039.偽りの兆し
「……んんっ」
重い瞼が持ち上がる事を拒絶する。
意識こそ朧げに覚醒しても、もう少し惰眠を貪っていたくて。頬に触れる布地に顔を擦り付ければ、両腕で力強く抱き込んだ。
心地良い感触に再び眠気を覚えたが、ふと掠めた違和感に眉をひそめる。
横たわっているわけではなく、姿勢は垂直。身体も揺らされ、誰かに背負われている感覚がする。
眠っている場合ではないと。気怠い瞼を無理やり開けば、視界に溢れんばかりの緑が飛び込んだ。
意識を失う前にも見た景色と差異はないが、共にいたパーティが周りにいない。
戦士マニュエラ。
魔術師アルバート。
リーダーのディジー。
そして――。
「――ダニエルっ!?」
ハッと身体を起こした反動で仰け反り、慌てて背負われていた人物の肩を掴む。
オルドレッドの覚醒に相手もゆっくり振り返ったが、目深く被ったフードで顔が見えない。
しかし鼻先が見えた途端。
「おっ、起きたぐッふぁっ!」
振り返り際に拳を横っ面に捻じ込み、その拍子に相手の背中から脱出。地面を転がりながら態勢を立て直し、ナイフを取り出そうと素早く腰に手を回した。
だが指先は勢いよく空ぶり、慌てて一瞥すれば装備は悉く消えている。ポーチも無ければ、胸に隠し持っていた魔晶石まで無い。
自ずと相手を睨みつけたが、殴られた後に受け身を取れなかったのだろう。そのまま地面に倒れたらしく、腕を地面に突き立てながらゆっくり身体を起こしていた。
「……やめてくれ…悪気はなかった、と思う……その時はその時さ」
手加減している余裕はなかった。
思いっきり。それも至近距離で殴ったとはいえ、意識を混濁させる一撃を。独り言を呟かせるダメージを与えたのかと、自身の拳を思わず見つめる。
それから相手に視線を戻せば、まず黄土色の縦線が入った青いサーコートが目に入った。
その下に着込んでいるのは鎖帷子だろうか。膝から下は足甲で履包み、左肩から先を手甲が覆う。
一方で右腕に防具を装備していない様子から、戦い慣れている事が窺える。
顔もフードで見えないが、斜め掛けのベルトが胸の谷間に喰い込み、腰のくびれと合わせて女らしさが一層強調される。
性別が判明しただけで自然と警戒心も緩み、加えて相手は怒る素振りも見せていない。左頬に古傷が走った口元には、優し気な笑みが浮かべられていた。
「それだけ元気があるなら、もう心配はなさそうだな。無事でよかった」
「……ほかの、ほかの皆は…ダニエルはどこなの?ここは、どこ?私は…オルドレッドだったわね。でも…あなたは、誰なの?」
問いかけると相手は一瞬面食らったが、すぐに笑みを浮かべると立ち上がった。
咄嗟にオルドレッドは身構えたものの、彼女の挙動を観察しても敵意は微塵も感じられない。
「誰でもない、ただの通りすがりの傭兵さ」
「…傭兵?」
得意そうに語る彼女を訝し気に見つめるが、服装から佇まいまで。確かにそこらの馬の骨――もとい冒険者とは一線を画す。
どことなく高潔な雰囲気も感じ取れるが、同時に猛獣が如き鋭い空気も纏っている。
かつてない不可解な印象に首を傾げ、そんな彼女がなぜ森の中を。それもオルドレッドを背負って歩いていたのか疑問が浮かぶが、少なくとも敵ではなさそうだと。
直感が耳元に囁けば、構えはすぐに解かれた。
「…ごめんなさい。多分助けてくれた、のよね?殴った事は謝るわ」
「ははっ、気にするなって……なっ?だから言ったろ。悪気はなかったって」
「本っっ当にごめんなさい!でも、ほかの皆は……最後にジャイアントスパイダーの群れに襲われて、首を背後から叩きつけられたのは覚えているのだけれど…」
