027.氷嵐
氷柱。
氷の礫。
氷の槍。
中距離で遺憾なく発揮される魔術を絶え間なく撃ち込まれ、敵わないと知ればすぐさま本棚や巻物に身を潜めていたが、そろそろ目も慣れてきた。
隠れずとも紙一重で躱し、迫る氷柱を斬り落とすまでに接近出来ている。
それでも互いに距離を保っているのは、ひとえにサリットメシアが後退するためであり、魔力と体力どちらが先に尽きるか。
一進一退の攻防が続いていたが、先に集中力を欠いたのはアデランテだった。
「……ココが焼け落ちそうだってのに、随分悠長に私の相手してるな。頭に血が昇って、周りが見えてないのか?」
気持ちを切り替えるべく、一旦遮蔽物の裏へ撤退するが、見回せば一帯は業火に包まれ、天井からも炎が崩れ落ちている。
研究所が燃え尽きるのも時間の問題だと言うのに、いまだ敵を仕留められない自分に辟易し、ボスンと座り込めば溜息を吐きながら腕を組んだ。
直後に首を傾げると頭上を氷柱が貫いたが、アデランテが動じる事は無い。如何した物かと唸っていた矢先。
ふと顔を上げるとニンマリ笑みを浮かべ、不吉な予感がウーフニールを襲った。
「――で、どうだ。頼めるか?」
【貴様の思い付きに碌なものはない】
「ははっ、私がカミサマと手を組んだ時点で諦めろよな」
不満そうに声を這わせるウーフニールに肩で笑うが、すぐに歯を食い縛ると体内の蠢きを堪えた。
うずくまると表面の彩色も変化し、やがて遮蔽物が意味を為さない大きさに体積が膨らんだ時。
―グルァァァァァアアアアアッッッ!!
雄叫びに攻勢も止まり、サリットメシアの心中を凍て付かす。何処から現れたのか疑問を覚えるよりも早く、4つの赤い瞳が鋭く導師を射抜いた。
果たして最後に魔物と対峙したのはいつだったか。
交錯する思考と追いつかない現実に戸惑うも、棚を殴り飛ばして突進した魔物が、サリットメシアの生存本能を動かした。
下がりながら魔術を放てば、身体や腕。
そして足と。正確に狙わずとも次々氷の魔力がトロールに突き刺さるが、動きが一瞬鈍るだけで、貫く事も出来なければ怯む気配もない。
接近すれば剛腕が振り回され、凶暴な風の唸りが鼓膜を震わせれば、再び一進一退の攻防が始まった。
しかし長年研究にかまけてきた身体の衰えに、時間が経つごとに足運びが重くなる。突然現れたトロールに動揺も隠せず、また女は何処へ消えたのか。
疑問こそ尽きなかったものの、ふいに足に触れた巻物の残骸が、サリットメシアに火を点けた。
「…小生の…長年の成果を……血と汗と全ての歳月を費やした結晶を――…よくもっっ」
もはや相手は誰でも良い。例え実戦から遠ざかっていようとも、これまで“アルカナの巻物”に近付いた者は、誰1人として帰した事は無い。
ただ今回は人間から魔物に標的が変わり、厚い皮膚と強靭な筋肉が致命傷を避けているだけ。
加えて一撃を当てれば反動で僅かに反り返り、移動速度はまだサリットメシアが勝っていた。いまだ傷を1つも負わず、流れる脂汗を除けば体力の消耗も少ない。
自ら繰り出す魔術も相まって徐々に冷静になれば、やがて掌から特大の氷塊を射出し、満足に躱せないトロールの醜悪な顔を貫いた。
首から上は消え、審判がいれば高らかにサリットメシアの勝利を宣言した事だろう。
しかし緩慢に動いたトロールの剛腕が、浮かべた笑みを直後に崩した。
死後の痙攣ではなく、頭部が飾りでしかないとばかりに再び前進するや、首もなく動き回る姿は、もはや畏怖の対象でしかない。
相手が魔物ではないと直感で理解したが、では“ナニ”と戦っているのか。集中するあまりに本棚にぶつかってしまい、後退を阻まれてしまう。
同時に危機感が心の臓を凍てつかせ、伸ばされる腕を振り払うように氷雪を放った。
