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001.常闇に願いを

 峠を越え、長い道のりを延々歩けば故郷の土をいずれ踏める。

 激戦を生き抜いた騎士たちはそれだけを胸に、黙々と足を動かしていた。



 しかし突如襲った土砂と落石が彼らの希望を。

 そして未来をも瞬く間に奪うと、この世から跡形もなく姿を消し去った。


 もはや戦地での勝者として、その名を轟かすことも無い。

 歴史から肉体ごと消滅するその日まで、ただ墓石の下で待つばかりだった。



 ところが彼らが進むはずだった先に、一筋の血痕が引きずるように続いていた。

 落石から遠く離れ、崖道から森に差し掛かるや、やがて点々と赤く染まった茂みから、荒い呼気が聞こえてくる。

 もしも覗き込む勇気があったのなら、そこで血痕の主と相まみえたことだろう。



「――ハァハァハァハァ……ぐっ…あ゛っ」


 銀糸の髪を方々に乱し、体の骨も無事に済んだ物は殆どない。

 息をするだけで全身が焼け、意を決して寝返りを打てば、背中に走った衝撃で悲鳴がこみ上げた。



 体は、いまさら見下ろすまでもない。


 左足は岩から引き抜く時に、膝から下を失った。

 右足は根本から無い。

 左腕も肩から先を僅かに残し、右腕も辛うじて形を保つ程度。



「ざまぁ、ない…な」


 血を吐きながら無理やり笑みを浮かべるも、失ったのは肉体だけではない。

 合戦場を生き延びた一握りの仲間たちは、無数の岩に飲まれて消えた。



 体を失った悲しみは微塵もない。

 ただ悔しさだけが。

 己の無力さだけが、胸中に木霊し続けていた。


「…くそっ……くそ!…畜生ぉっ…」


 声が少しずつ掠れ、とめどなく溢れる涙に木漏れ日すら滲んで見える。

 目を拭いたくとも腕は動かず、今ならば血の匂いを辿って獣や魔物。

 果ては山賊が集まっても、抵抗する術は一切ない。



 しかしそんな輩すら、もはや目にする時間はなさそうだった。


 視界を覆う涙とは異なる遠のきを感じ、心許ない体温も急速に離れていく。

 暗がりも徐々に世界を覆い、命を奪う音が刻一刻と鼓動を蝕んでいく。


 受け入れたくはないが、もはや動かせるのは瞼だけ。

 自ら瞳を閉じ、朦朧とする意識が永劫の闇に覆われるのを待つ最中。

 ふいに頬を掠めた風に嫌々目を開ければ、1羽の蝶が視界を横切った。


「…はっ、ははっ。こいつは、思わぬお迎えが…来てくれた、な…」


 最後の最期で少し気持ちが安らぎ、蝶に感謝の笑みを捧げたのも束の間。

 それらが視界を覆う程に集まってくるや、微笑みはすぐに崩れ去った。



 花畑に集う量ではない。

 まるで飢えた獣が群がるように密集し、神秘を通り越して不気味にすら思えてくる。


 そんな当人の困惑を尻目に蝶は渦巻き、やがて中心から赤い霧が噴き出した。


 あの世に旅立つ輩は、皆一様にこの景色を体感するのかと。

 地獄への入り口にも見える光景に、思わず固唾を飲んだものの、喉を通ったのは鉄臭い血の味。

 おかげで意識が少しだけ鮮明になり、渦の中央で徐々に形成される人の輪郭を捉えることができた。



 見えるのは蝋燭の火のように揺らめく、胸から上だけの鏡像。

 そして頭部と思しき場所には、6つの目が光って浮かんでいた。


{………フム。死に体の割には随分と元気そうですねぃ}



 喋った。

 蝶の幻影が話しかけてきた。


 限界まで血を流して見えた幻覚に驚き、目を拭うべく咄嗟に上げた腕に激痛が走った。



 ひとまず夢ではないらしい。


{どうしましたかな?舌まで失ったわけではないのでしょう?わざわざ声をかけたのですから、少しは返事をしてもらいたいものですねぃ}

「…死神、ってやつか」

{いえいえ、そんなものよりずっーと素敵な者でございますよ……少なくとも瀕死の貴方に今、唯一耳を傾けている存在と言えましょう…さて、あと数分と絶たずに消えてしまう命でしょうから本題に移るとして……コチラ、その目で見えますかねぃ?}


