228.魔犬
木箱の山の上に佇む黒い犬が、周囲を取り巻く業火を恐れる様子はない。
むしろ炎から浮かんだ影の如く、2人の冒険者を見下ろす姿は、もはや獣と呼ぶには異様すぎた。
「…殺るか?」
弓を構えた仲間が小声で呟くが、一帯の熱気が“撤退”の二文字を浮かばせる。
いまだ魔術師も見えないうえ、すでに3人も仕留められている身。
あわよくば敵もろとも炎が全てを包む事を願いたいが、到底生きて脱出させてもらえるとも思えない。
何よりも冒険者として――“外道”としての経験が、犬はあくまで囮であること。
そして逃げ出した2人は追い立てられ、魔術師の前に引きずり出される構図が、ありありと想像できた。
そうなれば答えは1つ。
「……殺るぞ」
溜息混じりの決断とは言え、それからの行動は早かった。
直後に仲間が弓を放ち、犬が飛び退いた着地先にナイフを投擲する。
あえて作った逃げ道にまんまと相手は移動し、短い決戦にほくそ笑んだのも束の間。
真っすぐ鼻先に向かったナイフは、瞬時に躱した犬が素早く咥え、睨んでくると同時に柄を粉々に噛み砕いた。
おかげで“獣の認識”を一瞬で塗り替えられ、改めて撤退の選択肢が現実味を帯びた刹那。
犬であったものは身体を膨らませ、さらに黒い翼まで生やした。
瞳も赤く光りだし、改めて怪物の姿を捉えたところで、それ以上打ち合わせる内容もない。
咄嗟に踵を返せば炎の球が逃げ道を燃やし、再び前に向き直ると怪物の口内が燃え盛っている。
「逃がす気はないみてえだな」
「……少なくとも魔術師の刺客がいないことは分かった…分かったが…」
現実離れした状況に冷静さを取り戻すも、一方で疑念が否応なしに浮かぶ。
それなら怪物は何をもって彼らを襲撃したのか。
何故子供たちを助け、執拗に男たちを狙ってくるのか。
答えのない疑問に首を傾げたくとも、凶悪な唸り声が考える猶予を与えない。
その反動とでも言うように矢を。
投げナイフを次々放るが、飛び立った怪物には掠りもしない。
強靭な脚で“跳んで”いるのか。
それとも禍々しい翼で飛んでいるのか。
どちらとも区別はつかないが、見た事もない魔物と戦うのは愚策。
挙句に倉庫の寿命も刻一刻と迫り、しのぎを削る想いに浸る時間もなかった。
そして恐らくそれが“合図”になったのだろう。
「――…わりぃな」
感情の籠もらない声を上げた途端、果敢に魔物を狙う仲間を背後に引っ張った。
戸惑う彼を一瞥もせず、最後に蹴りの1発を叩き込めば、退路を燃やす炎が一瞬遮られる。
当然仲間に引火したものの、1人分の逃げ道が出来ればそれでいい。
悲鳴を聞き届けることなく踏み台にすれば、瞬く間にその場をあとにした。
勢いのまま出口を目指すも、断末魔が聞こえる以外に、仲間の存在を意識する事はない。
むしろ頭上から翼が羽ばたく音が反響している気がして、振り返らないのが精一杯。
だからこそ燃えながらも、恐ろしい形相で弓を絞った仲間が、矢を放った事にも気付けなかった。
「がぁぁあっっ!?」
振り上げた足に鋭い痛みが走り、転がりながらも態勢をすぐに立て直す。
恨み言を吐く余裕もなく、“はみ出た”矢をへし折って片足跳びに出口へ。
とにかく外を目指して跳ね続けるが、最後の希望は瞬く間に広がった炎の壁が焼き尽くしてしまう。
仮に足が無事であっても、決して間に合わなかったに違いない。
絶望に染まりゆく心境に速度もゆっくり落ち、まだ無事な木箱に寄り掛かって、重い溜息を零した。
