024.アルカナの巻物
むせ返す甘ったるい香りが肌に纏わりつき、顔や手にベタつく感触を乱暴に拭った。
地下へ潜るほど粘つく大気は、アデランテの焦燥を確信めいたものに変え、頭の中の地図に行き止まりと表記されても迷わず突き進んだ。
すると吐き気を催す空気が押し寄せ、振り切るように匂いの層を払ったアデランテは、切り立った崖でピタリと止まった。
ヌメつく地面に滑らないよう慎重に足元を見下ろし、松明で一帯を照らす。
「…ウーフニール。今の私は何も嗅げないはずだよな」
【嗅覚は遮断している】
「……なら私が感じてる胃のムカつきは匂いのせいじゃない、ってことか?」
【貴様が認識できずとも、肉体は異臭を把握している。望むならば触感も遮断可能だ】
「いや、いい…」
陰鬱な声に耳を傾けつつ、感じないはずの匂いに鼻を覆えば、さらに足元を覗き込む。
部屋全体は根が血管のようにひしめき、巨大な坩堝にはたっぷり液体が溜まっているが、波打つ事も泡立つ事も無い。
松明の明かりで赤紫色に煌くソレの中では、無数の黒い物体が静かに漂っていた。
浮き沈みを繰り返しても、水面まで上がる事はない。大きさは大人半分程で、縮こまる姿は母胎で眠る赤子のようにも見える。
【この場に来る必要はなかったはずだが】
「…あぁ、分かってる。ただこの目でしっかり見ておきたいと思っただけだよ……一応確認しておくけど…」
【奴らを喰らった時点では、まだ小娘共の“処理”は確認されていない。最深部に囚われているはず】
「そうか…なら急がないとな」
そう言いながらもアデランテは動かず、ウーフニールが急き立てる事で、ようやく踵を返した。
忘れられない光景を振り払おうとするが、液体に浸かった黒い塊が脳裏で浮かんでは沈んでいく。
「……ほんと、胸くそ悪い場所だな…ウーフニール、“次”はまだか!?」
【前方20メートル先を左。下降したのち50メートル進め】
淡々と案内に沿ってグングン距離を稼ぎ、長梯子も一気に飛び降りれば、強引な着地で痺れた足を無視。
再び駆け出せば、オレンジ色で彩った長方形の空間が地図上に現れた。目標直前で踏みとどまり、すぐに意識はそれまで1度も行き当たらなかった小部屋へ。
もとい牢獄とも呼べる檻に向けられ、鉄柵にしがみつけばザっと中を見回す。
柵の奥にいたのは年端もいかない、コニーたち程の子供ばかりで、瞳や肌には生気がなく、アデランテが突然現れようとも一切反応を示さない。
足を抱え、頬はこけ。ただ虚空をジッと眺めて座っているだけだった。
「…アイツら、子供たちをこんな所に閉じ込めてどうするつもりだったんだ」
【魔力を練られぬ不適合因子の末路は魔術の試し撃ち。あるいは実験台として…】
――ガシャンっっっっ……!
