240.囮
長閑な平原で佇んでいたアデランテに、突如鋭い刃が首元へ見舞われる。
咄嗟に仰け反って回避すれば、その勢いのまま背後へ後転。顔を上げた直後に切っ先が眼前に迫っていたが、首を振って2度目の襲撃を避けた。
着地後の横薙ぎも再び飛んで躱し、すぐさま反撃を仕掛けたものの、アデランテの剣は槍の柄で弾かれる。
その後も激しい攻防戦を相手と繰り広げるが、少し離れた場所ではロゼッタが静かに座り込んでいた。
アデランテを特に心配するでもなく、呑気に草冠を編んでいたのも束の間。
ふいに顔を上げれば、途端に激戦の中へと走りだした。
「アディー!!」
「でぇぇあああうぉおッッロゼッタぁああ!??」
振りかぶった剣を慌てて静止し、さらに飛びずさる事でロゼッタから剣を遠ざけるが、アデランテに詰め寄った少女はそのまま足にしがみつく。
おかげでバランスを崩すと倒れ込み、直後に身体を起こそうとした刹那――ポフンっと。頭の上に草冠を飾られ、よじ登ってきたロゼッタが笑みを浮かべる。
彼女の笑顔に絆されて叱る事もできず、抱えたまま立ち上がると、すかさず黒騎士がゆっくり迫ってきた。
《女が戻ってくる》
「あーっ!いまロゼが言おうと思ってたのにぃ…」
「…オルドレッドのことだよな?」
アデランテも置いてけぼりの会話に少し寂しさを感じたが、概ね状況は把握できた。“稽古”を中断して2人の視線を追えば、やがて森の中からオルドレッドが飛び出してくる。
その手にはチューリップに似たピンクの花を持ち、彼女もまたアデランテたちに気付くが、足を止める事はしない。
そのまま平原を走り抜けていけば、やがてオルドレッドが来た方角から、激しい地鳴りが響き始めた。
程なく大地をも揺らし出し、咄嗟にロゼッタを抱えたまま走りだした瞬間。
――メ゛ェ゛ェ゛エ゛エエエェエエーーーーー!!
森から一丸となって現れた羊に似た魔物が、アデランテたちがいた場所を続々と通過していく。
家畜にしては大きすぎる体長に加え、茂み色の体毛が普通の獣と見分けることを容易にさせる。
「…コレはまた偉い騒ぎだな……ロゼッタ。これくらい賑やかなら、霧も現れると思うか?」
「……たぶん」
平原を埋めそうなほど一帯が魔物でひしめく中、木の上に避難したアデランテがロゼッタに問いかける。
教団を追放してからしばらく霧の再来を待ったが、何度か雨が降ろうとも、目的のモノは現れない。
そこでロゼッタが幹部から“仕入れた”情報を思い出し、ようやく現在実行するに至った。
「……霧を呼ぶために騒音が必要だなんて、連中も伊達や酔狂で踊ってたわけじゃなかったんだな」
「その話が本当ならッッ、の話ッ、だけれどね!!」
思いのほか爽快な景色を楽しんでいた矢先、ふいに足元からオルドレッドの声がした。どうやら無事に逃げ切ったらしく、その手にはピンクの花もすでにない。
疾走と木登りの疲労で息切れを起こしていたものの、やがて隣に立てば大きく胸を膨らませ、溜息ともども息を吐き出した。
「さて、あなたの提案通り、スケープゴートを連れて来てあげたわよ?これからどうするのか、お手並み拝見ね」
「…初めにも聞いたが、この大群をどうやって呼んだんだ?さっきのピンクの花が関係してそうだけど」
「あら、流石に目ざといわね。さっきのは緑花草と言って、スケープゴートの大好物なのよ。昔は戦争の道具にも使われたくらい歴史があって……って話はさておき、予定通りなら霧が来て、あなたを攫っていくのよね?」
「その手筈にはなってるけど…それまで1匹くらい“食べて”みてもいいか?」