「…何なんだよ。お前は……」
力なく視線を移せば、炎を吐き出した黒い犬を睨みつける。
物語に聞く地獄の番犬を彷彿させる姿に、“向こう”から出向いてきた事実を鼻で笑った直後だった。
「元の場所に帰りやがれっっ!!」
身体をよじって小型のクロスボウを放てば、見事に怪物の眉間に命中する。
高速で射出されたボルトを。
それも不意打ちで放たれては、如何なる生物であろうと躱す事はできない。
これまで生き残ってこれた奥の手に胸を張るも、魔物が倒れることはなかった。
それどころか刺さった矢がズブズブ摂り込まれていき、やがてネジが巻かれたように犬が頭を上げた時。
開かれた口から打ち込んだボルトが射出され、無事だった片足を貫いた。
絶叫を上げながら地面に倒れ込むも、ふいに迫ってきた重々しい足音が、男に一瞬だけ痛みを忘れさせた。
獰猛な鼻息まで耳にした気がして、恐る恐る顔を上げようとした刹那。
ズシンッッ――と。
側頭部を容赦なく踏みつけられ、怪物を見る事すらままならない。
《――…一撃入れた事は評価する。だが無意味だ》
そして耳元で囁かれた、腹底を震わすような声音にビクリと身体が震える。
咄嗟に魔物が喋ったのかとも思ったが、そんな事がありえるはずがない。
考えつく答えを目まぐるしく探せば、1度は取り払った“飼い主”の存在が浮かんだ。
「お、おい!少し待ってくれ!!あんたの雇用主が誰かは知らないが、俺を雇わないか?これでもそこらの冒険者よか、よっぽど役に立つと思うぜ!?」
納得できる説明に安堵したのも束の間。両足の痛みが途端にぶり返し、命乞いと相まって早口に捲くし立てるほかない。
それでも獣の脚が退けられる事はなく、凶悪な声が囁き続ける。
《小娘を運ぶはずだった一団の素性を答えろ》
「…はぁ?小娘って…あのガキのことか?……まさか、お前っ。あのガキの…っ」
《答えろ》
頭蓋骨を踏み潰す勢いに、男が悲鳴を上げながらもがき出す。
嗚咽に混じって“心当たり”がいくつも零され、言葉を紡ぐ度に圧力も和らいでいく。
「はぁはぁはぁ…おい!辺りの火が見えねえのか!?こんな事してる暇はあががぁぁ~~っっ!!」
《貴様が使役していた小僧どもの出所は?》
悲鳴と余計な会話が上がれば頭を踏みつけ、やがて鳥のように囀った男が、ありとあらゆる情報を。
そして全ての悪事を吐き出し切るや、最期は倉庫を包む炎の中に消えていった。
一方でウーフニールは悠然と翼を広げ、崩れた天井から外に飛び出す。
そのまま屋根に留まれば、一帯に集まる野次馬はもちろん。火消しに奔走する人々の姿を、冷ややかに見下ろしていた。
《……仕留めるべき衛兵は5名。冒険者パーティが3つ…まずは孤児院の件を片付けるべきか…》
袖の下を受け取っていた衛兵たち。
ロゼッタの運び屋を請け負う可能性があった冒険者たち。
そして青年たちを売り飛ばしていた、ギルド提携の孤児院。
いずれもこの世から唾棄すべき悪であり、アデランテの“正義”にも抵触はしない。
捕食できない事を残念に思いつつ、後顧の憂いを断つべく翼を勢いよく広げた。
今頃はタカがロゼッタの護衛を務め、アデランテも森で新米たちを訓練中。
単独で行動できる時間は十分にあり、僅かな助走を付ければ空へと飛び立っていった。
黒煙に紛れた彼の姿を見る者はいなかったが、仮に捉えていたところで、誰も目撃者の証言を信じはしなかったろう。