195.三限目、植物学
茂みが一帯を覆い、蔦が天井を覆う空間はまさにジャングル。周囲に本棚が設置されていても、大自然に摂り込まれた廃墟に佇んでいる錯覚に陥る。
魔術師には一見縁の無い光景に見えるが、ふいに茂みが激しく揺れるや、レマイラが水面から浮き上がるように顔を出した。
新調したローブは不思議と引っ掛かる事なく、また汗も1つとして掻いていない。以前感じた暑苦しい熱気も伝わらず、それでも彼女はずっと顔をしかめていた。
「……これ、地味すぎるだろ」
開口一番に溜息を零すや、片手で掴んだ短い杖をグッと茂みに伸ばす。ブツブツと何かを唱えた直後、突如出現した小さな雨雲から水が滴り出した。
雲は杖の向きに合わせて動き、満遍なく周囲の茂みに水を与えていく。
助手として雇われてから、まず実施する日課に辟易してしまうが、“辞める”選択肢などもはや無い。
初日から“熱中症対策”の氷魔法を惜しげ無く伝授され、水やりのための魔法まで教わった。実戦には程遠い魔術でも、新たな知識を学べる事自体は満更でもない。
何よりも“依頼主”が出す程よい給料額が、如何なる仕事もレマイラの身体を無意識に動かす。
「…社畜にだけはならないって決めてたのになぁ…」
誰に告げるでもなく、また重い溜息が洩れる。しかし前方の茂みが激しく揺れ、ふいに飛び出してきた少女と目が合えば、思わず水撒きを中断した。
驚く事こそ無かったが、前のめりに引っ掛かった彼女を呆れながら抱き起こす。
「えへへ~。ありがと~」
「はいはい。気を付けないとまた頭から水を被る事になるぜ」
「は~い……でもレマちゃん凄いよね~。ソーニャ準導師様とお知り合いになれるなんて~。大学にいる間は一生ムリだと思ってたも~ん」
「好きでやったわけじゃねえけどな。むしろ導師に熱を上げるお前を見るのが初めてで逆に驚いたよ」
カミリアの頭に乗った葉飾りを手際よく取り除き、ついでに髪も梳いてやる。
息抜きついでの行動とはいえ、笑みを浮かべる彼女を見れば、“社畜”も悪くないとさえ思えてしまう。
同時に普段は講義の愚痴どころか、講師に対して一切感想も述べないカミリアの反応に、驚きを通り越して不可解さも当初はあった。
「だってソーニャ準導師様の講義って、本当のエリートしか通えないって言われるくらい人気なんだよ~?それに少人数のクラスだから全然席が取れなくて~」
「ウチはソーニャ準導師の話なんて聞いた事もねえんだけど」
「どっちの大学長候補様にも就いてなくって、たまにフラ~って大学の外行っちゃうからじゃな~い?だから講義も珍しいし、レマちゃん植物学に興味ないから仕方ないよ~」
「……2人とも仕事」
ガサリともう1つの茂みが揺れるや、影から長い髪の娘が現れる。日頃の運動不足が祟ってすでに疲れ気味だが、課題を放って休む根性無しではない。
そんな彼女にレマイラとカミリアが顔を見合わせるや、それとなく近付いて髪を梳いていく。葉飾りも放っておけば妖精のようにも見えたが、口に出せば当人は無言で怒ったろう。
「仕事中…」
「“コレ”が終わったらな。それにしてもザーリーンまで助手の話に乗った時は驚いたけど、ぶっちゃけ人の下に就くの嫌いだろ?」
「今の魔晶石学は身体がついてかない…」
「実戦力学と一緒になったもんね~。あたしは1回も出てないけど、そんなに大変なの~?」
「学べる事は前より増えたけど、コイツにとっては地獄だろうよ。だから日頃から身体は鍛えとけって言ったろ?そんなんじゃイケメンのボンボンを捕まえるのなんざ、夢のまた夢だぜ」
「男から女にアプローチするのがエチケット…」
「ザーリん美人だもんね~」
「へいへい…話は戻すけど、ウチはまだ植物学が魔晶石学と同等レベルの講義だって話に納得してねえんだけどさ」
「原理は説明された…」
「……そうは言ってもなぁ…」
溜息を零しながらも手際よく髪を編んでいき、ようやくルームメイトの手入れが終われば各自が作業に戻った。
再び肥料や水の散布を開始するが、その間も思考に浮かぶのは助手任命時の会話。
