191.休みなき夜
パタンっ――と。寮棟の正面扉に滑り込むや、閉じる音を立てぬよう慎重に扱ったつもりが、僅かに立てた音に思わずビクついた。
しかし周囲に誰もいないと判断した途端、慌ただしく廊下を駆け抜けて行く。幸い学徒とすれ違う事も無く、息を切らすカミリアの腕を強引に引っ張った。
次第に目的地が見え始めれば歩を緩め、足を止めた時には両者ともに満身創痍。レマイラは緊張と気疲れで。
カミリアはその両方に加え、日頃の運動不足が祟って虫の息だった。各々壁や床にへたり込み、思い思いに体力の回復を図っていた矢先。
「――…さっきの声…」
針の穴を通すような声が、床に倒れるカミリアの口から紡がれる。壁にもたれたレマイラが気怠そうに顔を上げるも、その先に続く言葉は無い。
むしろ語ろうものなら、会話を強引に遮っていた事だろう。
だが安全圏に入ってなお来た道を振り返ってしまうのは、ひとえに市場での体験のせい。
まるで深淵から捻じり出されたような声に、狂乱した衛士たち。少なくとも2人の聞き間違いでない事は、戦乱さながらに飛び交った魔術が証明している。
激しく打つ鼓動と足元から這い上る恐怖。食券を取り戻した達成感。
光と闇の感情が複雑に入り乱れるが、徐々に落ち着けば思考も冴え渡っていく。漠然とした不安も、やがて合理的かつもっとも現実的な答えを。
自分を納得させるための言い訳を自然と紡ぎ出していた。
「…オモチャ、だったんじゃないか?」
「……おもちゃ?」
いまだ床に寝そべるカミリアを引き上げ、隣の壁に身体を預けさせる。
「どっかの導師が音を…保管?する研究をやってたろ。それが何かの拍子で作動したのか、それとも故意に使って実践で通用するか試したんだろうよ」
「…何もない路地で?」
「多人数を誘い込むには適した立地だからな。ズィレンネイト準導師も、“敵が多い時は狭い所におびき寄せて各個撃破が理想”って言ってたから…つまりはそういう事だ」
「……でも音の研究って爆発して失敗したって話だったと思うけど~」
「研究を盗まれないために嘘を吐くのは良くある事だろ」
「でもあたしの声が…」
「この話はお終いだ!全部無事に済んだんだから、さっさと部屋戻って風呂入って寝るぞっ」
なおも納得がいかないカミリアに声を荒げ、ビクついた彼女も渋々口を閉ざす。
きっと懸念がまだまだあるのだろう。もちろんレマイラにも腐る程ある。
しかし掘り下げたところで、恐らく答えに辿り着く事はない。夜間の無断外出も、過去の笑い話へ変えるには記憶が新鮮すぎる。
レマイラの結論以外は受け付けない構えを見せ、ゆっくり立ち上がれば扉に向かった。今は一刻でも早く療養すべく、取っ手に手を伸ばした矢先だった。
「……カミリア。かぎ、持ってるよな」
ピタリと動きを止めれば、ぎこちなく瞳をカミリアへ向ける。答えは予想通りというべきか。
いまだ疲労困憊する彼女が見せた表情が全てを物語っていた。
2人が外出する間は、必ず扉を厳重に閉めておく事が淑女協定の鉄則。開ける鍵は1つでも、内側には後付けで装着したチェーンが3つも掛かっている。
最低でも第一関門を突破できれば、隙間からザーリーンに声を掛けられようが、レマイラたちの知る彼女の事だ。
今頃は寝ている可能性が高く、現状できる唯一の開錠方法は扉を叩く事だけ。もっともそんな事をすれば、廊下中に響き渡って注目を惹くのは目に見えている。
最悪の場合は寮長がやってきて、“夜遅くに何をしていたのか”問われるに違いない。
いっそ諦めて風呂に向かい、現実逃避も兼ねて次の行動を検討すべきか。それとも一か八か、扉を叩いて速やかに自室へ戻れる事に賭けるべきか。
孤軍奮闘とばかりに思考の檻に閉じ籠もるも、反動で足元がお留守になったらしい。軸足を変えるべく姿勢を変えれば、ぶにっと足に柔らかい物が当たった。
咄嗟にカミリアに蹴った事を謝罪するが、彼女はいまだ壁にもたれかかっていた。レマイラの傍にはおらず、訝し気に見下ろした刹那。
