場合ではないだろう。
回復士2人だけでは魔物に対処できず、戦闘を終えた静けさと死臭に、魑魅魍魎も遅かれ早かれ寄ってくる。
急いでポーチから地図を取り出し、バッと広げた直後。勢い余って端っこが破れ、思わず青年に目を向けた。
幸い彼は明後日の方向を見つめており、破片をこっそりローブに隠す。
改めて地図を睨みつけるが、最初は確固たる眼差しで。それから徐々に泳ぎ出し、終いには目線が覚束なくなる。
ジャイアントマンティスに遭遇し、当てもなく逃げ回ったせいだろう。地図を見たところで、自分が今どこにいるのかさえ把握できない。
「…行かないのか?」
ふいに聞こえた声に振り返ると、青年はすでに歩き出していた。何処に通じるとも分からない、森の奥へ向かって。
「……行くって、どこへ?」
「町に戻るんだろ…よね?それならコッチダヨ」
普通に話していたかと思えば、突如語尾が固くなる。まるで別の生き物が人の皮を被ったようであったが、慌ててバカな考えを振り払う。
命の恩人に加え、そもそもエルメスを1人で支える力もない。道も知らなければ従うほかなく、青年とは反対の肩に腕を回した。
それから茂みにローブを取られながら歩くが、会話もなければ獣道があるわけでもない。いつ到達するとも分からない時間が、ただ悪戯に過ぎていく。
日頃の運動不足に汗は滝の如く流れ、いっそ青年に全てを託したくなってしまう。
弱音も一緒に零しそうになるが、その度にエルメスを見て再起を図る。彼が最後まで魔物と戦っていた勇姿を焼き付け、何度でも自身を奮い立たせた。
しかし一方で、視界には助けてくれた青年も同時に映り込んだ。
いくら歩いても疲れを見せず、顔はフードの下に隠れたまま。覗き込むように身体を傾けても、鼻から下しかジェシカには見えない。
「…人のこと言えないんだけど、ここが銀区なのは知ってるわよね?私の仲間はもう…あぁなっちゃったけど、あなたはいいの?私たちを呑気に助けてくれて。パーティの皆が探してたりしないの?」
「……強い、人たちだから多分だいじょうぶダヨ。うん」
「そもそも道に迷ったって言ってたのに、どうして町の方角が分かるの?」
「………それは」
『印を刻んであるから戻る分には問題ないんだ。一応パーティの極秘情報だから詳しくは言えないけど』
人形のように片言で語れば、人が変わったように流暢な声音で話し出す。相手の二面性に驚かされるも、ひとまず納得するとそれ以上の追及はしなかった。
残る体力を歩く事だけに傾けるが、もともと多い方でもない。女だから、という理由で重荷を背負わなかったツケをひしひしと感じていた。
流れる汗に何度も髪を鬱陶しそうに払うが、広がるのは同じ景色ばかり。気を紛らわせるために“秘密の印”を探すが、それも一向に見当たらない。
いよいよ恩人の言葉に不信感を抱き始めた頃――。
「――どうした、着いたぞ…よ?」
「…ぞよ?」
気の抜ける言動に汗だくの顔を上げれば、いつの間にか森を抜けていたらしい。整備された街道の感触が足底に伝わり、道なりに進めば町にも着くだろう。
「じゃあ仕事の途中だから、この辺で。ソイツ…彼を連れていけないようなら他の冒険者か、通りかかる御者にでも助けてもらっ……テネ!」
不自然な語尾を残し、颯爽と青年は森に消えてしまう。引き留めようにも姿はすでに無く、伸ばした腕をゆっくり引き戻した。
途端に重圧が肩に集中し、その場にへたり込んだ。強引にエルメスを押し戻せば、互いに身体を預け合って一息吐く。
チラッと彼の寝顔を見つめるが、いまだに起きる気配はない。呑気に眠るエルメスの鼻を弾きたくなるが、誰よりも頑張ったのはリーダー自身。
ジャイアントマンティスとの奮闘を思えば、そのまま寝かせてあげるべきだろう。
優しく前髪を撫でつけ、ようやく落ち着いたのも束の間。
「…~っっそれに比べてあいつらときたら…!!!」
逃げ出した2人をどうしてやろうか。煮ても焼いても許せない裏切りに、沸々と怒りが込み上げる。
記憶に新しい臆病者の後ろ姿に、かつてない殺意が湧き上がった所で、ふと乱入した魔物の存在を思い出した。
冒険者6人が相手にもならなかった魔物に挑んだ、勇敢なソルジャーラビット。今思えば森へ去る時に目が合った気さえしたが、きっと勘違いだろう。
双方がどうなったか知る由もなく、幸いどちらとも遭遇する事はなかった。
代わりに現れた不審な恩人によって街道まで運ばれ、あとは彼の言う通り。誰かに拾ってもらい、町まで向かえばいい。
唐突に襲った倦怠感に眠気すら覚え、ゆっくり瞳を閉ざす。そのまま意識を手放そうとしたが、ガバっと起き上がれば青年が去った方角を睨んだ。
その拍子にエルメスが地面に倒れてしまうが、彼の身を案じている余裕はない。
「――…仕事の途中だから?」
去り際に、彼は確かにそう言っていた。
出会った時は仲間と逸れた、と言いながら。
それもお使いに出ている、子供のような言い方で。
一体彼は何者なのか。
疑念は際限なく積もるが、遠くから聞こえた馬鉄の音がジェシカの関心を全て奪った。