022.炎風
アナスターシャが去り、残されたのはミケランジェリの獣のような唸り声だけだった。
拘束からも逃れようと反り返るが、背後で組み伏されては。何よりも人の力とは思えない圧倒的な力を前に、筋力での対抗は無意味。
挟撃者を睨みつけようと目を血走らせる彼に、アデランテが語りかける。
「アルカナの巻物ってのは何なんだ?子供たちと何の関係があるッ」
「ぐぬぅ…それを知ってどうするんだ!大体あんたは誰なんだよ!?あの女と面識があるようには見えなかったぜ。そもそもどっから現れやがった!」
「…ずいぶん口調が荒いな。メガネが外れたからか?もし暴れないって約束するんだったら、拾ってやっても……悪い。アナスターシャが出て行く時に踏み砕いてったみたいだ。あーいうのはやっぱり高いのか?」
「何をごちゃごちゃ言ってやがんだ!魔法も使えねぇ下等種族にはこれで十分なんだよ!」
「種族って、同じ人間だろ…少なくとも今は同じ見た目をしてるぞ」
「……〝蝶のように舞え。蜂の針を遠ざけよ。我が名をもって命じる。見えない壁の主よ”」
それまで暴れていたミケランジェリがピタリと抵抗を止め、静かに何かを唱え出す。
首を傾げたのも束の間。ふいに銀糸の髪をそよ風が吹き抜けたかと思えば、突然身体を柔らかく。
同時に質量のある衝撃が襲い掛かり、為す術もなくアデランテを後方へ吹き飛ばした。
途中にあった机をも弾き、壁に身体を打ち付けると本が散乱したが、一瞬霞んだ視界も背中に走った鈍痛が戻してくれた。
顔を振って気怠さを振り払い、キッとミケランジェリを睨んだものの。彼の周囲を吹き荒れる強風が、アデランテを驚愕させた。
当人も反撃をまともに浴びせ、満足のゆく反応が見れたからだろう。ローブを着直し、ほくそ笑みながら歩き出したのも数歩だけ。
ふいに足を止めると改めてアデランテを注視し、上から下に。舐めるように視線をずらしていけば、やがて彼の目はアデランテの胸で留まった。
「…どうした。女の身体がそんなに珍しいか?」
「……ごほんっ…どうだい?導師直伝の風魔法のお味は?どこから入ったか知らねえが、賊ごときが研究所に忍び込んで生きて帰れると思うなよっ」
「風魔法?」
「…なんだ、魔術を見るのは初めてか?それならお次は…〝空を黒く染めよ。全てをその身で祓え。我が名をもって命じる。爆ぜる薪の主よ”」
再び詠唱が始まり、片手をアデランテに向けてかざす。すると掌で火花が散り、小さな火が灯った直後に火柱が放たれた。
すぐさまアデランテが飛び退けば、背後の棚は轟々と燃え。笑みを浮かべたミケランジェリは、後を追うように腕を動かす。
掌から伸びる火柱は床を、壁を。触れるもの全てを焼き、蛇のように這う炎は室内を業火と煙で満たしていく。
それでも果敢に。素早く動き回るアデランテは、隙を見てミケランジェリに接近した。
目にも止まらぬ速さで剣を振るうが、その度に纏った風が一撃を悉く弾いてしまう。
気付けば逃げ場も限られ、咄嗟に階段を駆け昇ったが、背後から迫る炎の壁に止むを得ず飛び降りた。
再び地上に戻ったものの、熱気と疲労はアデランテの体力を徐々に蝕み、顎を拭って黒煙の中を凝視すれば、ミケランジェリが悠然と歩み寄ってくる。
纏った風で炎や熱気を意にも介していないのか。余裕を浮かべる彼は、妖しく照りつけるアデランテの肢体を目に焼き付けていた。
舌なめずりをする様相に、もはや“先生”の面影は残されていない。
しかしミケランジェリが突如手を閉じると、掌から出ていた炎が消えた。
それでも辺りは轟々と燃え盛ったままだったが、その成果を誇らしげに見回した彼は何度も頷き、身を屈めたアデランテを見据える。
「おいおいおいおいおい、最初の威勢はどうしたんだ?防戦一方じゃーないか。逃げ場もなくなって、もう後はねえなぁ。まぁもっとも?全てを焼き尽くす業火を前に恐れ慄いてるようじゃ、それも仕方がないか。初めて味わう魔術の、それも導師直伝の超強力魔法のお味はどうよ!」
「…別に初めてじゃないさ」
「……なんだと?」
アデランテが立ち上がり、一糸纏わぬ姿にも構わず身体を伸ばす。
瞬時にミケランジェリの視線は首から下に向けられたが、彼女の言動が再び注意を引く。
「戦場で見たことがある。魔闘士って呼ばれてたかな。近接戦闘を仕掛けてくる魔術師連中で、何度も手を焼かされたよ…」
「…まとうし?」
「思い出してみるとアイツらはお前みたいにブツブツ呪文を唱えてなかったな。何か違いがあるのか?」
それまで胸を張っていたミケランジェリの表情が徐々に歪む。
まるで出来の悪い生徒が質問に答えられないようだったが、構わずアデランテは続ける。
「それに手から出してる火。見た目は派手だが威力自体は大した事ない。避けられる空間が限られてるし、熱いから苦慮させられてるだけだ…まったく、ようやく部屋にも馴染んできた所だったのに、全部燃やしやがって…あぁ、それでもお前の周りでグルグル渦巻いてる風は厄介だぞ?だから攻めあぐねてるのも事実で……身体が震えてるけど大丈夫か?」