鉄柵を殴る音が洞窟内を響き、錆がボロボロ崩れても子供たちはやはり動じない。
「…ッッ、人を物扱いしやがって…!」
ミケランジェリ。そして道中に襲撃した魔術師たちの言葉に腸が煮え滾り、目にも止まらない速さで武器を振り下ろすと錠前を砕いた。
そのまま扉を解放しても子供たちは関心を示さず、仮に脱出するよう怒鳴った所で、彼らが立ち上がる事はないのだろう。
もっとも彼らが喜び勇んで飛び出しても、自力で地上に戻れるはずもない。今の姿のまま町へ帰っても、賑やかな声が空に響き渡る事も夢のまた夢。
何よりも今はアナスターシャたちの救出が優先。
子供たちも檻の中にいる方が安全に見え、止むを得ず扉を閉め直した。
「……私が戻るまで大人しくしてるんだぞッ」
檻を掴んでいた手を名残り惜しそうに放し、子供たちから視線を逸らした。
直後に奥へ駆けていけば青い煙を辿り、アナスターシャたちの下へ向かうが、焦る気持ちに反して、地図上を動く自身がゆっくり進んで見えてしまう。
己の体たらくとばかりに速度をさらに上げ、耳には風切り音だけが鳴り響いた。
【体力の温存を図る考えはないようだな】
「ハァハァ、当たり前だ!こんなゆっくり走ってたら、あの子たちが危ないんだろ!?くっそ、どれだけ私の足は遅いんだ。自分で自分が情けないッッ」
【縮図ゆえに基点の動きが遅く見えているだけだ】
「ああ゛ッ?なんだって!?ハァ…ハァ」
【あと10メートルで目標地点に到達する】
「だから縮図ってなんのこッぐわぁぁあッッ!?」
顔を逸らした瞬間、強烈な一撃がアデランテの横っ面を直撃する。
岩でも土でも、根でもない。木の板がメリメリ軋み、音が鼓膜を突き抜けるや――バキッと。
そのまま扉が微塵に砕け、勢いのまま身体が前に放り出される。
瞬く間に迫った床に受け身を取るが、衝撃で松明が消えてしまったらしい。
それでも一帯は不自然なほど明るく、思わず目を覆ったアデランテに、突如内なる警鐘が鳴り響く。
咄嗟に飛び退けば、直後に小さな氷の矢が無数に突き刺さった。
「“時の流れを止めよ!安らかな眠りに就け!我が名をもって命じる。凍てつく寒さの主よ!!”」
「“視線の先を穿て!紅蓮の子を捧げよっ!我が名をもって命じる。堕ちた天道の主よ!!”」
満足に周囲の確認もしていないと言うのに、部屋中を木霊する詠唱がアデランテを走らせ、雨あられと降り注ぐ火球や氷の矢を獣の如く避け続ける。
堪らず本棚の影に飛び込んだところで一息吐けば、ムッと顔をしかめて虚空を睨みつけた。
「……こういうことはもっと早く言ってくれって私は何度も…」
【地図を読み違え、勝手に暴走した結果に他ならない。責任の所在は全て貴様にある】
「仕方ないだろ?そう見えたんだから…それにしてもバカスカ撃ちすぎだろアイツら。おかげで中の様子も満足に確認できなかった」
猛攻を受ける本棚の裏からこっそり覗いてみるが、氷の破片や火の粉が舞ってすぐに顔を引っ込めた。
相変わらず室内の様相すら窺えなかったものの、ふいに視界を白い霧が立ち込めれば、景色もろとも喧噪が遠のいていく。
やがて眼前には扉を砕いた直後の光景が現れ、巨大な部屋は坩堝を彷彿させた。
丸められた巻物が収まる小棚は乱雑に立ち並び、広い天井を蜘蛛の巣のように張り巡らされた絹は、宙を漂う灯りで反対側が透けて見える。
“ソレ”に書かれたミミズ文字は読めないが、その隣でローブに身を包む魔術師たちが、ペンと羊皮紙を手に梯子を用い。
あるいは地面に立って巻物を覗き込む姿が、静止して映し出されていた。
だがそれも一部の人間だけで、多くは砕けた扉に驚き、滑稽な表情を浮かべてアデランテに目を向けていた。
落ち着いて眺める時間さえあれば、笑みの1つでも零せたろうが、そのまま霧が晴れると再び遮蔽物に着弾する魔術の破壊音と詠唱が鳴り響く。
「え~っと…アリガトウ?」
【これからどうする】
「はんっ、そんなもん決まってるだろ?あいつらは間違いなく“敵”なんだからな!」
攻勢の手が緩み、詠唱が蔓延る一瞬を狙って飛び出したが、彼らは戦闘の基本を知らないのか。
あるいは己が魔術を過信しているせいか。静止画で見た位置から殆ど動かなかったおかげで、迷わず間近にいた魔術師を薙ぎ払った。
返す刀で別の魔術師も仕留め、魔術が放たれようと一瞥する事無く避けては、時折敵を盾に一撃を躱す。
圧倒的に有利だったはずの魔術師たちの立場は、僅かな時間で逆転されつつあった。