036.追想
――フッシャアアアアアアーーーーーーッッ
不気味な咆哮と足音に目もくれず、ダークエルフを抱えて踵を返す。一直線にひた走るや、骸骨と衣服の山に素早く彼女を押し込んだ。
粗末な隠れ蓑では完全に覆う事は出来ないが、そこらに放り捨てるよりはマシだろう。
直後にアデランテの胸が膨らみ、いびつな球体がせり出してくる。
歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべ。分離された肉体が猫を模るが、呼吸を整えている時間はない。
「ッッ…か、彼女を頼むッ!」
それだけ言い残し、自ら蜘蛛の群れに飛び込むが、奥では巨大な個体が観戦するように。自分が出る幕も無いとでも言うように。
アデランテが奮闘する間もその姿が否応なく映り、仮に全てを倒した所で、最後には強大な敵が待ち受けている。
どう足掻いても絶望しか見えず、それでも雄叫びを上げて突貫するしかなかった。
剣先で刺し。
足を叩き折り。
頭部を砕く。
間合いに入れば反射的に斬りつけ、牙から繰り出される猛攻も巧みに躱す。放たれた糸はアデランテに効かず、数は確実に減らしていたろう。
だが多勢に無勢では、優位に保てる時間もそう長くは持たなかった。
休みなく動かしてきた肉体は、とっくに悲鳴を上げている。捌き切れない攻撃は掠り始め、抉られた身体が嗚咽を洩らす。
思わぬ一撃によろめく事もあったが、タダで転ぶ事は無い。態勢も立て直さずに飛び掛かり、獣が如き動きで魔物の度肝を抜いた。
第1陣。
第2陣。
斬り抜けた波状攻撃の合間に得た、僅かな休息時間に剣を地面に突き立てれば、気怠そうに身体を預けた。
如何なる傷を負っても、肉体は再生を繰り返す。受けた毒も汗として、痛みを伴いながら地面に滴り落ちる。
傍目には無傷なアデランテを見て、戦闘が遭った事など。周りに積み上げた魔物の屍が無ければ、とても信じられなかったろう。
身体に残る疲労もまた、如実に彼女の戦果を物語っていた。
しかし1分と休みを与えられず、耳元に届いた足音に腕が咄嗟に反応する。
振り返ると同時に敵を仕留めるが、影に隠れていた刺客の牙が腹部を穿ち、押し出されまいと踏み止まれば、即座に頭を刺し貫いた。
「…正攻法じゃあ勝てないか」
横なぎの一撃を脇腹に食らいつつ、戦況が頭の中に浮かぶ。周囲は完全に壁で囲まれ、逃げ込む場所も隠れる隙も無い。
唯一の出入り口も1つだけで、アデランテが1人で逃げる事は容易いが、冒険者を見捨てる選択肢などあって無いようなもの。
かと言って彼女を背負っての脱出は、現状不可能だった。
体力ともども追い詰められていたものの、決して悲観的になる事がなかったのは。ひとえにアデランテの気性ゆえ。
そして何よりも“孤軍奮闘”ではなかったからだろう。
「…どうだウーフニール。なにか脱出できそうな案は思いつかないか?」
【検討中。女の存在が厄介だ】
「ソイツを無事に連れ出すのは絶対条件だぞ。それでこんな目に遭ってるんだからな」
【自らを窮地に追い込む真似は控えろと何度言わせる】
「はんっ。お前の身体を借りてる間は、いくらでもだッッ!!」
巻き込まれようと、心底呆れられようと。
苦労を共にするウーフニールは、いつでも傍にいてくれる。彼の存在を原動力に再び立ち向かうが、事態は一向に好転を見せない。
死骸の山は悪戯に積み重なり、むしろ状況は悪化。背景と化していた女王が突如乱入し、振り下ろした太い足を辛うじて躱す。
すり抜け際に刺突を浴びせるが、足を覆う剛毛と外皮に容易く弾かれてしまう。
「くッ…切っ先も刺さらないか。文字通り刃が立たな、い゛ッ!?」
女王に集中するあまり、横腹に突進した雑兵の一撃に息が止まる。そのまま宙へ投げ出され、地面を跳ねながら激しく転がった先で魔物の死骸にぶつかった。
途端に襲った倦怠感に弱音が浮かんだものの、強引に振り払えば腕を突き立て、起き上がりながら思考を掻き乱す。