咄嗟に首筋に触れたが、痛みはおろか腫れてすらいない。念の為に周囲を見回しても、何度確かめても相手と自分の2人しかいなかった。
そうなると“独り言”はともかく、どうしても疑念が脳裏をよぎってしまう。
「さっきの質問、答えてくれるかしら。ほかの皆はどうなったの?あと装備。隠しておいたのも含めて無くなっているのだけれど……それに身体の傷。あなたが治療してくれたの?」
矢継ぎ早に質問を重ねれば、相手は困ったようにフードを掻いた。
しかしオルドレッドには意識を閉ざしてから、今に至るまでの経緯を知る権利があり、それらを説明するうえで、中には話辛い内容もあるのだろう。
胸に手を置くと、深く息を吸い込んだ。
――…覚悟はできてる。
返答を辛抱強く待ち、やがて頬を掻きながらチラッとオルドレッドを見つめるようにフードが持ち上がる。
「君のお仲間は、その…全員死んだよ」
重々しい口が開かれるや、グラっと視界が揺れる。支えようと近付いた相手を片手で制し、自分の身体を抱いたままその場で持ち堪えた。
恐ろしい悪夢はいまだ醒めず、景色も歪んだまま元に戻らない。
それでも理性の狭間に浮かんだのは、軽口ばかり叩くお調子者2人に、パーティの事を第一に考えて動いていた寡黙な戦士1人。
そしてダニエルの姿が目を瞑れば見えるのに、冷徹な現実が無情にも幻想を打ち砕く。気を抜けば地面に膝をついてしまいそうで、震える手を弱々しく木に添えた。
弱みを見せてはダークエルフの――冒険者の名が廃る。
それに彼らも所詮は人間。ダークエルフと違い、すぐに寿命を迎えて死に分かれる。
彼女を置いて土の下に埋まってしまう。
だから慣れている。
別れなど、いままで幾度も経験している。
自分にそう言い聞かせながら、少しずつ身体を起こせば、会話の続きを無言で促した。
「え~っと、君の武器はコレで全部なんだけど……魔晶石は脱出する時に全部使ってしまったんだ。弁償は勘弁してくれよ」
「…脱出?」
疑問を覚えながらも、古びた布切れが地面に置かれる。彼女がゆっくり後ずさり、慎重に近付いたオルドレッドはソッと包みを開く。
中身は指先から肘まで丈がある短剣2本に、小さな矢筒が1つ。どちらも魔物の体液と土埃で覆われ、洗って研ぎ直す必要があるだろう。
ショートボウもあったはずだが、相手の反応から隠し持っているようには見えない。新規購入を早々に考えれば、スクッと立ち上がった。
「まだ自己紹介をしていなかったわね。私はオルドレッド。オルドレッド・フェミンシアよ」
「宜しくオルドレッド。私はアデ…アデ……えーっと」
「…アデットって言うの?」
「いや、そうではないんだが…」
「ソーデンダガー……アデット・ソーデンダガーね。カッコイイ名前じゃない」
「…もうそれでいい」
頷くオルドレッドに反し、何かを言いかけた彼女は諦めたように口を閉ざす。不思議な反応に首を傾げるが、それもすぐにどうでもよくなった。
何故ならこれから尋ねる話こそが、アデットに聞かなければならない本題ゆえに。
――…立っていられるかしら。
深い溜息を吐き、暗い面持ちで仲間の最期を問いかけた。言葉の1つ1つが気分を滅入らせ、その様子にアデットも閉口してしまう。
しかしいくらか悩んだ末、恐る恐る言葉を紡いでくれた。
「…最期を看取ったわけじゃないんだ。私が着いた時には、君たちが襲われた場所に血だまりや装備の切れ端が散乱していて、身体はどこにも見当たらなかった」
「……そう」
