197.裸の休息
静けさに浸る空間の中、唯一音を奏でているのは、零れ落ちる水滴の音だけ。
周囲も湯気で殆ど見えず、時折零れる嘆息が室内で嫌という程木霊する。
「…3人で頑張っても負けちゃったね~」
「準導師相手じゃ仕方がない…」
「でもザーリん、いつの間にあんな魔法覚えてたの~?出した時ビックリしすぎて詠唱とめちゃったよ~」
「結局失敗したから唱えてないのと同じ…」
「そんな事ないよ~。ソーニャ準導師様もちょっとだけ怯んでたし、今度はもっとうまくやれば…レマちゃん大丈夫?」
浴槽に浸かって数十分。気まずい沈黙も幾らか会話で和むが、レマイラはいまだふくれっ面。
むしろ痣だらけの頬や身体に、痛くて話せないのではと1人は心配を。そして片や、彼女のプライドが傷ついただけだろうと、特に気を配る様子は無い。
レマイラほどではないが、ザーリーンたちもまた過激な演習によって傷ついた身。同じ環境で敗北したのだから、慰め合っても醜いだけだろう。
もっとも負傷度合いはザーリーンが1番軽い。
次にカミリアが奮戦した結果相応のダメージを負い、レマイラは最後まで歯向かって、文字通りボコボコに。
体力の低い順にリタイアしていった事で、心と身体の負傷の差は火を見るよりも明らかだった。
「……でもさ~。まさか講師室に温泉があるとは思わなかったよね~。ソーニャ準導師様も太っ腹~」
「お風呂はともかく、温泉の形にしてるの。たぶんソーニャ準導師様だけ…」
「それに薬草風呂だよ~?良い匂いもするし、身体の疲れも取れちゃいそう~」
「…ちょっと待って。本当に怪我が治ってるっ」
ふちに寄り掛かっていたカミリアを眺めていたのも束の間。蔓のムチで共に叩かれていた背中の痣が消え、身体の異変にザーリーンが水飛沫を立て始めた。
立ち上がって見下ろしても傷は殆ど視認できず、心なしか筋肉痛や身体の疲労も取れている。
互いに触り合って回復の経過を調べたところで、ふいに2人の視線がレマイラへ注がれた。
「……なんだよ」
ぶっきらぼうに返し、ジロっと睨まれても怖くも何ともない。そのまま彼女を挟むように移動すれば、ピチャンっ――と。
何処からともなく反響した水滴を合図に、突如カミリアたちがレマイラに襲い掛かった。
くすぐるように。薬草風呂を身体へ塗り込むように撫でれば、一帯は女子学徒のはしゃぎ声で満たされる。
対照的にレマイラは怒号を上げ、それでもソーニャに発揮した勇猛ぶりは面影が無い。身をよじるのが精一杯で、トドメにカミリアが両手で顔を包むと途端に大人しくなる。
すでに疲労も感じず、痣も見た目に反して痛まないのだろう。くすぐりもマッサージに変わり、薬草の香りも相まって眠気すら押し寄せてくる。
それでもレマイラの意識を引き留めるのは、ひとえに彼女を叩きのめしたソーニャへの意地。風呂も水と火魔法で造られ、当然薬草が何処から来たかは言わずもがな。
薬草店の次は銭湯でも始めそうな様相に溜息を零し、同時に襲ってきた眠気が、肩を揉まれた拍子に忍び寄ってきた。
一揉みごとに身体を揺すられ、徐々に意識が刈り取られていった刹那。
「――湯加減はどうだね」
閉ざしかけた瞳も。今もっとも聞きたくなかった声にグッとこじ開けられる。
眠気も一気に遠ざかり、残ったのは身体の火照りと気持ちよく流れる汗だけ。身体の触り合いも止まるや、ゆっくりと声の方角へ一斉に視線を向けた。
まず一糸纏わぬ姿で仁王立ちするソーニャが視界に入るが、直後にカミリアたちはともかく。レマイラに残っていた毒気も瞬く間に溶け出していった。
普段は学徒同様にローブで隠された身体も、今や冒険者顔負けの筋肉が露わになっている。演習の痣や傷はあれ、レマイラたちに比べれば軽微なものだろう。
“植物学”の講師とも思えない引き締まった姿に目を見張るが、さらに片手にはアライグマが何故か吊るされている。
まるでタオルを掴むような無造作ぶりだが、当人も嫌がる素振りを見せず。ふいに解放されるや、問題なく着地してそのまま湯船に入って行った。
泳ぐ様は温泉の原生生物のようで、湯気の向こうに消える姿を眺めていたものの、助手の無回答に準導師はお気に召さなかったらしい。
ふいに指先を軽く動かせば、途端にお湯が身体の表面を淫らに這い出す。不意打ちに声は裏返り、誰もが足をキュッと閉じ、胸を隠すように自分を抱きすくめる。
ようやく水飛沫も波紋も落ち着いた所で、ぐったりと。回復したはずのスタミナも一瞬で消え、へりに力なく身体を預けた。
