258.ねずみの巣穴
「……レマイラ」
遠くからこっそり覗いていたザーリーンがポツリと零せば、レマイラはもちろん。彼女が背負う少女とアライグマが見えるも、様子がどうもおかしい。
前方の建物に入ろうとしているようだが、ロゼッタにぐいぐい引っ張られて、前に進めないでいるようだ。
「尾行してるって言うのに、随分と賑やかにしてるじゃない」
そんな一行の姿に、背後からオルドレッドが愚痴を零すも、彼女の視線はもっと下。
その先を追ってみれば、つかず離れず歩くドーベルマンに瞳は向けられていた。
一見して凶悪そうな風貌をしているのに、吠えるでも唸るわけでもない。
ただ無言で2人の隣を歩く事もあれば、前脚を器用に持ち上げてオルドレッドに触れる事がある。
それが何を意味するのかは分からないが、その仕草を合図にするように止まったり、または進行を開始する事があった。
とてもそこらで拾ってきた犬とは思えない行動を始め、洗練された一連の動きはザーリーンの思考を度々曇らせる。
「呆けてる場合じゃないわよ。そろそろ建物に入るんだから」
「……犬。賢すぎませんか」
「アデランテの知り合いから借りたからよ。出所はアライグマと同じってところ」
「……路地裏から拾ってきたように見えましたけど」
「彼の知り合いは至る所に支部を持っているのっ。つまらない事を聞いてる暇があったら、もう少し周りの警戒でもしなさい?」
窘めるように言われて話題を逸らされるが、警戒していたからこそレマイラたちの姿が映り、自然とドーベルマンの存在が彷彿させられたのだ。
不貞腐れるように犬を一瞥すれば、ふと視線が合ってしまったらしい。
気怠そうな眼差しでジッと見上げられ、思わず鼓動が飛び跳ねるが、なぜその程度で驚いてしまったのか。
しばし考えた末に、まずはパスカル並みの知能を有している事に違和感を覚えたこと。
加えて“犬らしからぬ”落ち着きも相まって、どこか得体の知れない恐怖を感じていたのだろう。
カミリアのように頭を撫でつける気にはなれなかったが、近付く気にもなれない。
そんな存在に傍のダークエルフは微塵もたじろがず、それが冒険者になると言う事なのかと。
その答えをいまだ出せずに、今は黙って命令に従うほかなかった。
「…行くわよ」
たった一言の号令にびくりと反応すれば、慌てて犬とオルドレッドのあとを追った。
気付けばレマイラたちの姿も消え、当然先程まで尾行していた集団も見当たらない。
足早に進むオルドレッドに急いで追いつき、やがて建物に沿って歩けば、ふと頭上の小窓に視線が向けられる。
「…私でギリギリ通れそうな入口ね。ザーリーンだったかしら。先に入って身を潜めてなさい」
「……私もついていって大丈夫なんでしょうか。戦闘経験は模擬戦くらいしかないですけど」
「気は進まないけれど、あなたの師匠が“自衛は出来る”って言っていたし、何よりアデランテの提案でね。何事も経験だ…って事だそうよ」
本当に気が進まないのか。酷く落胆したような溜息が零されるも、ザーリーンの“社会勉強”には貢献するつもりらしい。
小窓の下に佇めば登るよう促され、渋々裾をたくし上げれば、オルドレッドを足場に上へと這っていく。
壁に掴まりながらようやく立ち上がり、幸い鍵が開いている小窓を開けた直後。
中から湿っぽい臭いが押し出され、思わず背後に引きそうになった。
長らく換気していないのか。それとも別の理由があるのか。
薄ら暗い、じめじめした空間に飛び込む勇気はなかったが、足元ではサッサと入るようオルドレッドが睨んでくる。
その眼差しに押されるように乗り込めば、入ってすぐ傍の木箱にまずは掴まった。
ズルズルとゆっくり体を捻じ込み、やがて全身がすっぽり収まった時。
当初嗅いだ香りはやはり強く鼻腔に押し寄せ、服に臭いがつかないか心配になる。
埃だらけの足場にも物申したいところだったが、ずっと這うような姿勢で待機しているわけにもいかない。