「それと、身体の傷だけど…」
つらつら話して間もなく、そこで相手はまた口ごもった。表情はフードで見えないが、視線はオルドレッドの身体に向いていたように思える。
首筋の怪我はもちろん、最低でも擦り傷程度は負っていたはずが、包帯も巻かれていない事から、回復魔法が使われた事は明白。
おかげでダニエルを思い出し、胸の奥が締め付けられて切なくなる。ギュッと押さえても、鼓動が脈打つ度に掌から音が零れてしまう。
今にも心臓は張り裂けそうで、脆弱なこの身では真実に耐えられそうもない。考えるだけでさらに鼓動が早まった矢先――。
『――君を治療したのはダニエルだ』
告げられた言葉は予想を凌駕し、思わず顔を上げた。
「…へっ?」
オルドレッドの声と、アデットの声が被る。
慌てて口を塞ぐ彼女に戸惑ったが、涙で潤む瞳が続きを促したらしい。
『無事、とは言わないけどな。自分の怪我を治療していたダニエルと偶然出くわして、その時ジャイアントスパイダーに連れ去られた君を助けてくれって頼まれたんだ』
「ダニエルが…私を?」
『棲み処に着いて、君を助けたまでは良かったんだ。ただ奴らに囲まれて、脱出する際に魔晶石を使ったら、あちこち崩落してな。私らが君を担いでる間に、崩れる洞窟の中ではぐれてしまったんだ』
「……私ら?」
「わ、私とダニエルのことだ!2人で支えてたんだけど、その…」
『落盤ではぐれた』
しどろもどろに語るアデットをよそに、疲労と絶望が入り混じった瞳に光が宿った。
ダニエルがまだ生きているかもしれない。
パーティが全滅する憂き目に遭いながらも、絶望的な状況を乗り越え。加えてアデットをジャイアントスパイダーの棲み処まで案内して。
もっとも、普段なら俄かに信じられない話だったろう。彼が戦闘に向かない事は、オルドレッドが1番良く知っていた。
要領も悪く、どちらかと言えば運が悪い部類の人間と言える。
「…それでも、それでも彼は…ダニエルは生きていたのね?」
やっと吐き出せた言葉に、アデットが反応する。
他に誰もいないというのに周囲を見回し、目が合えば自信がなさそうに。コクリと静かに頷いた。
――ダニエルは生きている。
背後に振り返り、走り出そうとした足が止まるや、再びアデットに踵を返す。
「ジャイアントスパイダーの棲み処は、あっちで合ってるのよね?あなたの足跡を追えば着くわよね!?」
「……あ、あぁ。たぶん」
「ここから1番近い町はアウトランド。行き方は…私たちのパーティが全滅した所まで戻れるなら、木の根元を辿ってみて?ちょっとした印が刻んであるから、町まで簡単に行けるわ…」
一瞬顔が曇るも、すぐに気を取り直して再び走りだす。
棲み処が倒壊したなら、瓦礫を掘り返してでも探して見せる。
ジャイアントスパイダーがまだ徘徊していれば、根絶やしにする。
その想いだけがオルドレッドの足を動かし、茂みへと躊躇なく飛び込ませた。
しかしふいに。思い出したように股座に手を突っ込み、金貨の入った袋を背後へ放った。
狼狽する声に続き、アデットが咄嗟に受け取った音を長い耳が拾う。
「お礼よ!!」
それだけ叫べば、振り返る事なく森の奥へと突き進んだ。
ジャイアントスパイダーと戦い、生き残れたアデットなら1人で町にも向かえるはず。
そう自分に言い聞かせながら足を止める事無く、ギュッと胸を握り締めれば、身体に回復術の温もりを感じた。
ダニエルの残り香にくすりと笑い。それもすぐに険しい表情に変われば、アデットですら見えない程奥深くにオルドレッドは身を投じていた。