035.出遭い
洞窟をつむじ風が吹き抜けた時。ジャイアントスパイダーの8つ目に、緑黄の体液に染まった人間が映り込んだ。
真正面から強襲する侵入者にド肝を抜かれ、反射的に牙を向けても寸での所で躱される。
脇に抜けた相手は醜く膨らんだ胴体を一閃し、傷口からは毒煙が立ち昇ると、瞬く間に身体の自由を奪われた魔物は例外なく泡を吹いた。
通路にはそんな死骸で溢れ返り、点々とアデランテの足跡を記していた。
「……いまさらな質問なんだけどさ。私の剣に何をしたんだ?切れ味が明らかに増してる気がするんだが」
【剣先に毒牙を仕込んだ。奴らは毒を生成すれど耐性がない】
「道理で泡吹いてバタバタ倒れてくと思ったら…自分の毒で仕留められる、ってのも皮肉な話だな」
【使用した毒は初期に喰らった2体分のみ。“自身の毒”ではない】
「細かいことはいいだろ?…それにな。だからといって私は手加減するつもりなんざ毛頭ないからなッ!」
会話の最中だろうと怯まず、飛びかかる敵の真下に滑り込む。素早い斬撃を胴体に与え、一撃与えた手応えさえあれば十分だった。
獣の肉を噛み千切る切れ味に、猛毒を併せ持つ牙の威力。深く踏み込まずとも、浅く切りつけるだけで全てが致命傷となる。
おかげで速度を落とさず、着々と奥に進めるとはいえ、ウーフニールの功績だけを称えるのは不公平だろう。
魔物自身の生態。
機動力。
攻撃方法。
隙。
糸を吐く個体と吐かない個体。
冒険者ダニエルの最期や、彼自身の知識が追い風となり、番兵の記憶にも“通行禁止区域”の奥に、仲間が引きずられていく姿が映っていた。
傷だらけになりながらも微かに息はしており、救助へ赴くには十分な理由だった。
しかし洞窟はジャイアントスパイダーの根城であり、縦横無尽に駆ける彼らに、天井と壁の区別などない。
奥へ踏み込むほど通路も広がり、部屋の大きさに合わせて魔物も育っていく。
【…人間】
「分かってるッ。皆まで言わずとも分かってる!分かってるけど…流石に無謀だったかもな」
それまで動かし続けていた足が、アデランテの意思に反して勝手に止まってしまった。外界には出ない“護衛”然とした巨体を前に、つい笑みを引き攣らせてしまう。
「……デカいな」
【責任の所在を問う】
「全部私のせいなのは認める…でもアレらはどうだ。摂り込めそうか?」
【周囲を固める雑兵が不在であり、喰らう個体の抵抗がなければ不可能ではない】
「わざわざ遠回しに“無理”だなんて言わなくてもいいだろ…一旦態勢を立て直すぞ」
【洞窟外までの順路を模索する】
「誰が逃げるって言ったんだ!ちょっとした戦略的撤退だよッ!!」
負け犬の遠吠えを木霊させ、潔く敵に背中を向ければ全力で駆け出した。追ってくる耳障りな足音が無数に響いたが、元来た道は使わない。
未踏のルートを見つけては曲がり、勢いよく穴を飛び越えた先で、ふいに浮遊感がアデランテを襲った。
いままでの構造と異なる、底の見えない吹き抜けの縦穴が眼下に広がり、所々に残るハシゴや桟橋から察するに、やはり鉱山の跡地だったのだろう。
しかし一瞬よぎった現実逃避は。
空洞の中心まで跳んでしまった身体は。
容赦なく眼下へ吸い込まれ、亡霊に足を掴まれたかのように墜ちていく。
「……ぬぉぉおおおおおあああーーーーーーッッ!?!」
落下先の蜘蛛の巣を次々すり抜け、手足は四方に広げられて為す術もない。衝突も時間の問題となり、咄嗟にウーフニールへ助けを求めた刹那。
突如背中を優しく抱き留められ、身体が小刻みに浮いては沈む。ようやくピタリと止まれば、目を瞬かせながら天井を呆然と仰ぎ見た。