魔力は誰しもが持ち、しかし筋力と同様に鍛えなければ育たない。知性もまた学ばねば育たず、時間を掛けて鍛錬する事が魔術師の道である。
ゆえに“水やり”も“熱中症対策”の使用も、全ては体内の魔力操作に繋がっていく。魔晶石学と違って視覚的な実感は湧きにくいが、日々の継続こそが大切――だと聞かされている。
もちろん準導師の話は説明が乱暴で、ザーリーンやカミリアが大半を補足。彼女たちがいなければ、今頃金でコキ使われているだけだと思っていたろう。
それでも実感が湧かない物に、どうして情熱を捧げられようか。
1度だけ参加した魔晶石学では、実際に魔力を魔晶石に込める工程を目にした。実戦力学では、それこそ杖を使って魔術を行使している。
だが今やっている事は、日常の雑務をこなすために使われる言わば魔力の乱用。如何に物理耐性を魔術的に施されたローブを支給され、茂みに裾を取られる事が無くなっても。
倉庫を改装した助手用の控室を与えられ、寮よりも広い部屋に浮かれようとも。
賃金が発生せず、講師室の防衛システムによって不在中の不安が消え去ろうとも。
いまだ納得がいかないレマイラも、しかし優遇措置が脳裏をよぎる度にどうしても心が屈してしまう。
植物学の講義も雑務を通して教えられ、受講料も実質タダ。むしろ給料が出ている上に、時折発生する重労働で良い汗も掻いている。
絆されかけた思考を慌てて振り払い、無理やり汚点の絞り出しを試みたが、浮かんだのは住み込み部屋にあった寝床がベッド1つであった事。
結果的にカミリアがマットレスを床に敷き、レマイラは引き続きハンモック。それでも全体を見れば生活が向上した状況に加え、準導師の下で働く事もまた経歴に書き足せる。
思わぬ棚から牡丹餅であったが、恐らく不満があるわけではなく。単純に心と身体が現実に追いついてないだけなのだろう。
本日何度目とも分からない溜息を洩らすが、原因は助手の件だけではない。
全てがフワフワしているのは、ひとえにアライグマ“パスカル”の功績であった。
「…そういやアイツ、何処行ったんだ?」
ふと顔を上げて辺りを見回すが、鬱蒼とした茂みの中で彼を見つける事は不可能。準導師に見つかった時も、「景観の変化」と評されてから部屋の住人と化している。
そんな彼女も室内へ踏み込む度に周囲を見回し、何かが足りないと常々零していたが、あの調子では本物のジャングルになる日も近いだろう。
もっともパスカルも滅多に姿を見せず、気配を察知できるのは食事の時間だけ。エサ入れが空になっている事で、ようやく彼の生存を把握できている。
それでもパスカルの姿も。彼と出会った日の事はいまだ頭を離れず、だからこそ助手の件が夢のように思えてならない。
果たして彼は幸運を運ぶ予期せぬ獣なのか。
それとも災いを呼ぶ忌まわしきケダモノなのか。
思考に耽っていた最中、ふいに茂みが独りでにかき分けられるや、レマイラの雇用主が憮然と立っていた。
「今からミドルバザードで市場を開け。荷は奥の部屋に纏めてある」
「…なんの話しすか」
「返事はハイかイイエだ」
「答えを返す前にせめて説明してください」
「ふむ。試験的な薬草を試す市場調査。さらに大学内で発生する如何なる噂も信憑性の有無に関わらず記憶に留めろ。さぁ行って来い」
「ちょっと待てっ…ください。最初のはともかく、2番目の仕事内容はなんの事すか?」
「周囲の状況を常に把握しておく事は魔術師として常識だ。問題が起きた場合に植物学を以て解決できれば、学問の幅も利かせられるからな。かと言って君たちだけで情報の有用性を判断されるわけにもいかないために“全て”記録するよう言っている。報告書の作成と提出を忘れないように」
「でも出店は大学の許可が必要なんじゃ…」
「店舗はとうの昔に申請してある。場所はFGの区画8」
キビキビ話し終えた準導師は現れた時に同じく、颯爽とその場を去って行く。広げられていた茂みはカーテンの如く閉まり、固まったレマイラだけが残されたが、おかげで現実味を感じられない理由をもう1つ思い出した。
その名も“ハイとイイエを言わせない女”ソーニャ・ボイニッチ準導師。
