030.旅立ちの翼
枯れた樹木の群生から少し離れた平野に、1軒の小屋がポツンと佇んでいた。
中には旧アナスターシャ邸の書物や丁度品が置かれていたが、火災を免れたのは2割程度。それでも数日で拵えた小屋を“我が家”と1人の弟子は呼び、もう1人は“学び舎”と呼んでいた。
そんな2人をアナスターシャは遠目で見守っていたが、当初は身体を起こすので精一杯で。壊れ物が如く接する弟子の表情にも、困惑と心配が幾度も浮き沈みしていた。
しかし献身的な介抱の賜物か。あるいは弟子との触れ合いが薬に転じたのだろう。
子供たちの補助がなくとも、長い枝を杖代わりに歩き回れるようになり、子猫が如くじゃれつく彼らに、困りながらも笑みを見せられるまでに回復した。
調子を取り戻しつつあった彼女は、ふと体調の経過と労いを披露する事を思いつき、急遽弟子たちを呼び集めたが、紅茶を注ぐ手は震えて危なっかしい。
まだカップを辛うじて持てる程度の腕力しかないのだろう。
それでも湯気の匂いは甘く、色合いも赤紫ではなく茶褐色。採って来た素材で淹れられた紅茶に、一同は鼻を近付けて香りを楽しんだ。
外に置かれた机を囲み、茶菓子も並べられ。一頻り視覚と嗅覚を満たせば、あとは味を楽しむだけ。
それぞれがカップを握り、頭上に掲げれば乾杯とばかりに呷っていく。
「……あんまり美味しくないな」
「うん、ゲロゲロまずい」
「ごめん先生。弁護できないです」
「…樹液ばかり飲んでいて味覚もおかしくなったのかもしれませんね。思えばちゃんとした物を作るのは大学を出て以来、久しぶりですから」
「まぁなんだ。これからゆっくり身体を直して、いずれ美味しい紅茶の1つや2つをまた淹れてくれ」
「簡単に言ってくれますね。樹液から解放される方法をずっと探して来たというのに…でも子供たちの治療も必要ですから、何としても必ず方法を見つけ出してみせます」
「それもいいけど大丈夫なのか?樹液以外は受け付けない身体なんだろ?」
「幸いほかの家に蓄えられていた物を集められました。完全には断てなくとも、極力薄めて少量を摂取していけば何とかなるでしょう」
「…そうか」
笑みを零したアデランテがグイっと最後の半分を飲み干すと口を拭った。
あまりの不味さに涙が込み上げてきたが、机にカップを置くと身体を伸ばし、それから満足そうに頷けば、軽く手を上げた。
「じゃ、私は失礼するよ。達者でな」
爽快な笑顔で告げられた別れは、風に漂う羽根の如く軽い。
あまりにも突拍子のない行動に驚く弟子たちを尻目に、慌てたアナスターシャが遅れて腰を浮かせた。
「お、お待ちください!まだ返しきれていない御恩が沢山…っ」
「そうだよ!お姉さんにも剣技を教えてもらうつもりなんだから、もっとゆっくりしてきなよ!先生が凄く強いって言ってたもん!」
「あれ、魔法使いになる夢はどうすんの?」
「魔法剣士とかチョーかっこいいじゃん」
「お2人は静かにしていなさい…そもそもあなたは何者なのですか?これまでもアルカナの秘密を探ろうとした者は何人もいましたが、いずれも織機が編み出した予知によって、ことごとく始末されてきました。それをあなたは…そもそもミケランジェリの不意打ちの時もどこから…本当にあなたは…一体」
声を掛けたのも束の間。得体の知れない存在に、よろめきながら伸ばした腕も僅かに引いてしまう。
サリットメシアとの戦闘も、全て見ていたわけではない。重い身体を引きずった先で、確かに彼の猛攻を耐え凌ぐ彼女の姿を捉えていた。
だからこそ水瓶を探し、罠から解放すべく樹液まで汲んだ。アデランテが腕を貫かれたのを見て、咄嗟に投げてしまった。
腕を始め、身体。
足。
顔。
凍てつく氷の刃を喰らって、3日程度で傷が完治するなど有り得るはずがない。
「あの、腕…」
ピタリと足を止め、振り返ったアデランテに思わずたじろぐ。考えが顔に出ている事に自身で気付けても、取り繕う余裕などない。
だが彼女は気分を害した様子も見せず、アナスターシャとその弟子たちを一瞥する。咄嗟に子供たちを庇うように腕を伸ばしたが、アデランテは満面の笑みを浮かべた。