再び湯に浸かる必要性が生まれたが、準導師の追及はまだ終わらない。
「全員その場に立て」
質問から命令に変わり、互いに見合わせたカミリアたちに断る選択肢はない。
お湯の襲撃を警戒しつつ、各々がゆっくり立ち上がれば、雫が静かに身体から滴り落ちる。
その音だけが浴室に響いていたはずが、入水したソーニャの水飛沫が静寂を掻き散らす。真っすぐレマイラの下へ向かえば眼前で止まるが、瞳が交わる事は無かった。
視線は頬に始まり、首を伝って胸元へ。そのまま下半身まで伝っていく。
自身の戦果を確認しているのか。ふいに手まで伸びて触られるや、一瞬ビクついて身じろいでしまう。
記憶に新しい拳の味が口内で蘇るも、幸い第2回戦が始まる事は無い。
おもむろに身体を触られると掴むように。グイっとあちこち向かされて、隅々まで肌を触られる。
それから順にカミリアとザーリーンを。同じように触診していけば、やがてソーニャが浸かったのを合図に、遅れてレマイラたちも入り直す。
「戦闘も6分。8分。そして27分だったか。やはり時間差はあるが、順調に治療は進んでいるようだな」
「……薬草風呂の効能を調べるためにウチらをボコボコにしたんすか」
「たった1つの成果を導くために時間を浪費するのは愚か者の考え方だ。1つの行動で複数の結果を生むよう常に心掛けるように」
「…お風呂の効果と~…護身術を覚える、でしたっけ~?」
「私たちを使って防御魔法の性能も試してた…」
レマイラの影でポツリと。恨めしそうに告げるザーリーンも、しかしそれ以上の恨み言は零さない。
相手が準導師だからと言うのもあるが、何より彼女の実力ゆえだろう。
トリオの切り込み隊長たるレマイラすら素手で制圧し、魔術師の卵と言えどザーリーンとカミリアまで手玉に取っていた。
これ以上無い実力の示し方にぐうの音も出ないが、一方でソーニャも考え方は同じであったらしい。
「やはり卵は所詮卵だな。まだヒナにも育ってないとは情けない」
「…なんのことっすか」
「君たちの実力を知るには実戦がもっとも効率的だという話だ。自己申告など当てにならないからな。それに君たち自身はどうなんだ」
「準導師…様が上で、ウチらが下って言うのは嫌という程伝わりましたけど」
「そんなくだらない評価を聞く必要はない。そもそも戦闘を前提としない限り、他者と己の力量を比べる事自体が間違いなのだからな。それよりも君たち自身は魔力の向上を感じたとは思えなかったか?」
自身の言い分を一方的に告げられるや、訝し気に尋ねられた質問に3人は互いに向き直る。
“特別授業”に必死で脳裏に掠りもしなかったが、言われてみれば確かに威力は上がっていた。
放てる魔術の回数も増え、何よりザーリーン自身が驚く程身体を動かせていたのは、何も日々の雑務だけが原因ではないだろう。
魔力は精神エネルギーを消費し、強大な魔術は使えば使う程比例して肉体をも蝕む。
ゆえに魔力の増強によって身体も疲れづらくなり、より戦闘や“実践”の場で活躍する事が出来る。
以前聞いた全く別の導師から聞かされた話も、知識として知っているのと、実際に体験して覚えた経験とでは理解の度合いも違う。
思わぬ講義内容に目から鱗が落ちたが、カミリアは代わりに言葉を零した。
「…でもソーニャ準導師様も凄いですよね~。レマちゃんも凄いけど、最後の方はずっと殴り合ってましたし~。魔術師もパンチが打てないと駄目なんですね~」
「植物学が他人の書いた本を読むだけの講義だとでも思っているのか?知識を得るには自ら現場に向かわねばならないうえ、その過程で冒険者紛いの戦闘や経験も積む。魔術だけ磨く事を良しとするのは、それこそ兵士に身を守られている王宮魔術師の考え方だ。もっともあの手の仕事は王族の装飾品としての価値があるだけで、もっぱら業務は彼らの愚痴を聞かされる事だったが」
「ソーニャ準導師様は王宮魔術師の経験があるんですか…?」
「“準導師”といちいち言わなくて良い。私も好きで仕えたわけではなく、どうしても研究のために土地へ踏み込むのに、その時は相応の地位が必要だっただけだ」
「……植物学ってそんなに実用的な講義なんすか」
淡々と語るソーニャの意見に、ようやくレマイラも学徒よろしく耳を傾ける気になったらしい。残る2人も同じく話に聞き入れば、湯加減に気を良くしたのか。
彼女たちの準導師はいつにも増して饒舌に口を開いた。
「魔力を増幅する事が魔術の行使よりも大切である事は原則だ。それはもちろん知っているな?」
「魔晶石学で良く聞きます…」