 耳障りな声に耐えつつ視界を絞れば、幻影は小瓶を振りかざしていた。

 腕もあったのかと思う一方で、注意は必然的に中で揺れる黒檀の液体へと向けられる。

 内側で波打つ度にガラスへ張り付き、ずるずる底に沈めばまた側面に打ち付けられている。


 初めて見る物につい体を起こしかけるも、再び激痛に襲われて顔を歪めた。


 今感じた痛みはこれまでとは別格。

 一瞬意識が沈むような感覚に見舞われた。



 それでも痛む体を堪え、意識を揺さぶり起こせば、必死に口を動かした。

 

「…悪いけど……ゆっくりしてる…暇、ないんだ。要件を…言ってくれ」

{興味を持って頂けたようで何よりですねぃ…いいでしょう。この液体は貴方の体をたちまち癒し、再び立ち上がる力を授けてくれる事でしょう。その瞳。死の淵にいるというのに、まだやり残した事があるとお見受けしました。それもかなりの心残りかと}

「…条件は」

{話が早くて助かりますねぃ。見込んだ甲斐もあったというもの……簡単な話です。どんな神も求める物は、ほんの僅かな信仰心。信仰なくば神たるワタシは無力で、ワタシがいなくば貴方は一巻の終わり。しかしこの液体を飲めば貴方は死なずに済む。如何でしょうか。ワタシと契約して光の担い手になっては頂けませんかねぃ?}


 朧げな人影だと言うのに、いやらしい笑みがはっきり見えた気がした。

 死の淵でも覚えた胡散臭さに、ふと幼い頃に聞かされた童話が思い起こされる。




 どんな願いでも叶える魔法の井戸に向かった青年が、番人の獣を倒し、望みを叶える資格を得た。


 そして願いは確かに叶えられたが、代わりに青年は姿を変えられてしまう。

 次の願い人が現れるまで永劫、井戸を守り続ける獣として。

 



 ――美味い話には裏がある。

 物語の教訓からも、都合の良い話を持ちかける“自称”神は、井戸そのものではないかと疑いを持つには十分だった。



 突如出現した得体の知れない相手。

 主旨のはっきりしない取引。

 普段ならば警戒を露わにしたろうが、瀕死の重傷では頭も満足に働かない。


 しかし1つ。

 いや2つだけ。

 