このままトロールを仕留め切るのが先か。
あるいは尻尾を巻いて逃げるなら儲けもの。
如何に剛毛や筋肉が阻もうと、凍気は確実に化物を蝕んでいる。
だがサリットメシアが纏う豪雪の障壁に、前身が凍り付いていこうとも、トロールの腕は愚直にも伸ばされ続けていた。
「ひっ、ひぇぁはははははははー!“氷の壁”は触れるもの全てを切り刻み、凍て付かせる!小生に近付くなど元より不可能だったのだよ!!このっ化物めが!」
尖った爪先はすでに青白く凍り、毛深い指から掌まで氷像と化していく。
どう足掻いても勝ち目はないはずが、トロールは肩を押し込みながら腕を。全身をサリットメシアに近付けようとする。
頭のない首からは泡沫の声を上げ、固まった巨躯はひび割れて軋み出す。
一体何が魔物をそこまで突き動かしているのか。
驚愕のあまり身をよじる事すら忘れ、ふいに。そしてついに。
気付けば凍り付いた凶手は、がっしりサリットメシアを掴んでいた。
凍った指は握り込む事が出来ず、それでも触れた先からサリットメシア自身の魔力が伝播し、徐々に表面が凍り付いていく。
「い、いかん!!」
樹液の服用で痛みは感じずとも、脳が警鐘を鳴らす程の冷気は伝わってくる。
幸いトロールは前面がほぼ凍り付き、もはや腕を振るう事すら叶わない。慌てて氷壁を解除し、横歩きに魔の手を避けると屈んで脇をすり抜けていく。
身体が半ば凍っては思うように進めず、巨体を回り込むのも容易ではない。
だがあと少しで魔物から離れられるという時。強烈な一撃が鼻先に突き刺さり、本棚ごと弾き飛ばされていった。
「……ふーっ、ふーっ…は、はは。やっぱり風は身体の周りを渦巻いてるだけだったか」
業火が滾る静寂の中。ふいにアデランテが声を漏らせば、凍ったトロールの背中から這い出した。
勢いよく分離すると腰から下に激痛が走り、べしゃりと地面に落下すると、魔物の氷像がボロボロ崩れていく。
我ながら無茶な事をした――と。
ウーフニールもよく付き合ってくれたものだと自嘲したが、ふと奥に視線を向ければ、崩れた本棚と焦げた巻物で敵の姿は見えない。
抜き身の剣を一瞥し、不貞腐れるように溜息を零せばゆっくり身体を抱き起こした。
剣に切れ味があれば、今の一撃で終わっていたろうに。生死の確認を含め、今1つ手応えを感じられないまま瓦礫の山を乗り越えていく。
しかし当てられただけでも上出来だと自分に言い聞かせれば、数分前の攻防を振り返った。
剣戟すら弾き、近付けば凍て付く“氷の壁”は、術者に密着して発動すれば、当人も無事に済まないと読んだ勘は当たったらしい。
そのために取った捨て身の戦法は、ウーフニールはおろか。自分ですら褒める事は出来ず、また同じ手段を使いたいとも思わない。
2度目は御免とばかりに燻った消し炭を踏みしめ、やがて瓦礫を蹴り退かして切っ先を向けたが、サリットメシアの姿は何処にもなかった。
「…かくれんぼ交代か。つくづく面倒くさい奴だな」
溜息を吐きながら注意深く辺りを見回すが、煙で遮られた空間で彼を捜す事は困難。骨が折れる作業にますます辟易するも、響いた声に一瞬身じろいだ。
「ひぇははははは!そんな玩具で小生は仕留められはしませんぞ!?」
聞き覚えのあるセリフに苛立ちを覚えたが、溜息を零せば怒りも徐々に収まった。
刃を反転させれば炎の明かりに煌めくとはいえ、切れ味は悲しい程に無い。単純に切りつけるなら、そこらのガラス片でも振り回した方がマシだろう。
思わぬ制約に首をもたげるが、渋々サリットメシアの位置を把握すべく炎の中を歩き出した。
「……斬れなかったとはいえ、顔面を砕かれたら普通は動けなくなるぞ」
