023.地下水脈
樹木の家が立ち並ぶなか、中央に佇むもっとも幅を利かせた巨木には扉も窓もない。一切加工されていない様子から、家屋にする労働力が見合わないと判断されたのか。
それでも立派な佇まいに目を離せず、グルッと回り込めば地上にせり出した根の隙間に、大人2人が悠々と収まる樹洞が見つかる。
踏み込めば地面には落とし戸が設置され、横についた錠前から、普段はカギが閉まっているのだろう。
すかさず地下へ続く梯子を降りれば硬い感触が足底に伝わるが、直後に押し寄せた甘い香りにアデランテの顔が歪む。
「くっ…何なんだよこの匂いは。巨大なケーキでも焼いてるのか!?頭がクラクラする…ッ」
【嗅覚を遮断する】
「……おぉぉ、やるなウーフニール!何も匂わないぞ!!これなら奥までズンズン進んで行け…でも暗くて前が見えないな。痛っ!?足の裏に棘がっ。痛たっ!何か頭に当たったぞ!?痛てぇ!?」
【うるさいぞ】
眩暈も頭痛も消え、意気揚々と進もうとしたのも束の間。1歩進めば足をぶつけ、よろめいた先で壁から突き出た根に顔を強打する。
額を摩りながら振り返れば、落とし戸から差し込む明かりもぷっつり途切れていた。
一寸先は闇しかなく、壁に身を寄せて手探りで移動しようとした矢先。視界の端に浮かぶ黒円に、茶色い輪郭が縦横無尽に走り出す。
眼前には青い煙の道筋が映し出され、道標に笑みを零せば坂道を下っては昇っていく。
時折梯子を上下に進むが、地中深い大迷宮を何も知らずに歩けば、2度と地上には戻れないだろう。
ウーフニールの“加護”なしに歩く自分を想像するだけで血の気が引き、地上が遠のく度に本能が警鐘を鳴らす。
それでも肌に粘つく湿気を絶え間なく拭い、一刻も早くアナスターシャたちを救出して、地下水脈を脱出したかった。
だが地図には現れない突き出た根や岩が、アデランテの四肢や顔をド突く。移動速度を思うように上げられず、やがて焦燥感と苛立ちが限界に達した時。
【前方50メートル先。敵影4つ】
「…聞こえてるし、地面からも振動が伝わってくるよ。こんな所をよく集団で歩けるな…その中に子供たちとか、さっきの先生はいそうか?」
【否。足音が異なる】
「つまり敵って事でいいんだよな……どうしたもんか」
黒円に現れた4つの紫点がゆっくり。そして着実にアデランテまで近付いてくるが、まだ見ぬ相手に警戒を抱くのは当然のこと。
ミケランジェリと戦闘してから、その身はいまだ一糸纏わぬままだった。
【生やせば問題なかろう】
「身体が疼くから嫌だって何度も言ってるだろ!?くっそ、ローブの1つでも借りようと思ったら、あの野郎が家ごと燃やすし、今は一刻を争うんだ!ふにゃふにゃしてる場合じゃないんだぞ!」
「――こっちから声が聞こえるぞ!?」
ハッと我に返るが、時すでに遅く。紫点が明らかに速度を上げ、一斉に迫りくる様子に慌てて周囲を見回した。
しかし一帯は壁だらけで、身を潜める場所が見当たらない。
その間も前方から淡い光が零れ、やがて明かりが暗闇を消し去れば、“師匠”と同じローブを着た一団が姿を現した。
頭上を漂う光の球体の下で辺りを見回し、各々の声から男が3人。女が1人と判別できる。
「…誰もいないッスね」
「だーから言ったろ?俺らの声が反響したんだっつの。いちいちビビんなや」
「最初に騒いだのは誰だったかしら?それにね。な・に・か、あったら責任取らされんのは誰だと思ってんの?」
「次の地上担当を命ぜられた我々でしょうね」
