034.張り巡る罠
「――…ウーフニール。とりあえず謝っておく。すまなかった」
【却下だ。この状況、どうしてくれる】
穴倉に飛び込んで程なく、突然身体の自由が利かなくなった。獣の如く暴れると全身が拘束され、身動きを封じられるまで数秒と掛からない。
いくら身をよじっても抵抗虚しく、宙に大の字で張り付けられてしまった。
入り口から差し込む微かな光は糸を反射し、改めて絶望的な状況を理解する。
「くっ、このっ…ウーフニール!魔物に変身して引き千切ることは出来ないか?」
【記憶消滅】
「…どういう意味だ?」
【喰らってから時が経ちすぎた。記憶からすでに抹消されている】
「つまり…奥の手はもう使えないってことか?失敗したな……ほかに選択肢は?」
【魔術師2人。梟1羽。猫1匹】
「そんなんでどうやってココから脱出しろって……そうだ!ウーフニール、魔術師に変身したらどうだ?アイツら手から火を出してたろ。それで糸を焼いてみてくれ」
【その必要はない】
「必要だからやってくれって言ってるんだ!呑気に捕まってる場合じゃないんだぞ!」
【貴様の手はまだ自由が利く。詠唱しろ】
普段と変わらない声音に気圧され、渋々視線を掌に向けた。何度か指先を開閉し、確かに全てを封じられたわけではないらしい。
ふいに文字が視界に浮かぶ。
「うぉっ……なんだ?…【“空を黒く染めよ。全てをその身で祓え。我が名をもって命じる。爆ぜる薪の主よ”】…うわっ!!?」
途端、掌からボッと火が噴き出した。一帯をぼんやり照らし、初めて発動した魔術に感動すら覚えそうになる。
だがそれもほんの一時だけで、火力は拳大にも満たない。
チリチリと糸を静かに焦がしていき、爽快感はまるで無かった。
「…確か火柱が勢いよく出てたはずなんだけど、私の思い違いか?何だこのボヤは」
【以前観測した魔術は樹液で底上げされた紛い物。現在、最大出力】
「……それでも私が使えてる、ってことで間違いないんだよな?変身しなくとも……ん?ちょっと待てよ。いつから出来るようになってたんだ?」
【前回の成功報酬以降と思われる。喰らった対象の力を貴様の姿で解放可能となった】
「お、おぉぉ…じゃあアレか?わざわざ鳥に変身しなくても、背中から翼を生やして空を飛んだり…」
【保有する翼の規模では貴様の質量を浮かす事は不可能だ】
「…羽根のサイズは鳥のままってことか?想像してたより夢のない力だな…あっ、それでも糸が燃え始めたぞ。どれくらいで焼き切れそうなんだ?」
【火力と糸の粘度。貴様が巻き込んだ規模を鑑み……完全解放まで30分強】
「うぇっ、そんなにか…」
試される忍耐力に辟易すれど、脱出の手立ては出来た。鼻にツンとくる刺激臭にも顔をしかめるが、新たな能力の発現に目を輝かせた。
一層活躍する“変幻自在”の彼に妄想を膨らませたものの、ふいに聞こえた物音に振り返ろうとした刹那。
首筋から肩に掛け、鋭い痛みが走ると同時に身体が大きく仰け反った。熱気を帯びた液体まで流し込まれ、指先の自由さえ徐々に奪っていく。
しかし口はまだ動かせた。
「ぐあっ…ぁあっくっ!!…ぐっ、う…ウーフニールっ!」
【了承した】
変わらない淡白な返事と共に、口から黒いモヤが零れだす。襲撃者も驚愕し、咄嗟に引き下がろうにも牙が抜けない。
獲物の筋肉が締め付けて離さず、モヤは敵の顔を包み込んだ。
それから引き千切るように。頭部を失った魔物から生臭い液体が噴き出され、頬や身体にドロッと流れ落ちる。
モヤも口内に戻っていくや、途端にアデランテはスルリと糸から抜け出した。
そのまま力なく地面に倒れるも、全身を駆け巡る不快な熱気に。眩暈や頭痛に吐き気すら覚え、身体の芯が溶ける感覚に思考が定まらない。
それでも身体をグッと起こし、襲撃者を一瞥すれば、首を失った胴体は仰向けに転がっていた。
8本の足は宙を掻き乱し続け、やがてピクリと痙攣したのを最期に静寂が訪れる。
一難去ったが、まだ一難。
身体中を巡る毒に息もままならず、視界は蜃気楼が如く波打つが、ウーフニールの声だけは不思議と耳に届いた。
【出すぞ】
「…だ、出す?……ま、待ってくれ!まだ心と身体の準備が出来て…うっ、あぅッ……はァンンっ!」
必死の叫びも虚しく、問答無用とばかりに腹部から球体がせり出す。プツンっと千切れる感覚に身体は痙攣し、ぶよぶよの肉塊は紫煙となって消えていく。
残されたのは激しい息遣いに、地面を這いつくばる1人の女だけだった。
「ハァハァハァ…はぁ。もぅ、もう勘弁してくれ…」
【撤退の忠告は再三した。排出時に警告もした。文句を言われる筋合いはない】
「別に文句は言ってないだろ……それにココへ来たことは私も後悔してなっ…あんっ、また…んんっ…んぐっ!!」
顔の粘液を拭い、苦し紛れに笑みを浮かべた直後。再び押し寄せた波に、声を強引に押し殺した。