「……せぇ」
「ん?今何か言って…」
「うるせぇってんだよ!〝空を黒く染めよ!全てをその身で祓えっ!我が名をもって命じる。爆ぜる薪の主よ!!”」
再び向けられた掌から火柱が迸り、咄嗟にアデランテは倒れた机の後ろに飛びのいたが、そこにはもはや遊びは無い。
確実に相手を燃やすために向けられた殺意は表面を燻し、黒煙が勢いよく立ち込める。
後ろに隠れた標的ごと灰になるのも時間の問題だが、一向に消し炭にならない遮蔽物に苛立ちを覚えたのだろう。
足早に迫ればガッと机を掴んで押しのけ、刃を突き付けるように掌をかざしたのも束の間。アデランテの姿は何処にも見当たらなかった。
慌てて周囲を見回すが、辺りに広がるのは炎と煙だけで、逃げ場など何処にもありはしない。
「…ど、どこだ!どこに行きやがった!隠れてねぇで…顔を……ぐほっぐほっ、どごに゛い゛…る…げぼっ」
急速な渇きを覚えつつ、叫びながら女を呼び出すが返事はない。見渡しても涙と煙で何も見えず、やがて小さな咳が身体を折り曲げるほど大きくなった時。
夢中で喉をかきむしれば、かつてない息苦しさと眩暈に。全身の不調に見舞われると足はよろめき、もはや周囲を見回す余裕すら失う。
「どぐぉ゛に゛、い゛る゛っっ!!」
「――…ココだよ」
炎が揺らめく音。
木々が爆ぜる悲鳴。
そしてそれ以外に聞こえた声に見上げれば、濃煙を突っ切ったアデランテの姿が、不思議とはっきり視界に映った。
色違いの瞳には猛禽類の鋭さが宿り、瞬時に襲った恐怖が反射的に腕を上げさせる。口早に詠唱を始めるが、掌から火花が出る事はない。
代わりに肘から先が不自然に折れ曲がり、アデランテの膝が肩を抉れば、床に押し倒すと同時に骨の砕ける音が響いた。
「…でん゛め゛っ、どうや゛っで」
見下ろすアデランテに叫びつけるも、すでに彼女から獰猛さは消え失せていた。
代わりに困惑の色を瞳に宿し、ソッと武器を納める。
「言ったろ。風のマントが厄介だって。ただ何回か特攻を仕掛けてる内に渦巻いてるのが身体の周りだけで、頭の上まで守ってるわけじゃなさそうだったからな。奇襲する前に煙を吸って大人しくなってもらったんだ。魔法を使うには集中力が大事なんだろ?」
「……ぞら゛。う゛え、がら゛…」
「あぁ、そっちの話か…そうだな。人が小さくなれて、それも空まで飛べたら不可能な事じゃないさ。それよりも腕…それに肩も……痛くないのか?手も机をどかした時にヤケドしたろ。かなり酷いことになってるぞ」
馬乗りになりながら素早く目を走らせれば、まず折れた腕が視界に映る。肩の陥没も手加減しなかったとは言え、当分は満足に使えないだろう。
しかし両腕を封じられ、痛々しい姿を晒すミケランジェリは苦痛を訴える様子は無い。血を吐きながら威勢よく叫び続け、喉の痛みすら感じていないのか。
おかげで潤滑油となった血液が、ミケランジェリを多少は潤したらしい。
「ごはっ!ごぼっ…へっ、何者か知らねぇがこんな所で吐かせようって腹なら残念だったな。拷問したってなんも言わねぇし、効かねぇよぅ。むしろ裸の女にタダで乗られるなんざ、名誉なこった!」
「…痛みを感じないのはバルカンの巻も…【アルカナの巻物】とやらに関係してる話か?」
胸倉を掴まれ、険しい口調で問いかけられても、ミケランジェリは相も変わらず薄ら笑いを浮かべていた。
状況はアデランテに有利でも、炎が2人を囲んでいる事実は変わらない。しかし彼女は焦る素振りも見せず、至って冷静にミケランジェリを見下ろしていた。
「――…あぁ、そういえば」
ふいにアデランテが思い出したように話を切り出す。
まるで喫茶店で世間話をする異様な口ぶりに、ミケランジェリの笑みが歪む。
「最期の会話になるだろうから最初の質問に答えてやる。私の正体だけど、たまたま背後から女を刺そうとする卑劣漢を見かけた…通りすがりの傭兵だ」
「…ま、待て。傭兵なら金で雇われるのが筋ってもんだろ。金ならいくらでも払うし、むしろ雇われないか?生活に不自由はさせねぇし、何なら力だって手に入る!」
「痛みは感じなくとも恐怖を感じるなら、アルカナの秘密も大した事はなさそうだな。それにお前のいう力。さっきも言ったけど、大した脅威じゃない」
「い、いぃぃ今殺せば、アルカナについて何も分からなくなるぜ!?あのガキも、女も、どこに行ったのかも!」
「その点は心配しなくていい――」
静かに見下ろしていたアデランテの様子が一変。瞳が怪しく光ったかと思えば、口から黒い霧が溢れ出す。
ミケランジェリが目を見開く内にモヤは肌へ張り付き、触れた先から徐々に自分の中の何かが削られていく感覚が襲うが、何が起きているのかは理解できない。
痛みもまるで無く。だが自然と受け入れた摂理に、もはや言葉すら出せなかった。
獲物は最初から自分。
捕食者は最後まで彼女だった事に――。