「ふつう?小生を有象無象と一緒にされては困りますな!それに君も“ふつう”ではなかろう?最初に放った氷柱は確かに直撃したはず。しかし第2波を避けられ、挙句に傷を負った様子もなかった…咳き込んでいたのは煙でむせていたのかね?トロールも一体どこから!?」
「さぁな。少なくとも他の連中みたく、樹液飲んでズルしてる奴に教えるつもりはないね」
「樹液の実用化は小生の研究成果があってこそ!!少量でも未熟者をたちまち実戦に投入できる域に達するほどの!」
「町から子供の声を奪ってまでする事なのか?」
「大事の前の小事という言葉を知らんのかね?これだから教養のない者は困るっ」
互いに会話が平行線を辿り、これからも交わる事はない。当初から分かりきっていた事柄でも、険しい表情が必然的に浮かんだ。
サリットメシアを見つけるのが先か。
樹木が燃え尽きるのが先か。
一刻も早く発見すべく足を速めたが、焦りが注意力を散らしたのか。視界には死体のみ映り、ウーフニールがいても“初見”の物には反応できない。
突如足元が光ると飛びのく間も与えられず、炸裂音が耳に轟いた。その場から動く事もままならず、押しても引いても自由が利かない足を睨んだ。
膝から下は爆発したように氷の塊が捕らえ、剣を叩きつけても砕けない。破片が悪戯に散るばかりで、氷塊が溶ける前に身体が周囲の炎に包まれるだろう。
だがそんな掘削の時間すら、一筋の氷の矢が頬を掠めて止められる。鋭い痛みに片目を細め、咄嗟に放たれた方角へ視線を向けた。
「確実に頭を潰すつもりだったというのに、よく避けられましたな!?」
立て続けに氷の矢が煙の中から飛び出し、身体をよじりながら必死に避けるが、固定された足に動きを大幅に制限されてしまう。
避けられない物は剣で弾くが、徐々に身体はズタズタに切り裂かれていき、後方に押し込まれる半身を腹筋で引き止めると、崩れた態勢は剣を床に刺して立て直した。
「飛ばすだけが魔術ではないのだよ。良い勉強になったかね?」
再び声の方向から氷の矢が放たれ、かざした左腕で受け止める。鋭い痛みに声を押し殺すが、ようやく姿を現した“導師”に言葉を失ってしまった。
手応え通り顔面は完全に陥没し、腫れ上がった目は満足に開いていない。アデランテが見えているのかさえ怪しいが、裂かれた口には歪な笑みが張り付く。
弾き飛ばされた反動で折れた足を引きずり、“化物”然とした様相で近付いてきた。
「鉄の硬度をもつ氷の罠から逃れる事は不可能!ここまで長持ちした事は素直に褒めてやっても良い…しかし小生もそろそろ研究に戻りたいのだよ。君にばかり構ってやれる暇はないのだ!」
上げられた腕も、異様な方向にひしゃげている。
血を流し、ローブも破れ。足から突き出した骨は動く度に鈍い音を軋ませた。
もはや人と呼べるか疑わしい姿に、彼の悪行さえ霞んでいくが、サリットメシアが両手を突き合わせれば、掌で氷の渦が巻き起こった。
「さらばだ!名もなき雑兵よ!!死体を残すことなく、アルカナの巻物に存在を知られる事もなく、世界から忘れ去られてしまうがいいぃぃぃいいいっっ!」
「――それならあなたが消えてください…先生」
勝ち名乗りも束の間。狂気の狭間でぽつりと聞こえた声に顔を向けるや、ローブを着た女が彼を睨み、両手を差し出すように迫っていた。
サリットメシアに張り付いていた笑みは消え、代わりにアデランテが微笑むと安堵の嘆息を吐く。
しかし囚えていた彼女が何故フラフラ研究所を歩いているのか。
サリットメシアが疑問を口にする間もなく、女が頭上に放った水瓶を視界に収めると、瓶の入り口がゆっくり傾いた。
中から赤紫色の液体がゴポッと漏れ出すが、アナスターシャが飲んでいた紅茶よりも遥かにどす黒く。禍々しい色を秘めた液体は、やがてサリットメシアの頭から全身へ惜しみなく浴びせられた。