045.白い悪魔
剣が悲鳴を上げると同時だった。
青年の身体が武器ごと斬り裂かれ、衝撃で後方に吹き飛ぶ。仲間の惨状を見るや否や、射手が装備を捨てて逃走。
盾持ちの男も一瞬戸惑うが、遅れてその場を立ち去った。
戦線を離脱した彼らを魔物も眺めていたが、興味を失ったようにそっぽを向き、口元に運んだ鎌の手入れを始めれば、戦闘の終わりが告げられた。
残された回復士は裏切りに言葉を失い、青年も瀕死の重傷で動けない。彼女もまた視線を泳がせ、逃げ出すべきなのか。
それとも息のある仲間を助けるべきなのか。
どちらとも決断できずに涙を流しながら、その場で震え上がっていた。
一方で魔物の瞳に映るのは冷たくなった冒険者2人に、瀕死の人間が1人。そして肉付くの良いものは1人、跪いて顔を覆っている。
計4つの大戦果に、魔物も逃げた小物を追う真似はしない。胸中に渦巻くのは食べる順番だけで、程なく枯れ木のような足を緩慢に動かした。
向かう先は纏めて3つも食べられる、“新鮮な肉”が座り込んでいる餌場。数日は食べずに済む量に涎を垂らし、やがて回復士に鎌を振り上げた時――。
――ゴっ。
鈍い音が木霊し、弾かれたように魔物の片足が宙に浮かぶ。
残る3本足で自らを支え、唐突な出来事に忙しなく首を動かせば、巨大な瞳はすぐに原因を捉え、その動きを訝し気に追った。
長い耳に、クルクル巻かれた2本角。これまで幾度も捕食してきた獲物から興味が逸れ、すぐに意識を回復士に戻した。
それから続きとばかりに鎌を振り上げ、いざ降ろそうとするも。
――ゴスンっ!
今度は足を2本纏めて撥ねられ、衝撃にグラっと身体が傾く。
地面に鎌を突き立て、自らを支えれば再び新参者に顔を向けるは、視界に捉える頃には足をさらに追突され、幾度も足場を変えさせられる。
苛立ち紛れに鎌が振り下ろされるが、切っ先は掠りもしない。
次第に邪魔者を敵対者として認識を改め、適当にあしらっていた動きも一変。身体を捻じりながら猛攻を繰り出し、鎌が触れた地面を次々と抉っていく。
唐突な攻勢にソルジャーラビットは距離を取り、“降参”とばかりに後退。しばし睨み合うと、踵を返して森の奥へ逃げ出し去って行った。
戦闘が再び終止符を迎えるが、すでに冒険者の事など眼中にない。即座にジャイアントマンティスは後を追い、茂みを豪快に踏み潰していく。
射程内に捉えれば一撃を見舞うが、巧みに物陰を移動されては悉く外れる。
だがジャイアントマンティスの心境は至って冷静だった。
巨体と小物では消費するエネルギー量が違う。執拗に追えばいずれ疲弊し、穴倉へ逃げ込んだが最期。
鎌を使うまでもなく、細長い首をそのまま入口に突っ込んで喰らえばいいだけ。
味は十分知っていたが、標的を変更した事で朝食を食べ損ねてしまった。余計な運動で腹も減り、限界に達した空腹の代償を贖ってもらわねばならない。
口内から溢れた唾液が滴り、今か今かと待ち望んでいた時間がようやく訪れた時。
突如視界が眩しくなり、ゆっくり足を止めた。気付けば開けた土地に踊り出し、昇った太陽の明かりが煌々と一帯に降り注いでいる。
そんな日差しの中でソルジャーラビットは堂々と佇み、狙い通り疲弊したのだろう。観念した獲物に鎌を持ち上げ、一撃で仕留めるべくタイミングを窺った刹那。
ふとよぎった疑念に動きが止まった。
逃げる獲物は大抵狭い場所へ隠れるが、目前のソルジャーラビットは違う。その場で毅然と踏み止まり、瞳には恐怖の色が宿っていない。
僅かな困惑に興を削がれ、吹き抜ける風に細い身体が揺れるも、込み上げた空腹には変えられなかった。
弾けるように跳び出すや、両の鎌が素早く振り下ろされる。
初大刀は背後に飛び退かれて外れるが、すかさず距離を詰めた直後。ソルジャーラビットが懐へ飛び込み、そのまま足の下を潜り抜けていく。
すぐに上体を捻って雨の如く連撃を見舞うが、速度ではやはり敵わない。それでも大木まで追い詰めれば、今度こそ仕留めるべく鎌を大きく振りかぶった。
