215.ここで会ったが3日目
不意打ちも相まって、横殴りの体当たりを躱す手立ては無い。受け身も取れずに転がれば、最後は乱暴に地面へ押し付けられる。
「痛ててて…っ。一体なんなんだ?」
鈍い痛みに顔をしかめ、周囲を確かめようとした時だった。
ふいに重い衝撃が腹部に走り、身体を折り曲げた直後に胸倉を掴まれる。
フードも乱暴に脱がされ、やがて眼前に迫った人物は見間違いようがない。
「…や、やぁ。随分と早かっぐぁッ!!?」
呑気に話しかけたアデランテに反し、鋭い一撃が頬を穿った。
すぐに向き直るがもう1発。そして2発と往復で殴られ、再び胸倉を締め上げた相手は、長い睫毛を向けてくる。
決してアデランテが逃げないよう身体の上に跨り、恐らく街中を走ったのだろう。路地裏の日陰の中でさえ、彼女の褐色肌は汗で艶やかに映える。
それでいて嗅ぎ慣れた甘い香りは損なう事なく、荒い息遣いが獣のように顔へ吐きかけられた。
「……オル…ぐぅッ!?」
また1発。今度の一撃は最初のものより威力は和らいだが、再び口を開こうとした瞬間に拳をさらに見舞われた。
文字通り有無を言わせない状況の中、彼女の息遣いだけが路地に木霊する。
同時に相手が落ち着くまでは下手に話さない方が良いと。
遅ればせながらやっと学べば、静かに彼女を見守ったが、肩と共に豊かな胸は零れそうな勢いで上下している。
緑がかった白髪のショートヘアも乱れ、絶え間なく流れる汗はいまだ止まない。
彼女の火照りが寸分違わず伝わってくるも、喉を鳴らしたオルドレッドがようやく顔を上げた。
「…一体…どういう……つもり?」
まだ呼吸は荒いが、絞るように告げられた声音からでも、十分彼女の心境は見て取れる。
だからこそ慎重な言葉選びが求められるも、心理戦はアデランテの得意分野ではない。
いつものように笑みを浮かべれば、ひとまず再会できた事を素直に喜んだ。
「さっき言いかけたんだが、随分と早く着いたんだな。大学に向かう時はもっと時間が掛かってなかったか?」
「……馬と御者の尻を叩いて走らせたのよ」
ぶっきらぼうに返答するや、途端にオルドレッドの顔が近付いてくる。
唇が触れそうな距離であったが、寸でのところで避けた彼女は、そのまま肩に頭を預けてきた。
押し当てられた胸からは激しい鼓動の音が伝わり、表面上は取り繕えても、まだ回復はしていないらしい。
咄嗟にオルドレッドの背中に腕を回せば、彼女もまたキュッと抱き着いてくる。
「…負傷してる女を置き去りにしたのは百歩譲って構わないわ。でもパートナーに事情も話さずに走り去っていくなんて、一体どういう了見なのよっ」
「……すまなかった」
「大体“あとで合流する”って、そもそもどれだけ大きな街だか分かってるの!?ギルドにだって3回は顔を出す羽目になったわ!」
「本当にすまない」
「だいがっ…大学の依頼が終わった途端に……パートナー契約を切ったのかと…心配したじゃない…っっ」
「切られる事はあっても、私から切る事は……う~ん…」
「…そこ、ちゃんと言い切りなさいよね…ぐすん」
顔を埋める彼女の涙声が、首筋をひしひしと震わす。アデランテを抱き締める腕にますます力が入り、それでいて服を握る力は弱々しい。
そんなオルドレッドをあやすように頭を撫でるが、行為そのものは慣れたもの。
ロゼッタとは違う髪質を指先で味わいつつ、チラッと足の包帯を一瞥した。
(…ずっと監視してたんだよな。彼女の調子はどうだった?無理してそうだったか?)
