266.今ある花園
まず一行の鼻腔を掠めたのは、仄かに甘い、柔らかな香りだった。
それまで森にいた事で、土と草の臭いに慣れていたからだろう。
思わぬ変化に驚きながらも歩みを止めず、やがて木々が視界から消えた時。
ようやく太陽光が差し込むや、一行の足元には、広大な花畑が広がっていた。
ずっと先まで続く光景に、あるいは白い巨木並木を最初に見た際にも、視界に捉えていたのかもしれない。
しかし天を衝くほどの巨木が、否応なく一行の注意を引いていたのは一目瞭然。
おかげで花畑の存在に接近するまで気付けなかったものの、色とりどりの景観にソーニャは興味がなかったらしい。
ズカズカ進む彼女とは対照的に、弟子たちは花を踏まないよう慎重に歩き、その後ろをアデランテたちが平然と道を踏み荒らしていく。
冒険者にしてみれば美しい花園も、所詮は食べられない雑草に同じ。
一帯に漂う甘い香りにも鼻が慣れてくると、遮蔽物のない開けた空間を警戒しつつ、オルドレッドが口を開く。
「…木も剪定されていたから、そろそろ街に近付いている証拠よね。あの子たちも元気を取り戻してくれたのは良いけれど……肝心のあなたはまだ思い出せないの?」
アデランテの横顔をジッと睨み、急かすように煽ってみたところで、当人の反応は芳しくない。
困ったように周囲を頻りに見回し、腕を組みながら首を傾げていた。
「…こんな煌びやかな場所。流石に忘れることはない……よな?…ウーフニール、頼むからそろそろ答え合わせしてくれよ。なんか用事があって来たことだけは漠然と憶えてるんだっ」
顔をしかめるアデランテが奇声を上げるが、彼女の周りには黒い犬もいなければ、アライグマもいない。
前者は常にロゼッタの隣を歩き、後者は今頃花畑に埋もれている事だろう。
だからこそ考えられるのは、アデランテが内側に潜む怪物に語り掛けているという事実のみ。
今も交渉を続けているのか、小声で喚きたてているが、話し方から察するに成果は今一つと言ったところか。
傍から見れば独り言を零す狂人のように映るものの、事情を知っていれば、なんということはない。
万が一他人の注意を引いても、まるでオルドレッドに話しかけているように見せかけるべく、ぴったり寄り添ってアデランテの声に耳を傾けていた。
普段の自信に満ちた声音とは違う弱々しいものに、くすりと笑いかけたのも束の間。
おもむろにアデランテが肩を落とせば、思わず彼女に視線を移した。
「……実りの良い話はできたかしら?」
「まったく全然。指輪の事とか、洞窟の事も思い出せたのに、なんでその先を思い出せないのか、って逆に叱られたよ…あっ、でも最後に来た時は花畑がなかったらしいから、まだセーフだよな?」
「何がセーフなのよ。あんな大きな木があるのに思い出せないってだけでも、十分致命傷だと思うのだけれど?」
いまさら驚く事ではないが、それでもやはり信じられない。
あれだけ大きな“目印”があるのに、むしろどうやれば忘れることができるのか。
その記憶力の悪さから、自ずと彼女の中に巣食う怪物の仕業かと疑うも、道中の休憩で軽く聞いてみたところ、《出会った時から変わらない》とのこと。
思えば“バルジの怪”の中心地である山賊の洞窟ですら、7割ほど内部を進んでようやく思い出せた始末。
次に向かっている目的地でも、下手をすればその地を離れる直後に記憶が蘇っても何ら不思議はない。
「…思い出すのはいつだって構わないけれど、その時が来たら何があったのか教えなさいよね。アデランテ・シャルゼノートの冒険譚、ちょっと楽しみにしてるんだから」
肩で軽く小突きながら笑みを浮かべてやるが、当然アデランテは項垂れるばかり。
それどころか“冒険譚”と聞かされて、訝し気にオルドレッドを見つめ返した時だった。
「アディ!!」
疑問を口に出す間もなく、おもむろに足元で跳ねるロゼッタの姿に、思わず足を止めた。