「――ぎぃやっ……っっ」
込み上げた悲鳴を木霊する寸前で押し殺し、カミリアの注意を惹くだけで済む。しかし彼女の瞳もレマイラの視線を追い、自ずと足元に座る“獣”へ向けられた。
見分けなど付けられるはずもないが、無意識に同じアライグマであると。ふてぶてしく佇む“ソレ”は、外に捨てて来た物と同一の存在であると認識した時。
死者が蘇ったような反応を示す2人は言葉を失い、驚くあまりに硬直してしまった。
そんなカミリアたちの気も知れず。レマイラの身体を躊躇なくアライグマがよじ登るや、瞬く間に肩へ辿り着いた。
そのまま横に垂れた腕へ渡ると、思わず持ち上げられた足場を伝って指先まで移動。後ろ脚でレマイラの手を挟み、目一杯身体を伸ばして取っ手にしがみついた。
咄嗟に扉へ近付いて獣の負担を減らすが、当然奇行の理由は分からない。そもそも外で別れたはずなのに、何故傍にいるのか。
まさか寮棟へ戻ってきた時、共に正面扉を潜ってきたとでも言うのか。
目の前の光景も相まって増々困惑を覚えるが、アライグマが振り返る事は無い。もちろん話せるはずもなく、小さな右手は取っ手に。
左手は鍵穴に差し込まれ、棚の隙間からお菓子を引き出すように中身を弄ぶ。
壊してしまわないか心配するが、強引に引っ張れば腕を折ってしまうかもしれない。鍵穴に収まる小さな手を眺め、訝し気にカミリアと視線を交わした時だった。
カチャっ――と。聞き覚えのある音に再び扉へ向き、アライグマが取っ手を降ろす。すると扉はゆっくり開かれるが、途中でチェーンが引っかかった。
僅かな隙間が開く程度だったが成果としては十分。あとはザーリーンに声を掛けるだけのはずが、アライグマの行動はそこで終わらない。
レマイラの腕から器用に取っ手へ飛び移れば、そのまま扉の隙間に潜り込んだ。
それから静寂が訪れたが、何か出来る事があるわけでも無し。ただ直前の光景を何度も反芻して、一連の流れを合理的に理解すべく思考に耽った。
だが深く追求する時間も与えられず、程なくチェーンが外れる音が響くと、疑問も自然と霧散する。
扉がゆっくり内側へ開かれ、隙間から長い黒髪を揺らしたザーリーンの顔が覗く。
「おかえり…」
「……たっ、ただいまぁー!!」
なおも呆然と佇むレマイラをよそに、カミリアがザーリーンに抱き着いた。とめどなく流れる涙は彼女の肩口を濡らし、嗚咽も胸元でくぐもる。
普段ならば静かにするよう注意していたが、“生還”の暁が理性を留めたらしい。カミリアの思うがままに行動させ、嘆息を吐いたレマイラも後ろ手に扉を閉めた。
途端に我が家へ帰ってきた心境に陥ったが、安堵はすぐに不安へすり替わる。一瞥すればアライグマが視界に入り、今も邪魔にならぬよう脇に座り込んでいた。
「捨てて来たんじゃないの…」
カミリアを落ち着ける傍ら、ふいにザーリーンがポツリと零す。怪訝そうな表情に反し、その瞳はどこか疲れているように見えた。
「…寝てたんじゃなかったのかよ。明日早いんだろ?」
「そのつもりだったけど寝れなかった……何があったの」
ベッドにカミリアともども座れば、自然とレマイラもハンモックに背中を預けた。話し合いや雑談の定位置と化した場所が、ある意味もっとも落ち着いて話せる。
それをザーリーンは狙ってか。あるいは身に着いた習慣に、身体が勝手に動いたのか。
どちらにしても伝えるべき内容を、包み隠さず彼女に伝えた。
アライグマの案内に始まり、衛兵の挟み撃ちも。不気味な声も。食券も。
そして現在に至る経緯を説明すれば、視線は一斉にアライグマへ向けられた。
「……ドアの隙間に捻じ込んだの?」
「自分で勝手に入ってったんだよ。それも鍵を自力でこじ開けて、だ」
「…ねぇ。もしかしてレマちゃんに懐いてるんじゃな~い?その時レマちゃんを怖がらずに登ってたし~」
「ガラが悪くてわるかったなっ」
「そういう話じゃない…」