【疾走時に不都合が生じた形跡は見られない。恐らく治癒も殆ど済んでいる】
(そいつは何よりだ…それとありがとな)
視線を頭上に移せば、1羽のカラスがジッと2人を見下ろしていた。
無機質な瞳からは感情など読み取れず、傍目から見れば不気味な光景だったろう。
「――…私が…最後に交わした言葉なの…」
もう少し沈黙が続けば、ウーフニールに手を振っていたかもしれない。しかし彼は合図されたように飛び立ち、再びオルドレッドの声と温もりが路地に染み渡った。
「…休憩してるダニエルたちと分かれた時、“すぐ合流するから”って…最後にそう伝えて…それから戻ってきたら……皆が…ダニエルが…っ」
嗚咽混じりに零す彼女の背中を擦るが、肩口はますます濡らされるばかり。
だがダニエルと交わした“最期の言葉”を不用意に発し、挙句に馬車へ置き去りにしたのは、紛れもなくアデランテ自身。
当然と言えば当然の結果に、下手な声掛けも憚られる。
今はただオルドレッドが落ち着くまで、傍に居続けるほかなかった。
「……大学の依頼。いまさらだけど本当に受けて良かったの?」
「どうしたんだ急に」
「…時々ソワソワしたり、かと思えば急に積極的になったりするから、早く大学から出たいのかも…って感じていたのだけれど、違わないわよね?なんせパートナーを放って街に戻って……大体行き先が分からないよう何度も乗り継いだはずよ!?どうやって帰ってこれたのよ!」
「………帰巣本能…かな?」
ぎこちなく答えればグッと彼女は起き上がり、訝し気な眼差しで睨んできた。
潤んだ瞳は罪悪感こそ煽るが、畏怖は微塵も感じない。すかさず涙を軽く拭ってやるも、オルドレッドの表情は一層険しくなる。
「…別にあなたの故郷ってわけじゃないでしょ?何よ帰巣本能って。ハトじゃあるまいし」
「それは~…だな。その……あ、【太陽の位置】だよ!うん!影が差してる方角から、街の場所をおおよそ覚えていたと言うか…」
「……外が見えない馬車に大抵は乗っていたはずだけれど」
「ば…馬車の移動する向きでも、体感で記憶してたと言うか……理屈で説明するのは難しいな」
頭を掻きながら“如何に誤魔化すか”を模索するが、ふいに頬をソッと包まれた。
「…契約を切ったわけじゃないのよね」
「………互いが幸せになるまで、が契約期間だろ?」
(……そういう話だったよな?)
【知らん】
ぶっきらぼうな返事についほくそ笑み、おかげでオルドレッドの反感を買う。
ただ一方で彼女も慣れたのか。呆れたように肩を落とせば、アデランテの肩に手を乗せる。
まるで恋人に語らうような姿勢に、しかし当人はもちろん。互いに気付く事はない。
「それで?私を放ってまで急ぐ用事って何だったのかしら?」
「…その前に相談したい事があってな。実は厄介な仕事が入って……そのためにはオルドレッドの力が必要なんだ。協力してもらえないだろうか」
「……自力で探させておいて、ずいぶん虫が良すぎるんじゃなくて?パートナーと小間使いを混同しないでもらいたいわね」
「ダメなら私1人でやるしかないかな」
「やらないなんて誰も言ってないでしょ?何でもかんでも1人で勝手に決めないでっ」
両頬をつままれ、目と鼻の先で睨まれたのも束の間。すぐさま解放されるや、今度は優しく撫でられた。
一体どういう心境の変化なのか。まるで慌てたような手つきに、疑問すら覚えた時だった。
オルドレッドのバツが悪そうな表情に手をかざすや、ふいに表通りから差し込んだ光が遮られる。
両者共に変化に気付き、咄嗟に振り返った先に立っていたのは、1人の少女と黒い犬。