足を止める予測地点を綿密に狙うが、ソルジャーラビットは速度を落とさない。大木へ衝突する勢いのまま、やがて前脚が大木へ掛かった瞬間に縦方向へ。
垂直に木を駆け上がり、瞬く間にジャイアントマンティスの目線へ到達する。
予期せぬ行動に構えは解かれ、おかげで身体は隙だらけ。ソルジャーラビットが蹴り出せば、容赦なく2本角が胸部にぶち当たった。
鈍い音が轟くと共によろめき、ソルジャーラビットは地面に着地。しかし落ち着く間もなく、即座に跳べば鎌が着地点に深々と刺し込まれた。
獲物が繰り出した渾身の一撃は効いておらず、せいぜい外殻がヘコんだ程度。
角。
体格。
そして攻撃範囲。
どれを取っても負ける要素はなく、食物連鎖が現実の残酷さを物語る。
森の覇者が誰かようやく理解したのか、ソルジャーラビットもやがて動きを止めた。観念した獲物に狙いを定め、鎌を折り畳めば重心を僅かに後ろへ下げる。
確実に獲物を仕留める態勢に入り、次の一撃で口内に収めようとした矢先。無意識に1歩下がり、生まれて初めての後退に自身でも驚いた。
散々小突かれた脚の負傷を疑うが、動かしても異常は感じられない。
だが安心して間もなく、突如獲物が飛び立てば木の側面に張り付いた。
身体を震わすや、身体を食い破るように横から8本の脚が突き出し、泡が湧くかの如く瞳も8つ膨らむ。
額にも3本目の禍々しい角が生え、口内は猛獣に似た牙がずらりと並ぶ。
口から洩れる奇妙な音は鳴き声か。
はたまた威嚇なのか。
蛹から蝶へ羽化する姿とは程遠い、おぞましい出で立ちや光景に思わず慄いた。
どちらが捕食者か忘れかけるも、強者の自負が。生存への強烈な欲求が魔物を留め、顔めがけて吐かれた白い粘液を咄嗟に躱した。
反射的に鎌を振れば木を抉るが、飛び移った怪物には当たらない。さらに粘液が吐き出され、首をずらして直撃を避けるが、糸は直線状に伸びている。
その正体を知る前に初弾の白い粘液が肩に触れ、その場で固定されてしまった。
咄嗟に断ち切ろうとすれば鎌まで巻き取られ、もがく程に粘液は絡まり、ふいに足を抉る衝撃が全身のバランスを崩した。
為す術もなく地面に倒れ込み、身体は一層糸に絡み取られるが、唯一無事な首をグルリと回転させれば、敵は眼前に着地。
無数の瞳をギョロつかせながら見つめるや、ガバっと口が開かれる。
ギラリと並ぶ牙にいよいよ捕食されるかという時、喉奥の深淵より黒いモヤが漂った。
この世の“終焉”を彷彿させる光景に。ソルジャーラビットの皮を被った、得体の知れない“何か”に。
生存本能が激しく警鐘を鳴らすや、必死に粘液から脱出すべく暴れ出す。
しかし白い糸は一向に剥がれず、モヤが顔に触れかけた刹那。粘液に覆われていない腕を。
鎌を強引に身体の下から引き抜き、そのまま怪物を斜めに叩き切った。無理やり動かしたせいで関節が嫌な音を立てたが、命あっての物種。
その甲斐あってか、密度の濃かった黒いモヤは途端に霧散して消えた。
脅威は去り、緊張感は左右に割れた怪物同様に少しずつ溶けていく。
何とか勝利は収めたものの、白い粘液でいまだ身体は動かせない。目前の怪物を眺める以外に出来る事もなく、半身がドロリと溶け合う姿を見納めた。
だが鮮血は一滴も零されず、ふいに液体が徐々に高く。かつ細く築かれていくや、1人の冒険者が姿を現した。
フードを目深く被り、粘液で身動きを封じられた魔物を見下ろす様に、何を思っていたか定かではない。
それでも口を開けば、黒いモヤが這い出した事で同じ怪物であったと。再び脳裏に警鐘が鳴らされても、最期の抵抗は粘液に悉く阻まれる。
やがてジャイアントマンティスの巨体も覆われ、後には影も形も残らない。
嵐の後の静寂だけが吹き抜け、木立ちの如く佇む冒険者がふいに踵を返せば、首にかけた青銅のプレートをはためかせながら、颯爽と茂みの中へ分け入った。