小声で告げるザーリーンに会話を遮られ、続けて彼女の目撃談が語られる。
ベッドで横になっていたものの眠れず、ふいに鍵が開いて警戒を露わにした。そもそも起きていた原因の半分は、レマイラたちが合い鍵を忘れて行ったから。
では誰が扉を開ける事が出来るのか。後ろめたい事情を抱えるザーリーンも、その時ばかりは血の気を失ったらしい。
しかし開いた隙間から入り込んできたのは1匹のアライグマ。突然の登場に呆然と眺めていれば、ふと黒真珠の瞳と暗闇の中で合った。
チェーンに伸ばしていた手も止まり、残る半身を室内へ押し込めば床に着地。その場から動かなくなり、扉の留め具を「開けろ」と言わんばかりに。
何度も見上げる動作に恐る恐る従い、そして今に至っている。
「偵察用の調教…」
怒涛の1日に思いを巡らす沈黙の中、ポツリとザーリーンが呟く。すぐに注目は彼女に集まるが、途端に当てはまった理屈にレマイラは直後に。
カミリアも遅れて納得し、再びアライグマへ視線を戻した。
伝書鳩がいるように、彼もまた人間の命令に従うよう調教されたのでは。
“使役学”の講義を考えれば、犬の躾を遥かに越えるパフォーマンスは、ゴミ箱までの案内はともかく。鍵開けや未遂に終わったチェーン外しからも見て取れる。
部屋までついて来たのも、恐らくレマイラたちをご主人と認識しているから。訓練室から逃走したと考えれば、獣らしからぬ落ち着きも納得がいった。
「それで、どうする…?」
「う~ん…明日使役学に通う奴らに当たってみるか?それとなく逃げた動物がいないかどうかって」
「え~~っ、返しちゃうの~?」
「いくら賢いっつっても、見つかったらウチらの人生が終わる事に変わりはないんだぜ?もっと現実見ろっての」
「案内もピッキングも出来ちゃうんだから、きっと大丈夫だよ~」
「なんの根拠があってっ…いや、まぁ確かにソイツが賢いのは証明されたけど、だからって…」
「ほら、アライグマちゃん。他の人に見られたら危ないから、どこかに隠れてみて~?」
今にも駆け寄りそうなカミリアをザーリーンが押さえ、彼女の発言にレマイラも流石に呆れ顔。ルームメイトの長所でもあり、短所でもある能天気さに辟易していた刹那。
アライグマはヒョイッと腰を上げ、すたすたベッドの下へ潜り込んだ。あまりにも自然な流れに絶句し、当のカミリアでさえ目を見開いていた。
「…あ、アライグマちゃん?そこから出てこれる?」
ザーリーンに引っ張られてレマイラの隣に移動した矢先。ひょっこり顔を覗かせた小さな獣は、どこか迷惑そうにしていた。
一方で疑念は確認に変わり、人間の言葉を理解している事。そして自らの存在をアライグマだと認知しているのか。
あるいは本来の主が“アライグマ”と名付けたのか。
いずれにしても使役学で築かれた成果が、今やレマイラたちの手元にあった。
「……ひとまずカミリアとウチは風呂入ってくるから、その間にどうするか決めとこう」
「獣と2人きり…」
「ザーリんすっる~いっ。あたしが残るから、レマちゃんと一緒に入ってきなよ~」
「だぁ~、もぅ黙ってろ!さっさと風呂に行くんだよ!」
急き立てるレマイラが無理やり風呂支度を整えさせ、勢いのまま背中を押せば、強引に部屋の外へ突き出した。
再び夜の静けさが訪れ、取り残されたザーリーンは扉の鍵を閉め、チェーンも習慣通りに掛けていく。
それからアライグマに視線を移し、ふと思惑すると箒を扉に立て掛けた。
「さっきの2人。また鍵を忘れてったから、来たら開けてあげて…」
疑念半分、好奇心半分。まるで実験するように告げれば、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
2人が帰ってきた時点でドッと眠気に襲われていたが、それでもチラッと。軽く視線を扉に向ければ、アライグマは箒の傍に佇んでいた。
その光景に驚き半分。童心半分でくすりと笑えば、今度こそザーリーンは深い眠りに就いた。