「やめておきなさい。スケープゴートは攻撃しない限りは無害だけれど、1匹でも手を出したら、赤く変化した数匹が猛然と襲ってくるのよ…その隙にほかの群れは逃げていくし、作戦も無駄になるわよ」
「…だ、そうだぞ?」
身の安全よりも食い意地を優先するアデランテに呆れたのだろう。彼女から訝し気な眼差しが突き刺さるも、当人の視線は明後日の方向へと向けられている。
まるでココにいない誰かに話しかけているようで、ふと黒騎士の姿が見えない様子に、四方をキョロキョロ見回していた時。
「それじゃ、ココからは別行動になるな。あとは宜しく頼むぞ」
悪びれもなくロゼッタを渡されるや、そのまま飛び降りようとするアデランテに、気付けば咄嗟に腕を掴んでいた。
おかげでバランスを崩した彼女を慌てて支え、互いが互いを抱える状態で静止する。
「…今のは少し肝が冷えたぞ」
「ご、ごめんなさい……でも…本当に戻ってくるのよね?」
身長差では見下ろしているはずが、アデランテ相手では不思議と上目遣いをしてしまう。しかし“期待に”反し、彼女の手はロゼッタの頭を優しく撫でた。
そんな光景にムッとしたのも束の間。どうやらオルドレッドの発言で、ロゼッタまで不安に駆られたらしく、思わぬ事態にそれ以上口を挟む余地がなかった。
アデランテが言葉を紡ぐまでは。
「…私はな。できる約束は死んでも果たすけど、できない約束は絶対にしない主義なんだ」
「……それで、帰ってくるの?帰ってこないの?」
「帰ってくるに決まってるだろ?なにをいまさら…」
呆れたような笑みを浮かべるアデランテに、ロゼッタも抱き着こうとしたのだろう。だがその前にオルドレッドが彼女の目を隠せば、素早く唇をやんわり重ねた。
「………ちゃんと帰ってこないと、“今度は”コッチから迎えに行くわよ。いいわね?」
「…ははっ、肝に銘じておくよ」
耳を赤らめながらぶっきらぼうに呟くも、幸い目を隠されたロゼッタはもちろん。アデランテは変化に気付いていないらしい。
当人の度肝も抜けて少しスッキリすれば、ロゼッタの頭を撫でると同時。颯爽と木の上から飛び降りたアデランテを、オルドレッドたちは頭上から静かに見送った。
ロゼッタを抱える姿と相まって、もしも振り返っていれば妻子のようにも見えたろう。
しかしアデランテは迷わずスケープゴートの上を走り、できるだけ中心地を――2人から離れた場所を目指し、かつ声が聞こえない距離を保とうとしていた。
「……最後にもう1回…」
【プルーストの果実】
「そいつを探せばいいとして、何か特徴とかないのか?」
【信者の教義では“赤い果実”とされている】
「…私はりんごでも探せばいいのかな。ところでスケープゴートの群れが突っ込んで来た時、黒騎士の方は大丈夫だったのか?」
【すでに奴らの傍で控えている】
「ははっ、そうか。2人をくれぐれも頼むぞ……じゃあやってくれ」
心残りが解決したところで、中央と思しき位置に佇む魔物の上に立つが、優にアデランテの身長を超すからか。
特に気にする様子もなく、草をムシャムシャと貪っていた。
それは例え空から濃霧が現れても変わらず、アデランテも座り込めば抑えていた薬の効果を発揮。すると唐突に頭痛や吐き気に見舞われ、同時に恍惚とした想いで頭がボーっとする。
それから徐々に意識が溶けていくような。
まるでウーフニールに摂り込まれたような感覚に身を委ねると、少しずつ視界に映る景色を手放していく。
その光景を眺めていた者には魔物の群れを残し、アデランテだけが霧の中へ消えたように見えたろう。