「…た、助かった……この感触は、蜘蛛の巣か?私らに糸は効かないはずじゃなかったのか?助かったのは山々だけど、まさか引っかかる糸と引っかからない糸があったとか言うんじゃないだろうな」
【耐性を一時的に解除した】
「……相変わらず便利な身体だよ、まったく。でも最初から鳥に変身してれば、そもそも落ちる事も無かったんじゃないか?」
【変異すれば丸呑みにされる体長であり、貴様の喘ぎ声も敵の注意を惹く】
「それもそうだなッ…って私は喘いだりしてないッ!!」
一時の休息も束の間。大の字で寝転がったまま叫べば、上空から追手がわらわら這い出して来る。
即座に糸をすり抜ければ、再び耐性を“解除”。2つ下の巣が足場になり、続けざまに真下へ適度の早さで落ちていく。
壁際を沿う螺旋階段より上等な移動手段に、やがて最下層へ足が着くや頭上を見る。まだ距離があるとはいえ、ジャイアントスパイダーの群れは巨大な個体含め、着実に向かってきていた。
「多勢に無勢か。こっちは剣1つとウーフニールしかいないんだぞッ」
【貴様の装備品では断じてない】
「どっちも私の大切な相棒なんだから別にいいだろ?」
苦い顔をしながらその場を離れ、横穴の1つに素早く駆け込んだ。敵から距離を置かなければならないが、足元に転がる無数の骸骨が移動速度を落とす。
それらの最期は想像に難くなく、グッと顔を逸らせばさらに奥を目指した。
冒険者はまだ食われたと決まったわけではない。
もっと深みに。
さらなる深淵へ。
地獄の淵を走り続け、背後の足音を聞きながら前方の襲撃にも対処していく。
その間も足元に散らばる骸は踏み砕かれ、蹴り上げられ。洞窟内はどこもかしこも、死と耳障りな音で溢れ返っていた。
生者の姿は見つからないどころか、存在そのものが夢物語に思えてならない。
【…脱出の手筈を整える】
「まだだ…まだ、彼女を見つけてない…ッ」
襲撃の切れ目に休息を得るも、膝を押さえながら顎を拭う姿に説得力は無い。禁止区域に入ってからは冒険者の形跡も拾えず、肺も苦痛で悲鳴を上げている。
崩れ落ちそうな身体を壁に預けるが、薄暗い天井を仰いだ所でふいに笑みが綻んだ。怪物にしか成し得ない目標の最中にいるのに、人間の脆弱さが足を引っ張っている。
だがアデランテこそが。人間としての弱さこそが、洞窟に身を投じた要因でもあった。
「……難儀な性分だな」
再び自嘲すれば重い身体を抱き起こし、歩きながら疲労を癒していく。
【十分捜索はした。発見に至らねばそれまで。死人に義理立てして死ぬことは許さん】
「…ははっ。最初から死ぬつもりなんて全くないさ。お前と私で必ず生き延びてみせる。それは約束したろ?…だけどな。もう1人。あと1人だけココから連れ出す事が出来るなら…“全員で生還”した方が気持ちいいだろ?」
【貴様の見解は理解に苦しむ】
「苦労ばかりかけるな…それでもこれは、私が冒険者の青年と交わした一方的な約束でもあるんだ。すまないけどもう少し付き合ってくれ。あと、少しだけでいいんだ」
【………部屋数はあと5つ】
「…へっ?」
【未観測の地形に推定5つ分の空洞がある。目標がいなければ諦めろ】
「…感謝する」
壁に手を押し付け、肺の空気を一気に吐き出せば再び捜索を開始する。
壁は黒。進む道は全て灰色に塗り潰され、通過する度に頭の中の地図は埋まっていくが、1つ目は外れ。
2つ目も3つ目でも見当たらない。敵と骸骨を蹴散らしながら進み、徐々に最悪の事態が脳裏に浮かぶ。
それでもウーフニールの情報に縋り、無理やり手足を動かした。疲労も振り払い、やがて新たな居住空間に辿り着くや否や――。