まるで世紀末の到来を予期させる不釣り合いな組み合わせであったが、オルドレッドが喉を鳴らした理由はそれだけではない。
昼下がりに身体を重ねる男女の絵面に、ようやく彼女も自覚したのだろう。
挙句にアデランテは頬に打撲痕が残り、追剥だと言われても否定しようがない。
だからこそ冷静を装ってオルドレッドが立ち上がれば、すかさず手が差し伸べられる。
彼女の好意に甘んじて起き上がるも、同時に褐色の足元に佇むロゼッタの姿を捉えた瞬間。
「痛っっ~…!?」
声を押し殺したオルドレッドが、片足を抱えながら後退した。
どうやらロゼッタに脛を蹴られたらしく、2人の間へ割って入るように、小さな身体が両腕をバッと広げる。
「アディをいじめちゃダメ!!」
「~~…っっ。このっ、初対面で蹴り上げるなんて、一体どういう教育を受けて…ちょっと待って。もしかしてあなたの知り合い?」
「…その、ロゼッタ。女の子が暴力を振るうのはどうかと思うぞ?…私が言っても説得力はないだろうが」
「ウフニルが悪者にヨウシャしちゃダメって!」
くるっと振り返ったロゼッタが胸を張って告げるも、ハッとした彼女はすぐさまオルドレッドに向き直った。
恐らく“敵に背中を見せるな”とでも教わったのだろう。ウーフニールをジッと見下ろすが、相変わらず彼は現状に興味が無いのか。
頬と耳の垂れを象徴するように、気怠そうな鼻息を漏らした。
「……アデライトっ」
彼の頭を撫でようと手を伸ばすも、ふいにオルドレッドの声が木霊した。
不意打ちで跳び上がったとはいえ、彼女の負傷もウーフニールの言う通り、だいぶ完治しているのだろう。
いくらか安堵は覚えたものの、彼女の静かな呼びかけが無性に不安を駆り立てた。
まるで嵐の前の静けさのような佇まいも相まって、ロゼッタの小さな背中が、少しだけ頼もしく見える。
「…あなた、“子供はいない”って言ってたわよね……じゃあその子の事はどう説明するつもり!?どこの女に産ませたのよ!」
「……はぁっ!?急になんの話を…」
「用事ってその子の事なんでしょ?ロゼッタって言ったかしら…容姿端麗なところなんて、あなたにソックリじゃない!!隠し子がいたなら、最初から言いなさいよ!」
再び迫ってきた彼女に凄まれ、目と鼻の先にオルドレッドの瞳が近付く。
しかしアデランテと言えど、世迷い事に黙っていられる神経は持ち合わせていない。
圧し掛かられた胸を身体で押し返せば、毅然とした表情で応戦した。
「半分はあってるが、私が産んだわけじゃないぞ!?」
「言い訳なんか聞きたくないわっ。どうせ私みたいなチョロい女を引っ掛けて……でもあなたはそんなクズじゃないわね…じゃあ……本命?」
「だから違うって言ってるだろ!私とロゼッタに血の繋がりは無いんだ!大切なのは本当だし、彼女の事で仕事中そわそわしてたのは認めるがッ!」
「なら恋人!?確かに胸とかに興味が無いのは知っていたけれど、いくら何でも限度が…というより犯罪じゃないのよ!!」
「……ウフニル~。ようしたんれー、ってなに?」
2人が言い合う間に、議題の張本人は興味が逸れたのか。渦中を離れるとウーフニールに歩み寄り、思った事をそのまま口にする。
彼女の問いかけで気怠そうに見つめ返し、チラッとアデランテたちに視線を移すが、オルドレッドの注意は引いていない。
渋々答えると途端にロゼッタは黄色い声を上げ、照れ隠しにウーフニールの身体に顔を埋めた。
片や不毛な論争を繰り広げ、片や犬に張り付いて悶えている。
傍から見れば世にも奇妙な光景だったろうが、幸い路地を覗く変わり者はいなかった。