210.嵐のあとの静けさ
「…やっと寝てくれたか」
静寂の中でポツリと零しながら、散らばった紙の束を揃えていく。走り回ったロゼッタの風圧で部屋中に舞い、彼女の体力に驚かされたのは言うまでもないだろう。
もっとも暴れていた要因の1つは、眠気を吹き飛ばそうとしていたこと。
ウーフニールが面倒を見ていただけの事もあり、就寝時間を日頃厳守していた彼女も、アデランテの到着を聞いてからずっと起きていたらしい。
「……万が一私の帰還が間に合わなかった時に備えて、ロゼッタに説明してあったのは分かったけどさ。だからって“今日戻ってくるかも”――なんて伝える必要はなかったんじゃないか?朝にはパクサーナの身体が消えても、到着してればセーフだったんだし」
【万が一があるからこそ伝えていた】
「…それもそうか。でもそれはそれで私に教えてくれよ。書庫にいる時にグッと堪えて、変に期待させないよう努力してたってのに。何ならこの落書きの内容も、殆ど聞かされてなかったんだぞ!?」
ロゼッタの落書きを窓辺に突き付けるが、そこにパクサーナ体はいない。やり場のない主張を無念そうに降ろせば、もう1度ページをめくっていく。
大半は文字の練習で埋められているが、絵の内容は殆ど街に繰り出したものばかり。
それもパクサーナと弓を持った女で構成され、疑問こそ覚えても、第三者に関する情報をウーフニールから引き出せなかった。
ロゼッタからも「おねーさん!」としか聞かされていない。
「…結局“サイン”も出来ずじまい…か」
最後の1枚をピラッとめくり、儚い笑みを浮かべれば机の上に戻した。
いずれにしても、いつかは肉体をウーフニールに返す身。名前など今を生きるための仮初のものでしかない。
それは消えてしまったパクサーナの記憶にも同じ事が言えるだろう。
「…残ったのは私が“読み貯めた”分だけか。地下での訓練後に目を通してたけど、何割くらいウーフニールの部屋に収められたんだ?」
【全書】
「そうかそうか。なんせ4階分もあったもんな。私1人じゃ、せいぜい1つの階を半分回れたかどうかっ……いま、なんて言った?」
【赤毛の女に関する記憶は全書収納した】
無機質な声が再び返事をすれば、今度はより具体的な回答が返ってくる。聞き違いと呼ぶにはあまりにもハッキリ耳に届き、そんなアデランテの反応に呼応してか。
途端に視界が遠のくと、次の瞬間には臓書のソファに腰かけていた。
相も変わらず悠然と書物が収められている空間に、しかしアデランテが追うのは、高層から飛び出した黒塊だけ。
心の内を照らす、おどろおどろしい黒い太陽が猛然と迫れば、直前で無数の瞳が開かれる。
世にも恐ろしい光景だと言うのに、アデランテはおろか。毎晩訪問していたロゼッタでさえ慣れた姿は、関係の飛躍的な進歩と言えなくもないだろう。
何よりも虚空に語り掛けるくらいなら、無数の瞳と対峙する方が心地よかった。
「パクサーナの記憶が全部残ってるってッ…もしかしてウーフニールが代わりに読んで…?」
【読了したのは貴様だ】
「…ぜんぜん覚えてないんだけど、まさか記憶力まで落ちたわけじゃないよな?」
【そちらに関しては出会った頃より微塵も変わっていない。貴様の就寝中に刷り込む事で、全ての記憶を読み終えたまで】
「……なんか変な夢を見るな~、とは思ってたけどさ。もしかしてアレだったのか?」
【日ごとの吸収可能な容量制限に加え、仮想空間にて貴様が活動していたがゆえに時間は掛かったがな】
淡々と零す彼の声に唖然とし、自身の間抜け面もまた巨大な瞳に映される。おかげで乗り出していた身体を引っ込めれば、ソファにどっかり腰を落ち着けた。
「…それってさ。いつから出来たんだ?」
【物の試し】
「…ッッでも成功してたのは知ってたんだろ?お前の部屋に本が増えるんだから…もっと前に教えてくれても良かったじゃないか!」
【自主的に臓書を読み耽る口実を阻む理由はない】
バッサリ切り捨てるウーフニールに、苦虫を嚙み潰す思いをさせられたが、それ以上彼を責める事はできない。
直近ではもっぱらロゼッタの相手をするか、地下に籠もっての修行。臓書を出れば大学とオルドレッドで手一杯になり、彼なりに気を遣っていたのかもしれない。
もっとも夢の中の出来事のおかげで、内容は全く覚えていない。