女王が動き出したのは、敵戦力に余裕がなくなってきた証拠なのか。
単純に痺れを切らしてアデランテを仕留めに来たのか。
根拠となる情報はないが、今出来る事は時間稼ぎだけ。冒険者と共に脱出できる案を早急に考えなければならない。
【…げん……人間!】
ぼやけ出した視界に、突如響いた声が意識を引き戻し、強引に転がって飛びのけば、雑兵の襲撃を回避する。
「た、助かった…危うく圧し潰されるところ…」
【使える記憶を発見した】
礼を言いかけるや、遮った彼の言葉に一瞬疑問符が立ち込める。しかし視界は白霧に包まれ、世界から切り離されたような浮遊感がアデランテを襲った。
次に視界が開けた時、アデランテは森の中にいた。周囲に魔物の姿はなく、景色の変化に戸惑う間も身体は勝手に動く。
岩だらけの道を息も絶え絶えに登り、背負っていた荷物のバランスが悪かったのか。慌てて下ろすと中身を素早く整理し始めた。
衣類。
保存食。
什器。
それぞれが適当に詰め込まれ、出発時に急いで荷造りした様子が窺えるが、いまだに焦っているのだろう。
漁るように中身の配置を換えるだけで、すぐに荷物を背負い直した。それから体重を前に乗せて踏ん張るが、足に力が入らない。
そのまま背後へ転びそうになったものの、ふいに柔らかい物が側頭部に当たる。
不自然な角度で身体は固まり、呆然としていたのも束の間。ソッと後ろから両肩に触れられ、我に返ると慌てて飛びのいた。
[ご、ごめんなさい!ごめんなさい!]
[…気をつけなさいよダニエル。まだ仕事の最中なんだから]
必死の謝罪に反し、差して怒る気配のない後続者に恐る恐る顔を上げる。
最初に映るのは薄着から零れそうな胸に褐色の肌。さらに見上げれば緑がかった白髪のショートヘアが風に漂い、尖った耳は上下に跳ねている。
長いまつげを瞬かせ、呆れた表情を見せる“オルドレッド”と目が合うも、ぷいっと胸を弾ませながら視線を外した彼女は、何もなかったように辺りを見回す。
しばし警戒したのち、やがてハッキリした声で言葉を紡いだ。
[そろそろ休みましょ。最後に休憩してから随分経つわ]
[賛成~]
[…ま、俺も文句ないわな]
次々挙がる賛同の声に、ダニエルが口を挟む余地はない。パーティ全員の同意を得るや、オルドレッドは素早く森の中へ駆けていく。
残るメンバーも腰を下ろし、暖かな日差しの下で各々が軽食を頬張る姿は、ピクニックを彷彿させたろう。
しかし魔物や猛獣が蔓延る森では油断も禁物。警戒は怠れないものの、貴重な休憩時間を誰もが素直に謳歌していた。
ただ1人。
荷物の中身を整理し直していたダニエルを除いて。
[……はぁ]
長旅の末にようやく出たのは、誰にも聞こえない溜息だけ。軽くつまめる物を探しつつ、合間にチラッと仲間たちの様子を窺う。
冒険者の仕事は一般市民の護衛。そして魔物の生態調査や討伐が主である。
風が吹けば桶屋が儲かるように、市民の不安が冒険者家業を充実させるために、我が身を危険に晒す機会が必然的に増えていく。
だからこそ続くか否かは実力次第で。個々の能力を生かしたパーティが組めれば、受ける仕事の幅も富む。
それこそパーティを組む最大の利点ではあるが、同時に弱点でもあった。
ダニエルもまた5人パーティを組んではいるものの、やはり自分が足手まといな気がしてならない。一向に追いつかない体力に、つい溜息を漏らしてしまった。
[……ごめんなさい]
誰に聞かせるでもない呟きに、ふと反応した仲間がサンドイッチを片手に隣へ座る。強引に肩を組み、ダニエルもまた岩場に腰を下ろされた。
[気にしなさんなって。回復士がいるからワタシらも安心して戦えんだから]
[そうそう。それにだいぶ足元フラついてたし、休んだ方がいいって。休める時に休んでおかないと、次にいつ休憩を取れるか分からないっしょ]
[そんなこと言って、実はアルバートも大分やばいでしょ]
[あ、バレてた?]