花畑で戯れていたのか。膝裏まで伸びた金糸の髪には、花びらが飾りのように張り付き、見れば横に佇むウーフニールも花冠を載せられている。
その瞳は外せと言わんばかりにアデランテを睨んでくるが、もちろん手を差し伸べる事はしてやらない。
「アディ!アディ!」
「聞こえてる、聞こえてるって…どうしたんだ?そんなにはしゃいで」
「おててだーしーてっ?」
「手?」
いまだ飛び跳ねる事をやめないロゼッタの要求に応じ、手をスッと少女の前に差し出す。
自然と屈んでもなお少女の身長を優に超し、見上げてくる彼女がにこっと笑みを浮かべた矢先。
「はいっ!」
はち切れんばかりの笑みを浮かべ、両手を掲げた彼女の掌の中にあったのは、花で作られた小さな指輪。
いつの間に作っていたのかと驚いたが、程なく視界の端を区切るように、小さな画面が浮かび上がる。
過去を再生する映像を注視すれば、どうやらレマイラに背負われている際、カミリアが都度花を摘んでは、ロゼッタと戯れていたらしい。
短い間に花冠や花の指輪の作り方を覚え、片やウーフニールに。
そしてもう1つをアデランテに渡す事にしたらしいが、彼女の緑の瞳は、今すぐつけろと。
花畑に負けない――むしろ太陽ばりにギラギラさせた視線を向けてくるロゼッタに負け、すかさず人差し指に差した。
花の種類は知る由もないが、ピンク色の花弁はなおも瑞々しく花開いていた。
「お、おぉー!私には贅沢過ぎる一品だな。わざわざありがとー…どうした?まだ何かあるのか?」
思わぬプレゼントに掌を太陽に掲げ、満面の笑みでロゼッタを見下ろしたのも束の間。
それまでの笑顔はどこへ消えたのか。少女が頬を膨らませ、明らかに不機嫌そうな表情を見せる様に、アデランテもつられて顔を歪めてしまう。
「…え、えっと…とってもキレイだぞ?いままで貰った物で1番なっ!」
不満そうなロゼッタの前で高らかに腕を上げ、アデランテなりに最上級の賛辞を述べたつもりだった。
しかし彼女が機嫌を直す事はなく、小さな手がグッと伸ばされると、指輪の返還を求められているのかと。
いくらか肩を落としながら、渋々腕を差し伸べたアデランテに対し、ロゼッタの動きは早かった。
予想通り指輪が引き抜かれるも、そのまま徴発される事はない。
流れるように人差し指から薬指に差し替えられ、驚くアデランテを尻目に、ロゼッタはにっこり笑みを浮かべる。
「これでロゼとおそろいだね!外したらダメだよ?」
可愛らしい声で首を傾げ、アデランテの返事を待たずに踵を返した少女は、元来た道を颯爽と戻っていく。
流れるように屈んで待っていたレマイラの背中に乗り、それを合図に待っていた魔術師たちも、次々移動を再開する。
おかげで置いていかれたアデランテも、慌てて一行のあとを追うが、自然と視線は何度も指輪に目を向けてしまっていた。
足元の花畑も、前方に映る巨木すら視界から弾き、薬指に指した飾りがどうしても脳裏に焼き付く。
「……セシリアにも似たようなこと、昔はよくされてたな」
指輪にロゼッタの姿。そして妹が子供であった頃の姿が重なり、記憶力に乏しいアデランテには珍しい、思い出の世界に浸っていた直後。
ふいに脳が軽く揺さぶられ、肩口に感じた些細な衝撃に振り返れば、案の定オルドレッドから訝し気な眼差しを向けられていた。
「冒険譚は思い出せないくせに、妹との都合の良い記憶だけは思い出せるのね…それにキレイな物をプレゼントできなくって悪かったわねっ」
グッと肩を最後に押し付けられるや、その反動を利用するようにオルドレッドはツカツカ先に進んでいく。
彼女の苛立ちが伝わる背中に疑問符ばかりが浮かぶも、程なく【首にかけたペンダント】と。
答えを提示してくれたウーフニールのおかげで、久方ぶりに彼女から貰っていたプレゼントの存在を思い出せたまではよかった。
しかし渦巻き模様が描かれたペンダントを、はていつ渡されたものだったか。
その先の答えを求めても、返ってくるのは唸り声に似た溜息ばかりだった。