歯を食い縛っても時折喘ぎ声が漏れ、ふいにアデランテの身体が黒く。醜く膨れるや、最後に8つの目と足が丸い胴体より生えてきた。
ひっくり返った身体を起こし、左右を見回す視線には感情が込もっていない。口を利く事もなく、回れ右をすれば足を器用に運んで洞窟の奥に進み出した。
暗闇に関わらず洞窟内はハッキリ見え、視界の片隅には簡素な地図が浮かぶ。
単純な地形から隠密行動は厳しく、魔物に遭遇すれば戦闘は避けられない。変身は潜入のためであり、必要悪である事は十分理解していた。
しかし感情を簡単に抑え込めれば、誰も苦労はしないだろう。
〈――だからって急に変身するなよ!身体の中が疼いてキツいんだって、毎回言ってるだろ!まったく……ところで質問があるんだけど、聞いてもいいか?〉
【断れば貴様は黙るのか】
〈ははっ、よく分かってるじゃないか。それで質問なんだけど、私らを捕まえてた糸が勝手に離れた感じがしたのは、火で焼き切ったわけじゃないんだろ?それに摂り込んだのは頭だけのはずだ。なんで魔物そのものに変身できるんだ?〉
【貴様は外と内。どちら側にいても騒がしい】
〈で、どうなんだ?〉
【…記憶は脳に司る。本来は頭部のみで十分だが、成り代わりに死体は不要。返り血の処理も含め、丸呑みが効率的。糸は魔物を喰らう事で耐性が出来た…満足か】
有無を言わせない語気に頷くが、会話する間も順調に道を進んでいく。ジャイアントスパイダーとすれ違っても、警戒される素振りも見せない。
もはや遊覧状態で8つ目を通し、存分に洞窟内部を見学する事が出来た。
大人が5人並んで歩ける空間に、当初は魔物が掘削したのかと関心を示していたが、落盤跡から覗く丸太に石造りの瓦礫。
縄で縛った道具の数々が、人工的に掘られた場所である事を物語っていた。
かつては山賊の根城だったのか。
はたまた鉱山の跡地なのか。
どちらにしても人が投棄した土地に魔物が繁殖し、一帯に悪夢をばらまいていく悪循環に溜息を零すも、地図が赤く塗り潰された部分に差し掛かると思考も止まった。
〈おいおい。ココから先の道が表示されてないじゃないか。地図が壊れてるんじゃないか?〉
【通行規制】
〈つうこう…なんだって?〉
聞き間違えかと問い直すも、当然の如く返事はない。さらに進めば赤く塗り潰した区画を通過するが、特段何も起こらなかった。
踏み込んだ端から地図は更新され、新たな道が表示されていく。
同居人の説明不足に首を傾げるも、赤い網上の区画に罠があるわけでもない。
ふいに開けた通路に出るや、ヘコんだ鍋や擦り切れた寝袋。小さな木製の棚など、遥か昔に人がいた形跡を発見する。
所有者が捨てたのか、それとも襲われたのか。
どちらの答えであっても、アデランテの関心はすでに前方へ向いていた。
奥には洞穴が1つ。その手前には魔物が2体、長い前足を掲げながら牙と不気味な鳴き声を上げて威嚇してくる。
〈どういうわけだ。まさか変装がバレたのか?〉
【変装ではない。成り代わりだ…この先の領域は喰らった個体の進行が許されていない】
〈…なんでだ?〉
【群れの中で末端に位置するがゆえ。これより先は女王の護衛付き。もしくは群れの中枢のみ侵入可能】
〈ちょっと待て、コイツらに女王がいるのか!?ただでさえ馬鹿デカいって言うのに…〉
【接近を確認。どう動く】
なかなか退かない同胞に苛立ったのか。荒げた鳴き声は後退を促し、言葉が通じずとも意思は明確に伝わってくる。
だが亡き依頼者の仲間を捕らえている限り、アデランテに撤退の2文字はなかった。
〈…交渉の余地は?〉
【皆無。己が役割に徹する事が求められ、喰らった個体の役目は洞窟入り口の見張りのみ】
〈……それなら…代わってくれ!〉
下っ端の魔物が突如瞳の色を変え、足をもつれさせながら前進する。
警告に逆らった同胞の粛清に番人が乗り出すが、所詮は2対1。計4本の牙が襲い掛かり、今にも突き刺さろうとした刹那。
彼らが持つ最大の武器は空振り、視界から姿を消した同胞に激しく戸惑った。
「――後ろだ」
背後から聞こえた声に振り返るが時すでに遅く。1体は足を薙ぎ払われて行動不能に。
もう1体は脳天を突き刺され、緑色の粘液を迸らせて絶命した。
残されたジャイアントスパイダーは足を折られてなお牙を鳴らし、果敢にアデランテを狙うが、足を掴まれては反撃しようもない。
「……さて、捕らえた冒険者の居場所。ぜんぶ吐いてもらおうか」
いまだ抵抗をやめない様子に構わず、黒いモヤが魔物に迫っていく。途端に威嚇もピタリと止まるが、死に物狂いで抵抗しても逃げ出す事は不可能。
霧状のモヤが触れた先から絡め取り、やがてジャイアントスパイダーの姿は消える。
モヤが口内へ戻れば喉を圧迫されるが、咀嚼するように目を閉じれば、あらゆる情報が脳裏に流れ込み。次にアデランテが目を開いた時には、風の如く“立入禁止区域”へ飛び込んでいた。