落ち込むダニエルに近付いた、先頭陣の女戦士マニュエラ。続けて会話に合流した、最後尾を歩く魔術師アルバート。
そして3人を無言で見守り、武器の手入れを始める先頭陣の男戦士ディジー。
唐突に始まった会話は他愛のない物だったが、それでも笑みを絶やさない2人に、ダニエルも少しずつ元気を取り戻していく。
本格的にピクニックの様相を見せる中、ふとマニュエラが周囲に聞き耳を立てた。
途端に真剣な眼差しを浮かべ、グっとダニエルに顔を近づければ、そんな彼女に倣ってアルバートもまた顔を寄せた。
[でさ。2人の関係はどこまで進んだわけ?手は繋いだ?一緒にご飯食べに行った?]
[…どういう質問ですか?]
[あ、ダメっすわこれ。進展ナッシングですわ]
[進展?]
[オルドレッドとあんたの関係!買い出しの時とかいっつも一緒じゃん!っていうか指名されんの、ダニエルだけじゃん!ワタシなんて誘っても「…それ位1人で行って来なさいよ」って冷たくあしらわれるしっ]
[そうそう。それに後ろ歩いてるから分かるけど、結構ダニエルのこと見てんだよね~。気付かれないように一瞬だけ、みたいな感じを本人は意識してるつもりでも、バレバレよ]
[えっ、ワタシもそれ見てみたい。次の移動の時に隊列変わってよ]
[魔術師に先頭歩かせるとか正気かよっ]
笑い声がドッと上がり、安堵したように溜息を吐いたディジーが顔を上げた。
わざとらしく甲冑を鳴らせば、一同の注目を引いた直後にオルドレッドが現れ、ダニエルを一瞥した彼女はすぐにアルバートに視線を移した。
[この先にあった大岩に魔晶石を仕込んでおいたわ。あとはアルバートが燃やしてくれれば簡単に壊せるから]
[オーライ、お疲れさん。休憩してかないの?]
[別に。まだ動けるし、大丈夫よ…ダニエっ、皆はどう?もう行ける?]
一瞬ダニエルに向けた視線を無理やり逸らし、全員を見渡そうとする彼女に、マニュエラとアルバートはニヤニヤ薄ら笑いを浮かべる。
その様子が気に食わなかったのか、ムッと。少し不機嫌そうにオルドレッドは2人を見つめた。
[…何よ]
[いや~、オルドレッド姐さんの優しさが身に染みるだけっすよ]
[そうそう。魔法なんて全然使わないのに、魔晶石なんて持ち歩いちゃって。どこぞの魔術師用なのかな~って思わず勘繰っちゃうのよね~]
[おっ?それってもしかして…]
[ワタシの見立てでは絶対にアルバートじゃないよね~。ってか自分用に魔力補充用のアイテム持ってるんじゃないの?]
[いえいえ。そういうのって結構高価なんですわ~。割と活躍してる我らがパーティと言えど、財布がキツくって無理なんですわ~。なのにそれを惜しみなく買ってくるとか…]
[優しいよね~!]
声を合わせた2人は満面の笑みを浮かべていたが、オルドリッドは不快そうに睨むだけ。犬であれば噛み付きそうな気迫を漂わせていたものの、臆する事なく彼女の答えを待って居座り続けた。
そんな空気を察してか、ディジーも出発の合図を出す事はない。無関心を装い、再び己の剣を眺め始めた。
一向に進む気配のないパーティに、やがてオルドレッドが深い溜息を漏らす。
[…これは道を塞ぐ岩を爆破したり、魔物相手にも使えるから持ち歩いてるだけで、別にダニエルのためってわけじゃ…]
[はいっ、名前頂きました~、ごちそうさまで~す]
[何なのよさっきからっ。大体ダニエルの両親には昔お世話になったから、彼の安否を見届ける義務が私にはあるのよ!]
[カレ?今のニュアンスはどっちに取れますかなマニュエラ氏]
[その1、彼氏彼女の彼?その2、特定の男を指すための彼?…個人的には~…その1を推したい!]
[はい!その意見にもう1票!]
[バ、バカなこと言ってないでサッサと出発するわよ!ほら、ディジー急いで、早く!]
振り返ってテキパキ指示を出すオルドレッドに、ディジーは真顔で頷く。ようやく出発しても褐色の肌から赤みは引かず、クスクス笑うマニュエラたちの声も止まない。
しかしオルドレッドに注目が集まるばかりに、ダニエルの頬が紅潮している事に気付く者はいなかった。