足を精一杯伸ばしながら降りれば、程なく硬い床がザーリーンを出迎えた。
靴裏にはやはり埃が付き、ワンピースも同様の目に遭えば、もっと雑然とした服装で来ればよかったと。
そもそもアデランテと街中を歩きたかったと、幾らか肩を落とす。
そのまま突如決まった遠征に関して延々愚痴を零しても良かったが、ふと話し声が聞こえたからだろう。
途端に屈めばゆっくり移動を開始し、徐々に仄かな明かりの傍へ近付いていく。
「――つまりこちらの商品は水陸両用であり、お客様の要望にも十分答えられるかと」
「…聞いていた以上に小さいな」
会話に耳を澄ませながらソッと覗けば、度々尾行していた男女は売り手。
道中で合流した集団が買い手である事は窺えるも、どうやら交渉はうまく進んでいないらしい。
その傍の檻にはカエルに似た頭と、丸々太った体。
そして細かい鱗に覆われ、長い手足を持つ魔物が収監されていたが、恐らくクスリで眠らされているのだろう。
4体ほど折り重なるように倒れていたものの、その外見には見覚えがある。
「…名前。忘れたけど、確か魔術も使えるやつ」
講義で習った内容を反芻しながら杖を取り出せば、小さな一息を吐く。
臭いと湿気の根源が近いおかげで一瞬息が詰まったが、オルドレッドの情報は正しかったらしい。
男女を追跡し始めた時は何を根拠にしていたか分からなかったとはいえ、現に証拠は目の前にある。
あとは一網打尽にするだけだが、果たしてソーニャ相手の練習が実戦で通用するのか。
緊張しながら喉を鳴らし、意を決して呪文を唱えたのも束の間。
ふいに口を背後から塞がれ、そのままズルズル引きずられていく。
咄嗟に抵抗を試みるも、直後に柔らかな感触が後頭部に触れたからだろう。
瞬時に状況を察して背後を睨めば、案の定オルドレッドに捕まっていた。
「気概は買うけれど、何の策もなしに突っ込んでも痛い目を見るだけよ」
「……奇襲も立派な作戦だと聞いていますが」
「だとしてもやり方はあるわ…それに私たちの役目はあくまで包囲すること。手を出すのは“合図”があってから。いいわね?」
たわわな胸を枕に説得され、渋々承諾した途端。
直後に背後の気配が消えれば、オルドレッドの姿も見えなくなっていた。
まるで闇に溶け込んだようなお手前に感嘆とするも、すぐに意識を乱せば、聞こえてきた会話に耳を澄ませる。
交渉は依然平行線を辿っているらしく、片や値下げか返品を。
片や運送費の請求をしているが、果たして話の行く末はどうなるのか。
少しばかり興味を抱きつつ、その手に力強く杖を握り締めた刹那。
突如一帯が曇り出すや、彼らの交渉も一時中断する。
煙幕の一種だと気付く頃には、ようやくカミリアの仕業だと。
それが恐らく合図なのだろうと、すぐさま立ち上がったものの、直後に天窓が割れる音が辺りに響き渡る。
降り注ぐガラスがけたたましく鳴り、やがて阿鼻叫喚が周囲を包み込んだ。
「な、何が起きて…っ」
攻め込むべきか。それとも“包囲”を続けるべきか。
説明足らずな作戦に不満こそあれ、悠長に愚痴を零している暇はない。
途端に迫ってくる足音にハッとなり、タイミングを見計らって魔術を発動した。
雷の一閃は確実に対象の体を貫くはずが、相手の方が一枚上手だったらしい。
紙一重で閃光を躱すや、瞬時に首元を押さえ込まれて身動きが取れなくなる。
暗闇の中でもギラリと剣が光り、もはや絶体絶命かと思えたその時。
「…えっ、違う?……あっ」
間抜けな声がふいに聞こえるや、同時に耳にした事がある声音にゆっくり瞼を開ける。
すると目と鼻の先には色違いの瞳が浮かび、古傷に関わらず端整な顔つきがくっきり映り込んだ。
「……結婚してください」
「えっ?」
相手がアデランテと分かった途端。気付けば口にしていた言葉に、彼女の困惑がそのまま顔に浮かぶ。
その表情もまた愛おしく感じられ、現実に戻ってくるまでしばし時間を要する事になった。