口の前に指を1本立て――2人だけの秘密。
そう言わんばかりの表情に、燃え盛る研究所で檄を飛ばした人物と姿が重ならない。あまりの落差に呆然とした隙を突かれ、彼女は脱兎の如くその場を離れてしまった。
「…っ先生!?」
コニーの声でハッと我に返り、すぐに後を追ったアナスターシャに、リゼたちも互いに目配せして走りだす。
しかし病み上がりの身体では距離も縮まらず、コニーたちの足では深い森の中をついていくのが精一杯。
どんどん離されていくが、姿を消したアデランテの後をそれでも追う事をやめない。息を切らしながら捜し続けたものの、一際大きな茂みに近付いた途端。
「きゃっっ!?」
アナスターシャのローブがふわりと舞い上げられ、その声に慌てて弟子たちが駆けつけた。
何事かと声を掛けようとしたが、ポカンと空を見上げる彼女につられて視線を追えば、その先には悠然と青空へ羽ばたくフクロウが映る。
「――…あの人。あの時のフクロウだったんだ…」
やがて鳥の姿が見えなくなった頃、ふと零したコニーの言葉にキッとアナスターシャが睨む。
名も知らぬ剣士は見失ってしまったが、まだ仕事は沢山残っている。
いまだに首を伸ばす弟子たちを学び舎へ追いやるも、師もまた2人の目を盗んで一帯を見回していた。
そんな馬鹿な事があってはならない。
フクロウが人間に化けるなど。
まして人助けをするなど、それこそ夢物語。
「――…勇者の羽根」
“飛ぶための羽根は最初から持っていた”。
笑顔で語る彼女の言葉がふと思い出された。
髪にソッと手を添え、撫でられた時の温もりがまだ残っている気がしたが、馬鹿馬鹿しいと首を振れば、無理やり腕を降ろした反動で全身に痛みが走った。
木に寄りかかり、振り返ったコニーたちが心配そうに駆け寄るも。
「大丈夫ですから…先に行っていてください。今日もやる事は山積みで、休んでる暇もないんですよ?」
出来る限り強がって見せたが、顔色が良くなかったのだろう。2人が見合わせると素早くアナスターシャの脇に回り込み、支えられると幾分か歩行が楽になる。
普段なら心を鬼にして先に行くよう、冷徹な仮面を纏って命令していたはずが、一生懸命に付き添う弟子たちの逞しい姿を見て、ついはにかんでしまう。
「……最初から、ではなく…私の羽根はずっとこの子たちが預かってくれていたのですね…」
「どうかしたの先生?もう少しゆっくり行く…?リゼちょっと速い!!」
「コニーが速かったり、遅かったりで一定しないから、足並み揃えるの大変なんだよ~」
統制の取れない左右の羽根では決して速く進めないが、遠くまで行く事は出来る。
心地よい弟子たちのやり取りに耳を傾け、次に会える日までに美味しい紅茶を淹れられるようになろうと、また小さく笑う。
会える確証などない。
しかし未来が見えずとも、またばったり会ってしまいそうな。
そんな不思議な雰囲気を漂わせる女剣士だった。
森を越え、マルガレーテの町も樹木も見えなくなるほど遠い小高い丘。そこに降り立ったフクロウが人の形を成せば、1人の女剣士がその場に這いつくばった。
荒げた息を落ち着かせ、喉を鳴らすとようやく言葉を紡ぎ出す。
「……わざわざ変化してまで逃げる必要があったのか?」
【奴らの追跡を退け、かつ喰らうなと告げた貴様の要望に従ったまで。飛んで離れるのが最善だった】
「魔術師2人も摂り込んでおいて、いまさら食う必要はないはずだぞ」
【喰らえる時に喰らっておく】
「…お前って言う奴は」
呆れつつも、結局は我儘に付き合ってくれるウーフニールに強くは言えない。笑みを浮かべると足を投げ出し、景色を眺めながら座り込んだ。
地平線まで広がる森は静かで、人の気配を感じさせない空間が徐々に疲労を癒す。この場でお茶会を開いていれば、不味い紅茶も少しは美味しく感じたかもしれない。
クスクス笑って身体を倒すと腕に頭を付け、空を仰げば澄み渡った青が視界に映る。
下は緑。
上は青。
贅沢な彩りの只中で、産まれたままの姿を晒す解放感は言葉にもできない。より味わうべく大の字に伸ばせば、太陽も頑張りを称えるように陽気を降り注いでくれる。
