020.魔女と黒猫
樹木の家で起床したコニーたちの日課は、室内の清掃から始まる。
アナスターシャが本を片手に2人を監視する間に机、椅子、階段。
それから壁一面を埋める本棚を順に拭き、掃除を終えた報告を聞けば、埃1つ無いか適宜確認していく。
「まだ汚い。やり直し」
朝からピシャリとアナスターシャの声がムチ打たれ、反射的にコニーがキッと睨む。
無言の応酬はしばし続くも、ようやく肩を落とせばリゼと共に机拭きへ戻る。
掃除から解放されると、次は井戸からバケツで水汲み。
町から差し出された食材で朝食の準備。
家事が終われば、机に並べた素材の匂いを嗅いでは効能や名前。
そして自生場所を当てなければならない。
分からなければ本で調べ、正解すれば次のお題へ移る。
ようやく1日の課題を終えた2人は、最後に素材調達で森に向かう。
「魔法を使うという事は、すなわち知識の具現化。誤った知識には危険が伴い、自分だけでなく周りへも害を及ぼします。ゆえに正しい知識。そしてそれらを用いるための揺るぎない精神が必要です」
耳にタコができるほど繰り返される言葉に、コニーは辟易した様子を隠さない。
だがリゼに引きずられつつ、最後には必ず言いつけを守って足を動かす。
採取用の篭を取って家を出るが、ふいに窓枠で寝そべるウーフニールを見つける。
「じゃあねニャンコちゃん!何か美味しいもの獲ってきてあげるから、良い子で待ってるんだよう」
「…先生に見つからないようにね」
コニーに頭を撫でられ、リゼにも遠慮がちに背中を触られる。
ボサボサになった毛を前足で梳かす間、2人が森へ去る姿を気怠そうに見届けておく。
それが新たに加わった、子供たちの細やかな日課の1つでもあった。
一方のアデランテ一行は町を離れ、魔術師の卵たちを見張り続けること数日。
アルカナの巻物は手掛かり1つ見つからず、住人たちの日常生活も把握しつつある。
弟子のコニーとリゼは師アナスターシャの身の回りを整え、素材の勉強と調達。
時間を見ては住処の反対に住む、師ミケランジェリの弟子ザクセンとカルアの元へ遊びに行く。
実戦には程遠い魔法を見せびらかし、煽られたコニーが掲げる拳をリゼが押さえる。
応戦の構えを見せるザクセンには、カルアが阻むように立つ。
そうして繰り返される子供たちの戯れに、師ミケランジェリは優しい笑みを浮かべて見守った。
弟子のザクセンが照れ隠しに足を蹴っても、表情を変えずに眼鏡をかけ直すだけ。
対して師アナスターシャは、誰に対しても厳格な態度で接していた。
聡明さは窺えど常に一定の距離を置き、優しい言葉を掛ける姿は1度も見ていない。
弟子の不人気から【喰っていい外道か】問うウーフニールに、アデランテも答えを渋る。
いずれにしてもコニーたちを見届ければ、アデランテの探索は始まる。
しばらく窓枠に座っていた黒猫も獣らしく体を伸ばし、スッと姿勢を正す。
気持ちよさそうな木漏れ日に目を細め、やがて丸まるとそのまま眠りにつく。
〈うぉい!?何してるんだ?早く調査に行くぞ〉
【一帯にいる人間は幼体4人魔術師2人。記憶を喰らえなければ、全ての家は施錠され侵入不可。八方塞がりだ】
〈窓か扉を壊して入ればいーじゃんか〉
【無用な注意は惹くなと何度言えば解る】
〈だからって諦めるなよ!この町に来るまで相当苦労して来たってのに…ところであの子たちが受けてる授業さ。私も聞いてれば魔法の1つや2つ使えるようになると思うか?〉
【魔術師を喰らえば可能だ】
〈あまり受け入れたくない提案だけど、仮に摂り込んでも期間限定で、しかもお前がアイツらに変身して使うってだけだろ?自分で使えなきゃ意味がない〉
【そういうものか?】
〈そーゆーもんだ〉
呆れながら鼻を鳴らし、仕方なしと立ち上がった黒猫が地面に飛び降りる。
別の家へ向かうべく歩き出すも、門前を通り過ぎた所でガチャリと扉が開く。
弟子2人は外出中。
必然的に現れたのは彼らの師であり、勢いよく飛び出した彼女に思わず毛が逆立つ。
「コニー!リゼ!素材のメモ用紙を忘れて…もういませんか、まったく。帰ったらまた説教を…あら?」
腰に手を当て、溜息を吐くアナスターシャの視界に黒猫が映る。
ウーフニールもまた彼女と目が合い、突然の遭遇に互いが硬直。
一瞬空気が張り詰めたものの、数歩の距離を容易く詰めてくると、黒猫の体が膨れ上がろうとした。
〈待て!……敵意はなさそうだ〉
内なる一言がなければ捕食こそしなくとも、その場から走り去っていたろう。
ピタッと動きを止めるが、毛は逆立ったまま姿勢を変える事はない。
相手の出方を待てば、アナスターシャがポケットをまさぐりながら傍にスッと屈み込む。
握った拳を引っ張り出し、ソッと黒猫に近付けた掌を広げれば、途端に空腹を掻き立てる甘い匂いが広がった。
「…クマノミ。食べます?」
見上げるとアナスターシャは穏やかな表情を浮かべ、首を傾げながら微笑んでいる。
警戒心を与えない様相に戸惑いつつ、鼻を近付けて恐る恐る木の実を食む。
すると口内に甘酸っぱい味が広がり、アデランテの欲望に従って次々口にしていった。