辺りをしばし警戒していたが、一見して異常は見受けられない。木の根は壁を突き破り、土くれた通路しか見えない光景はとっくに見飽きている。
決して長居もしたくない空間だが、ふいに1人が壁に寄りかかった。
「…ったく。久しぶりの地上だってのに、テメェらが急に走るせいで、身体がついてかないわ」
「研究ばっかしてりゃ身体も鈍るッスよ、ふつう」
「良い運動になったではありませんか。それに折角の休憩です。導師の言いつけ、もとい我々の任が共通の認識の下にあるか確認する良い機会です」
「認識って、町からガキどもを回収して魔力を練らせるだけだろうが。そんな単純なことも覚えられねぇのかテメェらは」
「ふつうならそうッスけど、今回は年相応の子供が町にいないんで、今度の訪問は候補の唾つけと、研究所に送ったお子さんの親に無事出荷…じゃなくて奉公できたって報告と、あれらの提供分の支払い。それと先輩2人が次の素材を迎えられるよう、家の掃除を手伝うだけッス」
「あ~ら、単純な事も覚えてない同僚がいたわ。やだやだ。これだから下等種族はやだわ」
「ンだとオ゛ラ゛っ!?大体何でこんな面倒な事してんだ。あ゛あ゛っ?いっそガキどもを産ませるだけの町にして、片っ端から処理しちまえば済むこったろうがよっ。それが何でこんな大学の真似事なんざ…」
「世間の注意を惹かないために決まってるじゃないですか。ここはあくまで辺境の片田舎。それ以上でもそれ以下でもなく、そんな町に赴任した心優しい魔術師たちが、才能と勤め先を与えてくれる。我々の研究が表沙汰になればどうなるか、分かっていますね。順番で回って来た役割に文句を言わないでください」
折角の休憩の最中に、見えない火花が散り始める。
もともと気乗りしない任務に全員が辟易しているのか。次第に瞳の中に宿った炎が大きくなり、殺気に似た気配すら一帯をひしめく。
しかし4人もいれば、1人は大抵歯止め役に回るもの。低姿勢で接していた男が、慌てて輪の中に踊り出した。
「そ、そんなマジにならなくっていいじゃないッスかー。むしろそれぐらいドライな方がアナスターシャ先輩みたいな轍を踏まなくて済むじゃないッスか!…あいつ、どうなるんスかね」
「……問題ないだろ。導師様に任せとけば全部うまくいく。どうせあいつもおれ達と同じ穴のムジナ。こっから逃げるなんざ出来ないんだよ」
「ちょっと。あんな出来損ないと一緒にしないでもらいたいんですけど……そういえばミケランジェリは何し…て……んんん?」
地上にいるはずのミケランジェリを見るように。ふと頭上を仰いだ1人が、ピタリと視線を固定した。
不自然な会話の途切れに残る3人も見上げ、そして同じく動かなくなってしまう。
全員が訝し気に暗がりを覗き、やがて1人がゆっくり片手を宙にかざした。
「…“闇に目を向けよ。全てを明るく照らせ。我が名をもって命じる。仄かな道の主よ”」
途端に掌から光の球が解き放たれ、彼らの頭上を計2つの光源が浮かぶ。光が一切届かない地下では、それだけで十分一帯を照らし、暗闇を全て晒け出す。
思えばマルガレーテの町に来てからというもの、地下水脈の天井を見上げたのは初めてだったかもしれない。
恐らく複雑怪奇に捻じ曲がった道を覚えるのに必死だったからで、壁や床から突き出た巨大な根も、無数の腕が伸びたような禍々しさが漂っていた。
死神の手招きにも似た空間に、実際遭難死したメンバーは過去に何人もいた。
ゆえに最初は同僚の死体がぶら下がっているのかと。だが天井に引っ掛かった経緯が思い浮かばず、複雑に絡み合う根から目が離せなかった。