チリチリと肌を焦がす感触が安堵と空腹を呼ぶが、鳴ったのは腹の音ではなかった。
【なぜ実体を分裂できると知っていた】
眠気を誘う陽気に抵抗し、ふと目を見開く。適切な答えを模索しようとするが、間を開けずにウーフニールが再び問うてきた。
【貴様が魔物を操作し、囮となっている間に分離した鳥を以て女を解放した】
「私がアレを動かす練習をしておいて良かったろ?思いつきでも何だってやってみるもんだ」
【な ぜ だ ?】
「…な、なんだよぉ。そんな声を荒げなくても聞こえてるって…別に知ってたわけじゃなくて、氷の塊に腹を貫かれた時、山賊との戦闘を思い出したんだ。ほら、私がナイフ喰らってゲロったろ?剣もフードも身体から外せないのに、だ」
【解毒のために肉体の一部ごと切り離したに過ぎん】
「アレは本当にキツかったな…でも分かれられたのは事実で、氷の塊が当たった時も私の血が飛び散ったからさ。もしかしてって思ったんだ」
身体を半分以上射抜かれ、激痛に視界が霞む事すら許されない刹那。周囲に飛び散った血飛沫がアデランテの注意を引いた。
殺し合った学徒たちの物ではなく、煙を上げて消えゆく鮮血の痕に残ったのは、氷解が穿った床の穴だけ。
思いつきに当初はウーフニールの賛同を得られず、むしろ彼を酷く驚かせたが、それでも呆れながら、いつものように。
アデランテの指示に彼は従い、そして急拵えの作戦は上手くいった。
「…私らで倒し切れなかったら、短髪にも加勢してもらうつもりだったけど、最後の最期で予想外の手助けがあって本当に助かったよ」
【本体は氷漬けにされる寸前であった。失敗していたらどうするつもりだ】
「う~ん、とりあえず全員を何とか研究所から逃がして、それからアイツをどう対処するか考えようと思ってた。外に出ればあんな逃げ場のない所で躱し続けるより色々動けるだろ?」
【狙いはアルカナの巻物。ほかは二の次】
「依頼はしっかりこなすさ。ただ私なりのやり方でな」
【奇襲の機会を捨て置いてもか?】
「…うっ」
鋭い眼光が背筋に走った気がして、一瞬寒気を覚えた。サリットメシアの言葉についカッとなって姿を現したのは、口よりも身体が動く性分だからとしか言えない。
かと言って強敵を相手に奇襲でしか勝てないようでは、死にかけてまで得た“力”も無駄になってしまう。
思いついた反論に急いで口を開くが、先にウーフニールの辟易した唸り声が紡がれた。
【貴様の判断基準は以前定まらぬままだ】
「…何の話だ?」
【あの人間は幼体から皮膚を剥ぎ取る行為に加担している。貴様なりの善悪の規範では喰われても文句は言えないはずだ】
「……言ってるだろ。私の我儘だって。あの子たちにも必要とされていて、本人も命を賭けて償おうとしてた。だから助けたいと思ったから助ける。騎士の…いや、私の身勝手な言い分だな」
【その度にこの身は危険に晒される】
「でもお前がいなかったら、私1人じゃ絶対成し得なかったんだ。むしろ怖気づいて尻込みしてたかもしれない…いつも割を食わせてすまないな」
【成功の是非はともかく、貴様ならば死ぬと理解してなお突貫していただろう。ウーフニールの肉体であろうとなかろうとも】
消えるように聞こえた言葉に慌てて飛び起きたものの、すでに彼は意識の奥へ引っ込んでいた。
名前を呼んでも応じず、しばし呆然と虚空を眺めているとやがて鼻で笑ってしまい、スクっと立ち上がって身体を伸ばせば、満足そうに一息吐いた。
判断基準は理解されずとも、アデランテが如何なる人物かは、諦め交じりに受け入れてくれたらしい。
それでもまた1歩彼に歩み寄れた気がして、油断するとついニヤけてしまう。頬を叩いて気を取り直し、発つ前にもう1度マルガレーテの方角へ顔を向けた。
しかし全方位が森に囲まれ、どちらを見ればいいか見当もつかない。
ウーフニールがいなければ人助けどころか、森で遭難していた事実に笑おうとした刹那。地平線まで雲1つないと言うのに、視界の先が突如怪しく淀み始めた。
赤い、陰鬱な濃霧となって。