「そしてそのためにもっとも効率的な方法が魔晶石学であると言われているが、それは正しくもあり、また間違いでもある。魔晶石に魔力を込める工程は、言わば準備も無しに海を泳いで渡るようなもの。それこそ才能が物を言うが、一方の植物学は海を渡るまでの準備を入念に行なう大器晩成型。時間は掛かっても、いずれ花を咲かせる植物のように必ず成果は実る。大抵の“偉大な魔術師”は植物学の出身者が多いのだが、君たちは聞いた事もないのか?」
ソーニャの質問にカミリアは事も無く頷き、残る2人は無言で俯いてしまう。
偉人に関してはザーリーンの方が詳しいのだろうが、大概注目されるのは経過よりも結果。
経歴に“植物学”と記載されていても、マイナーな分野に誰も見向きはしない。
だからこそ“偉人”の数も多くはないのかもしれないと。1人頷くザーリーンにレマイラも彼女の胸中を察するや、ソーニャの話はまだ続く。
「君たちが個別で育てている木があるだろう」
「シダみたいな形の先端がくるくるした木の事っすか」
「あれが育ち切った時、君たちは自分の杖を手に入れる事になる。自らの魔力を込めた水を与え続ける事で、魔術を発動する触媒としてはもっとも最適かつ最高の物となるのだ。もちろん市販で売っている物や、師匠に譲られた物などよりも遥かに強力でな。植物学が偉人を輩出している理由も、それが1つの要因なのだろう」
「……ソーニャ様。もしかしてあたしたちの事を育ててくれてたの?」
「助手が変わっては面倒だと何度言わせる。相応の実力を身に着けてもらわねば、また種を一から育てる過程に時間を割く事になるような無駄は御免だ」
「でも杖を自分で育てるなんて聞いた事ない…」
「植物学における廃れた習わしだ。弟子が自らの杖を持った時が一人前にして旅立ちの証。もっとも私は経験から、棒術も教えるべきだと思うがね」
「…助手に任命してから、何でもっとそういう事を早く言ってくれなかったんすか」
「事前に説明しては当人の考える力を奪い、目先でしか物事を考えなくなる。私の師の受け売りだが、雑草は踏みつけられても枯れる事はない。舗装した道すら砕いて芽を出す力を持つように、目先の力に囚われた者には一生身に着かない知識や経験が詰まっているんだそうだ」
思わぬ知識と情報に加え、ソーニャと会話している事自体が珍事も同然。
彼女の“講師”としての一面に驚愕する一方で、助手としての範疇なのか。話を聞いている間も、ソーニャの背中をゴシゴシ洗っていた。
彼女が断っていなければ腕や足にもそれぞれ付いていたろうが、現在はレマイラがゴシゴシと。残る2人は様子を見つつ、各々身体を洗っていく。
あるいは助手の領域を遥かに超す触れ合いも感じたが、レマイラも完全には心を許していない。
もちろん準導師としての実力も認めているし、思わぬ場での課外授業にも学ぶ物は沢山ある。
だが“イェスとノーを言わせない女”であり、自身でも「1つの成果に固執するな」と言っていたほどだ。
淡々と話す彼女の真意に身構えていたが、やがて背中の泡を流した所で、ふいに話題が切り替わった。
「ところで明日。君たちに薬草を届けてもらいたい相手がいる」
「…誰にっすか」
「ボルテモアという準導師でな。前々から要請はあったんだが、何かと理由を付けて断っていたんだ」
「ボルテモア準導師様の“噂”を聞いたのと何か関係があるんですか~?」
「当たり前だろう。そうでなければ誰があの腰巾着と関わるものかっ」
「……でも行くのは私たちなんですよね」
「私自身が赴けば確かに問題は無いが、準導師同士の関わり合いは面倒臭くてな。自ら雑務を率先して行なえば、それだけで相手は力量に関わらず下に見てくる。まだ大学に残ってやる事がある手前、長い目で見れば私が動くわけにもいかない」
深い溜息を吐きながら自らの心情を吐露するが、いずれにしてもレマイラたちは巻き込まれる形になる。
ソーニャがいなければ今頃は淑女決議を行なっていたものの、魔術をいくつも教わり、金まで受け取っていては選択肢などない。
ただ彼女の指示を考えるに、恐らく噂の真意を確かめろという意図なのだろう。
そのためにも実力を試され、万が一の場合は魔術を躊躇なく行使する事。なお使用する場合は逃げる事を前提にするよう釘を刺される。
やがて用事が済んだソーニャが浴室を出ていくや、途端に大学選挙の陰謀に巻き込まれた気がして、風呂上がりの安らぎが一瞬で霧散する中。
唯一の癒しと呼べたのは、丁度ふちを登ったアライグマが身体を振り、お湯を弾く姿を眺める事だけだった。