「――ッ嘘だろ…?」
足元の骸を踏み砕くと同時に、思わず声が零れてしまった。
見慣れた広大な空間には骸が散乱し、蜘蛛の巣もカーテンの如く張り巡らされている。絡みついた干からびた死体や、食い荒らされた古い屍も羽虫のように宙で浮いていた。
だからこそ色鮮やかで、肉付きの良い犠牲者を一目で見抜く事が出来た。
部屋の中央に両足と腕を上下で固定され、微動だにしない耳の尖った褐色肌の女。記憶にあるダークエルフの冒険者に駆け寄れば、彼女を捕らえた糸を登った。
呼吸を確かめようと試みたが、上がる際に思わず起伏を。薄着から零れ落ちそうな、彼女の豊満な胸を力強く握り締めてしまった。
――んぅ…
指が柔肉に埋もれるや、直後に彼女の口から艶のある声が洩れ出す。
「………生きてた」
途端に緊張の糸が切れ、危うく後ろへ転がり落ちそうになる。慌てて彼女にしがみつき、ホッと一息吐けば改めて容態を確かめた。
忙しなくダークエルフの顔を動かしては、身体も躊躇無くまさぐり、裂傷や打撲痕は複数見受けるが、出血や骨折はない。
牙を打ち込まれた傷痕もなく、後頭部に受けた一撃で昏倒したのは記憶で見た通りだった。
幸い顔にも傷は無く、緑がかった白髪のショートヘアに長いまつげを見つめ、柔らかな頬を何度かつついてみる。
やはりと言うべきか反応はなく、長い耳を弾いてもピクンと震えるだけ。幸運にも生餌として保管されていたのだろう。
「う~ん、殴って起こすわけにもいかないしなぁ……胸を揉みしだいたら目を覚ますと思うか?」
【目標は発見した。早急に回収したのちに撤退しろ。まだ敵地の只中にいる事を忘れるな】
成功の喜びは分かち合えずとも、周囲の警戒はしてくれていたのだろう。感謝を述べたいのは山々だったが、彼の言う通り敵陣を脱したわけではない。
すぐさま拘束を解こうとするも、幾重にも連なった糸は容易く剣を弾き返す。
考えあぐねた末に、右腕の糸への耐性を一時的に解除し、グルグル腕に巻き付けながら回せば、糸は徐々に細くなっていく。
最後は軽く引っ張るだけで、巣は意図も容易くダークエルフを手放し、支えを失った彼女はそのまま倒れ込む。
咄嗟に地面の間に滑り込んで抱き留めたものの、代わりに衝撃を全て背中で受けてしまう。潰れた声が柔らかな肉感の下から零れ、鈍痛と息苦しさが一瞬意識を遠ざけた。
【弾力に富む女を下敷きにすべきだった】
「…ぐっ……怪我人に、そんな真似できるわけないだろ。それにようやく見つけただけで、まだ折り返し地点なんだ。速攻でここから出るぞッ…」
背中に手を回せば冒険者を抱えながら起き上がり、そのまま背負って去ろうとした直後。ふいに覚えた違和感が、咄嗟に頭上へ視線を走らせた。
天井には知らない間に巨大なジャイアントスパイダーがぶら下がり、辛抱強く下方の獲物2匹を睨む間も、膨らんだ腹部には子蜘蛛がひしめき、今か今かと出撃のタイミングを窺っていた。
「…お前がココの女王か?私を追い込んだ奴より随分デカいな」
【追跡していた個体はオス】
「つまり王様だったって事かな。どうやら王族との謁見は無事済んだみたいだけど、生憎この供物はお前たちにやれないんだ。早々に諦めて道を開けてくれ」
愛想笑いを浮かべても言葉や仕草が通じるはずもない。感情と呼べるものは1つも無い瞳が一斉に注がれ、壮絶な光景に鳥肌が立つ。
挙句に少しずつにじり寄ってくる足運びからも、逃がすつもりは毛頭ないらしい。
やがてアデランテが後退し、瞬時に背後へ飛びのくと同時。反応したジャイアントスパイダーたちが、津波のように押し寄せてきた。