話す時には全てが決定事項であり、急すぎる展開に思考が必然的に置いていかれる。
それでも学徒としての悲しい性か。勝手に動いた身体や声は自然とルームメイト2人の名を呼びかけた。
程なく全員集合するが、淡々と告げれば彼女たちも驚きを隠さない。しかし命令違反を起こすはずもなく、やはり準導師が思い描いた通りに。3人は仲睦まじく部屋の奥へ進み、必要な資材を回収していく。
やがて建物を抜ければミドルバザードの静かな喧騒を縫い、辿り着いた建物で黙々と支度を始めた。
新築など存在するはずもないが、それでも改装されたおかげで綺麗には見える。職人の熱意が要所要所で見て取れるも、むしろレマイラには見覚えしかない。
それもそのはず。以前屋根を登って釘を打ち付け、修復を終わらせた店舗そのものだったから。
「レマイラ」
壁の塗りがイマイチだと睨んでいたのも束の間。ザーリーンの声に反応し、渋々荷物を広げていけば植物学の店が立ち上がる。
薬草が篭に吊るされるだけの味気ない店だが、カミリアには十分なものらしい。話を聞いた時から目は輝かせていたとはいえ、まるで自分の店を持ったように。
それもレマイラたちと経営しているように話す様に、つい2人で頭を撫でる。
「言っとくが準導師に課せられた“仕事”だからな。変な妄想に浸ってフワフワしたりすんなよ」
「気を付けま~す」
「ザーリーン」
「大丈夫。見張っておく…」
互いに決意を固めたところで“OPEN”の札を掛けるも、当然と言えば当然。開いたばかりでは知名度はおろか、店に名もなければ看板も無い。
ミドルバザードに佇む1店舗に過ぎない光景に、レマイラは早々に欠伸を。ザーリーンは読書を始め、カミリアは飼い主を待つ犬のように店内を見回す。
なおも輝く瞳には、装飾や看板のアイデアが浮かんでいるのだろう。
だからこそ下手に声を掛けられず、雑踏の足音だけに意識を向けていた頃。ふいにアーザーと分かる装いの青年が立ち止まり、レマイラたちを見つめた。
店構えの地味さに困惑していたが、ギラつくカミリアの眼差しに捕まったらしい。
「いらっしゃいませ~!レマザリカミの薬剤店へようこそ~」
「…レマザリ神?」
ますます困惑する青年に負けず劣らず、ザーリーンたちもまた顔を上げる。咄嗟にカミリアを引っ込め、慌てて対応すれば区画にいる父の腰について話し出した。
「…親父を直接回復士にでも見せた方が早くねえか?」
「オイラもそう思うけど、金も無ければ大人はムサいからって、ミドルバザードに立入禁止だからよ~…じゃなくてっ。立入禁止なんス!」
「あ~いいのいいの。そんな堅っ苦しい話し方しなくたって。カミリア、薬草」
カウンターで“客”を見張る傍ら、ぶっきらぼうに背後へ声を掛けるが返事はない。振り返れば店名について話し合っており、現在はザーリーンからの苦情を処理している只中だった。
「カミリア、腰に利く薬草!!」
「あっ、は~い。ただいま~」
首根っこを掴むように客の対応をカミリアに任せる間、ザーリーンに店名の考案を頼んだところで、互いに視線のみの会話を終える。
直後にカミリアの監視へ戻るが、幸い彼女は店員らしく青年の話を聞いている。患者の症状を聞き、それから薬草を引き出せば秤の上に載せた。
「じゃあ3日分出しておくので、身体に合わないようだったら、また来てくださいね~」
「3日分!?そんな金オイラ持ってないぜ?」
「え~、でも1日とか2日だと効果が出てるか分かんないし~」
「半日分くらいのを3日に分けてあげるんじゃダメなのか?」
「う~ん…試飲の時は安くするのが決まりだから、3日分の代金を今だけ1日分の金額で出してあげまーす!…その代わり何かあっても文句は言わないでね~」
ニコニコしながら応対するカミリアに、青年も口出し出来ないのだろう。流れるように計り売りを終え、有無も言わさない内に店から帰されてしまった。
思えば金額の設定指示は出ておらず、危うくアーザーと言えど、客の前で相談を始めていたかもしれない。
“実家”で鍛えられたカミリアの商売人の顔に、残る2人は黙って仕事をこなすほかなかった。