1人の裸の女が、蜘蛛の如く張り付いた情景が不可解過ぎるあまりに――。
――歯を食い縛っていたアデランテまで光が届き、もはや身を潜める理由もない。突っ張っていた手足を離すと急降下し、間近の男を蹴り飛ばして瞬く間に意識を奪った。
残るは3人。
即座に身を翻して別の男に拳を見舞い、詠唱を終えた女魔術師が火柱を放つ。身体をひねって辛うじて避け、下から蹴り上げた一撃を顎に入れて3人目も退場。
これで残すはあと1人になったが、やはり掌から火柱が放たれる。
単調な軌道を避けるのは造作もなく、瞬時に魔術師を壁に押し付ければ、意図も容易く無力化してしまう。
それでも騒ぎ、抵抗し。だがアデランテの剛力を跳ね除ける事は出来ない。
最期に上げた悲鳴も黒い霧に溶けていき、術者の不在によって消えた魔術光は、再び周囲に暗闇をもたらすはずだった。
しかしパチパチと燃える人間大の光源は、いまだ一帯を醜く照らしている。
「…コイツら、一体何を考えてるんだ?」
敵とはいえ、複雑な表情で見回せば3つの身体が焚火代わりにうずくまっている。
限られた空間で放たれた魔術が、意識を失った仲間に直撃し、先程まで会話していた同僚を平然と燃やす思考を理解する事ができない。
おかげで生かして情報を吐かせる気力も失せ、1番使いたくない手段を用いた自分自身にも深々と溜息を吐いた。
「……子供たちも、短髪も、まだ生きてるみたいだな。急げばまだ間に合うかもしれない」
【リゼ、コニー、アナスターシャ…貴様はなぜ個体の名前を覚えん】
「ッ、苦手なんだよ昔から!顔を覚えられるようになっただけでも、成長してる方なんだ!!」
【獣以下か】
ウーフニールの呟きに唸り声で応えるが、僅かな闘争心もあっさり萎んでいく。反論する言葉も見つからず、死体を一瞥すれば奪取予定のローブは燃え盛っている。
「…ウーフニール、頼むァァツ…うぐぅ…ぅんっ」
口を開くや否や、いまだ慣れない疼きと火照りが全身を襲った。
身体を抱えて嗚咽を漏らし、やがて身体中を這っていた衝動が抜けると、その場に崩れ落ちた。
余韻に身を震わせていたが、頬を叩いて熱を逃がせば根っこにグッと掴まった。
「ふぅーーー……いまさら装備を生やすことに文句は言わない。ただ気になることがあるんだ」
【また問題があるのか】
「お前じゃなくてコイツらだよ。それと短髪の家でお前が摂り込んだ奴もだけど…なんで揃いも揃って私の身体ばかり見るんだ?目の色が左右で違うんだぞ。普通ソッチの方が目立つだろ!戦闘の時に全然目が合わないんだよ!!」
【…雄を呼び、子を育むために雌の肉体は特化する。雄の性が死闘に優先されたと推測される】
「でも女の魔術師も目が合わなかったし、あんな奴らの子供なんて生みたくないけど…子供ねぇ」
おもむろに胸を揉みしだき、腰をソッと撫でつけるが、家庭を持った自分が全く想像できない。
騎士団で過ごした荒々しい子供時代のせいか。
それとも剣を振るい続けた人生が妄想を一蹴するのか。
しまいには【集中しろ】と注意され、咄嗟にその場を走り出したが、ふいに足を止めれば考える仕草をしながら上を向いた。
それから元いた場所に舞い戻れば、壁から突き出た根をへし折って、人型の焚火に突っ込む。
「…よし」
松明を片手に今度こそ離れ、弊害をものともせずに青い煙を辿る。改めて視界に映る景色は見応えもなく、ましてや奥に進みたくなる雰囲気でもない。
それでも暗闇を手探りで歩くよりは、幾分か心持ちを明るくしてくれた。