「あなたも好きなの?好みが合いそうで何よりですね」
空いた手が黒猫の頭を撫で、細い指が優しく顎を揉んでいく。
手つき。
表情。
言葉遣い。
まるで聖女のような物腰に、コニーが陰で鬼女と評する人物とは似ても似つかない。
数日の間に蓄えた情報と齟齬が生じるも、触れ合いに満足したのか。
スッと立ち上がった彼女は扉を開け、中へ戻ろうとした所でピタリと止まった。
ゆっくり振り返れば黒猫はまだその場に座り込み、アナスターシャの動向を静かに見守っている。
「…宜しければ入りますか?何のお構いもできないけれど」
冗談紛れにクスリと笑みを浮かべた言葉だったものの、告げるや否や腰を上げた黒猫は、吸い込まれるように中へ入っていく。
流石のアナスターシャも驚きを隠せず、目を見開いてその後ろ姿を追った。
優雅に上げた尻尾を揺らし、まるで我が家の如く振る舞う猫は小さな頭で振り返る。
早く入れと言わんばかりの様子に、すぐ微笑みを浮かべると扉を静かに閉じた。
思わぬ形で室内には侵入できたが、一方で視点が極めて低い。
独特の丸みを帯びた内装も相まって、巨人の家に踏み入れた錯覚に陥らされる。
だが一帯の配置は、窓の外から一通り“ウーフニール”が網羅済み。
壁一面は樹木を彫って作られた天然の棚が並び、隙間なく本が収まっている。
コニーたちの弟子部屋も、窪みに掛かるハンモックと物入れだけ。
精巧に彫られた螺旋階段は2階へ続き、すかさず昇ろうとすれば体を持ち上げられてしまう。
「そっちに行ってはいけませんよ?」
穏やかな口調で窘められ、そのまま小脇に抱えられる。
訝し気に見返すも、彼女の瞳に映るのは好奇心旺盛な黒猫に過ぎない。
微笑みながら頭を撫でられ、アナスターシャを向くように机へ置かれる。
隣には朝から目を通していた本が開かれたままで、嗅ぐように文字へ目を通そうとした時。
屈んだアナスターシャが腕に顔を乗せ、黒猫の額をゆっくりなぞっていく。
「あなたは悩みとは無縁そうでいいですね。可愛いは正義と言いますが、正義の理屈というのは何とも複雑怪奇なのでしょう…」
ぶつぶつと呟きながらも、耳元を撫でる指先は止まらない。
不快感を覚えるでもなく、アデランテの制止も合わさってされるがままの状態。
未練がましく2階や本棚を見つめていた矢先、突如扉が勢いよく開いた。
内側でアデランテが悲鳴を上げ、驚愕したアナスターシャも屈んだまま硬直する。
「先生!メモ忘れましたーっ…ニャンコちゃん!?」
ノックもせずに飛び込んだコニーが駆けつけるや、黒猫を素早く抱え込む。
離れた位置まで移動し、鋭い眼差しを師に向ける彼女の背後に遅れてリゼも到着。
コニーの非礼と忘れ物の謝罪とで息を切らすも、ただならぬ雰囲気に呆然とするほかない。
何故アナスターシャが机の隣に屈んでいるのか。
彼女の豆鉄砲を喰らったような顔も、弟子入りしてから初めて見る。
大体なぜ黒猫が家の中にいるのか。
嵌め込み式の窓が開くはずもなく、侵入経路は扉のみ。
そんな彼を置いてけぼりに、コニーが小さな体で黒猫を隠すと啖呵を切った。
「ニャンコちゃんを実験材料なんかにさせないんだからっ。こればっかりは譲れないもん!」
「ごめん、なにが起きて…」
「リゼは黙ってて!先生が冷徹でも何でも構わないし、言う事だって何っでも聞いてきたけど!この子だけはダメ!絶っ対!」
我が子を守るように黒猫を抱くコニーは息を荒げ、今にも外へ飛び出しそうな気迫を漂わせる。
あるいは師に襲い掛かってでも助ける姿勢だったのだろうが、足は震えて瞳には薄っすら涙が滲んでいる。
そんなコニーと困惑したリゼの双方を、師は悩まし気に視界へ納めていた。
一連の出来事に放心していたが、取り繕うように眉間を揉めばスッと立ち上がる。
次に顔を上げた時には険しい表情を浮かべ、豹変ぶりに空気はさらに凍り付く。
コニーの腕にも一層力が入り、黒猫の小さな悲鳴も彼女の耳には届かない。
互いに睨み合うや、ふとアナスターシャが溜息を吐くと途端に緊張も和らいだ。
「……仕方がありませんね。これも魔術師の教育の一環と言えない事もないでしょう。その代わり世話をしっかりするように。さもなければ素材としての使い道がその子を待ち受けていますからね」
「は、はい!ありがとうございっ」
「ただし、雑務をこれまでの2倍に引き上げますので、くれぐれも遅滞なきように…ではこの話はこれでお終いです。メモ用紙を忘れた罰として、材料を追加で採取してもらいますから、そこで少し待っていなさい」
眉間の皴も和らぎ、机へ向かった師はメモ用紙の空白にすかさず文字を書き込んでいく。
その様子を弟子2人は憂鬱な面持ちで眺めるも、手元の黒猫と目が合えば「よかったねー」と抱き着いて心労をすべて吹き飛ばした。
いまだ状況を飲めないリゼも、自身の不運を振り払うように黒猫を無心で撫で始める。
しかし新たな仲間に集中するあまり、小さな魔法使いたちは周囲の変化に気付かない。
彼らをこっそり盗み見て、優しく微笑む師匠の稀有な表情を見逃している事に。