自分で目を通した分さえ記憶に無く、それでも必ず屋敷から連れ出すと――“共に旅をする”と約束したアデランテの決意を、ウーフニールもまた応えてくれた。
それだけで頭が上がらず、大学の騒動が消し飛びそうなほど、身も心も安らいでいく。
だがそれを容易に許されないのは、やはり彼の存在がひとえにあるからだろう。
「……あの女さ。やっぱりカミサマとなんか繋がりがあると思うか?」
和やかな表情も一変。途端に神妙な顔つきを浮かべれば、ソファでグルっと横になった。天窓から注ぐ暖かな明かりが心地よいが、とても眠れる気分でもない。
【貴様の見解は】
向けられた瞳は1つ。残りは熱心に他の書物に目を通し、もう1つの“太陽”がアデランテに注がれる。
「ざっくりで良いなら、魔晶石の形を変える術。前に悪趣味な催しをしてた町で、ガラス細工が盛んだったろ?作り方は違っても…なんと言うか…」
【類似性】
「それだッ。何となく似た系統が感じられたし、予言の話は絶対に巨大な木があった町の地下研究所のことだと思うんだ」
【研究員の雇用に魔術師を宛がっていた】
「それもあったうえで、屋敷の空間移動が大学でも使われていたわけだ。もう怪しいなんてもんじゃないよな」
頭をぐりぐり腕枕に押し付け、やがて落ち着いたところで深い溜息を零した。
アルカナの巻物。
白銀のセラフ。
カニッツァの扉。
“神器”に関わりを持つ大学の存在に、だからこそ当初から大学長を警戒していた。
むしろ相手がオーベロンであったとしても驚かないつもりが、第一印象は“ハズレ”。
レミオロメの陰湿さは、アデランテの“神”の足元にも及ばない気がした。
「……とにかく新しい大学長との関係は継続した方がいいだろうな。それで連絡先はオルドレッドになるわけだから…」
【ますます目を離せなくなった】
「そういう事だな。一応今も見てくれてるんだろ?」
【移動時にわざわざ分身を出したのだ。当然監視している】
「ありがとな――…ところでオルドレッドで思い出したんだけどさ」
ソファから身体を起こし、ジッとウーフニールを見つめて程なく。瞬時に臓書の景色が消え、眼前にロゼッタの姿が映った。
再び宿に戻されたところで、物寂しさすら覚えたが、気を取り直せば少女の髪をかき分けた。
その青と金の瞳の先は、オルドレッドほどではないにしろ、長く尖った耳に向けられる。
「エルフ耳…だよな。どう見ても…」
【話題にすら上げないために、気付いていないものと判断していた】
「毎日触れ合ってるのに、気付かない方がおかしいだろ?ただ触ると嫌がられるし、それもあってオルドレッドの耳も彼女と同じモノなのか確かめたかったんだよな。感触とかさ」
【…知ったうえでこれからどうする】
「さぁな。ただ“ダーク”エルフじゃないし、1度オルドレッドに相談してみるかな…ってロゼッタの事も、屋敷の件で口外禁止だったか。どうしたもんか…」
頬を掻きながら顔を上げれば、ようやく現実に意識を引き戻される。
思えば大学に出向いたのは、何もオルドレッドとの約束を果たすためだけではない。ギルドを実質出禁にされ、暇を持て余したうえでの快諾だったのだ。
大学の件を報告するついでに、禁止令が解除されたか確認するのも良いだろう。
その気になれば今からでも行けるが、その際にギルドで拘束される可能性も否めない。アデランテが朝いなければ、ロゼッタがどのような反応をするか不安もある。
かと言って連れていく気にもなれず、何よりも彼女自身が裾を掴んでいるせいで、どこにも行く事が出来なかった。
【今後の予定は】
悪夢にうなされるように…むしろ手持ち無沙汰に悩んでいると、ふいに浮上した話し相手の存在に表情が明るくなる。
おかげでこの場から動けずとも、無限の可能性が次々よぎっていく。
「…そうだな。朝一でギルドに向かう事は決まってるけど、オルドレッドと再会するまでは依頼の受注は保留するぞ。万が一遠征になんてなったら、拳の1発や2発じゃ済まないだろうからな」
【待機期間の予定は】
「う~ん……ロゼッタとデートかな。せっかく話して、動き回れるようにもなったんだ。彼女に街の案内をしてもらうのも面白いだろ?」
【確定事項は無いものと判断した上で報告する事がある】
ロゼッタの傍に座り、金糸を指で梳いていた矢先。浮かべていた笑みを思わず引っ込めれば、訝しむようにウーフニールの話を伺った。