 胡散臭い幻影が、確かなことを言っていた。



 それは“やり残した事”。



 戦場を生き残れた唯一の希望にして、曲げられない自分との約束。

 それを成し遂げるまで死ねないと言うのに、残された時間は幾ばくも無い。


 答えは悩むまでも無く、神様に会うずっと前から決まっていたようなものだろう。


 意を決して口を開くが声は出ず、魚のように力なく開閉されるだけ。

 それでも幻影は彼女の意思をすでに把握していたのか。

 怪しげな瞳を醜く歪ませ、取引の成立を示した。



 途端に瓶の蓋がボンッと独りでに弾け、注ぎ口がゆっくり傾く。

 べたり――と血濡れた唇に液体が張り付き、喉奥を泥のように流れ落ちていく。

 その度に喉が弱々しく上下に動き、食道を伝う感覚はあれど潤いは無い。

 ヘドロが腹を満たす不快感に、体力が残っていれば吐き出していたろう。



 しかし飲み切った。

 カラになった瓶は魔法のように宙で消え、満足した様子を見せる幻影が少しずつ薄れていく。


{ここからは全て貴方次第。またお会いできた時、改めてお名前を伺う事にしましょう。そうなる事をワタシも望んでいますからねぃ}


 最後まで胡散臭い口調が耳に残るも、瞬時に視界が開けるとそこに蝶の姿はなかった。

 先程の会話がまるで幻覚のように感じてしまうが、湿った唇と喉に憶える粘つきは、いまだハッキリ残っている。

 得体の知れない液体を摂り込み、取引に応じた事実を雄弁に物語っていた。



――ト゛ク゛ン゛ッ゛。


 途端。

 鼓動が一際大きく、1度に沢山の心臓が体内で蠢いた気がした。



「あ゛…あ゛ッ、あ゛あ゛ア゛ア゛あ゛あ゛ぁァアアアあ゛あ゛っっ゛ッ゛ッ゛」


 体が熱い。


 “神”が消えたのち、次に襲ってきたのは落石をも上回る壮絶な激痛だった。

 四肢を失ってなお胴体は反り返り、失った手足もダダをこねるように暴れ出す。

 捕食者すら近づくことを躊躇う絶叫に、いっそ喰われてしまった方が楽になれたろう。


 内側から破裂しそうな身体を欠けた右腕で抑えつけ、全力で激痛に抗った。


「あ゛か゛っ゛、あ゛ほ゛ほ゛ばッ」


 下ったはずの液体が喉元を込み上げ、張りつきながら気道を塞いでいく。

 息も出来ず、猛毒でも盛られたのかと一瞬よぎった考えも纏まらない。

 肉体を隅々まで鋭利な感覚が染み、やがて眼球の裏を激痛が走った直後。


 心臓が爆発したような衝撃を最後に、体の力がずるずる抜けていった。

 陸に打ち上がった魚の如く動かなくなり、意識も急速に遠のいていく。









 鳥と、木々の囀りが聞こえた。


「…んんッ…ぐっ。ううゥぅ…」


 どれほど気を失っていたのだろう。

 瞼を開けると陽の光が見え、あまりの眩しさに思わず目を腕で覆った。



――いや、覆えた。



 ふいに違和感を覚えると体を起こし、素早く辺りを見回した。


 暴れている内に抜け出していたのだろう。

 苦労して潜った茂みから離れた場所にいたようだが、その光景はあまりにも凄惨。

 茂みの下には血だまりが残留し、周囲の草葉は鮮血で染まっていた。


 素人目にも生きていられるはずがないと、確信を持って言えたろう。



 言えたはずだったが…。



「…腕。私の両腕……足まで…体の傷も…」


 失った四肢にボロボロの体。

 それらがまるで何事もなかったかのように。


 落石に遭った事も、想像を絶する激痛すら幻であったかのように。

 痛みも傷も、煙の如く消えていた。


 最後まで支えてくれた右腕も痛みはおろか、指も5本全て揃っている。

 何度開閉し、ひっくり返そうと意のままに動き、膝に手を置いて恐る恐る立ち上がってみたが、やはり違和感はない。

 自分の足が、いつも通り体を支えてくれた。


 戦場と落石で引き裂かれた体の面影は、今や何処にも見当たらなかった。


「…あいつに何を飲まされたんだ、私は……そもそも装備はどこいった?」


 体の傷は、直感で液体の効果が発揮されたのだと納得できる。


 だが装備諸々は、一体どこへ消えたのか。

 ボロボロであったとは言え、それなりに愛着もある。

 行方を追って辺りを捜索しても、血だまり付近には何も残されていない。

 困惑と諦めにフーっと溜息を零すが、肌を撫でた風にふと自分の状況が思い出される。



 人のいない未開の森に、一糸まとわぬ姿でうろつく女。


 いつまでもこんな所で。

 こんな姿で佇んでいるわけにもいかない。


 野盗に発見されてしまえば、どんな目に遭うか。

 一般人に見つかれば、どんな目で見られるか。

 咄嗟に茂みへ飛び込み、改めて周囲を確認するが体を覆えるものはない。


 一度冷静になるべく瞳を閉じ、現状に至るまでの経緯を頭の中に叩き込んだ。


 戦場。

 落石。

 激痛。

 神。

 2度目の激痛。


 そして今。



 何度考えても、記憶に差異は無い。

 一体何の冗談かと笑いたくなるが、自然と指先は左頬に伸ばされ、古い1本傷を撫でる。


「…体は治っても、コイツはそのままか」


 苦笑し、だがおかげで自分は何があっても自分なのだと核心を持って顔を上げられる。


 体を軽く伸ばすと、意を決して街道を進み、調子を確かめるように大振りで。

 そして時に小刻みに。 


 それから蹴るように勢いをつけてみたが、足は問題なく動いてくれる。



 一体どんな薬を飲まされたのか疑問を覚えるが、過去を振り返っている暇はない。

 生まれた姿のまま、ぐんぐん森の奥へと突き進んでいった。

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