186.権威の行方
「……お客人。なぜ、儂の事を…」
表情を殆ど覆う髭を意にも介さず、バーティミエルの――ダルグレイの驚愕が伝わってくる最中、言葉を詰まらせたアデランテが頬を掻く。
老人を一瞥すれば頭上には“ダルグレイ・サルフマン”の文字が表示され、勢いに任せた発言にいまさら引っ込みもつかない。
所在なさげに漂う妖瞳は、幸い弛緩した空気によって悟られる事は無かった。
「…あぁ~…その、だな。図書館に行った時、“大学長年鑑”を見つけたんだ。最初に会った時から、見覚えのある顔だとは思ってたんだよ…あ、あははは…」
「そんな本が発行されてたの!?」
「……仮にお客人の言う書籍があったとしても、当時の儂と今では姿に雲泥の差があるはずだ。昔は媚びへつらっていた導師とて、今日会った所で気付くまいよ」
「だ、だからカマを掛けてみたんだよ。結果は…まぁ見ての通りってところだな…あぁ、あと保釈金さえ払えばアーザーの身分は抜けられるんだろ?それなら胸張って立候補できると思うぞ」
ニッコリとアデランテが微笑みかけるが、誰も賛同する様子は無い。
オルドレッドに至ってはなおも疑惑をもたげ、パートナーと老人。そして背後に佇み、警戒を一層強める双子を交互に見つめる。
異様な雰囲気に包まれる中、やがてダルグレイも空気に馴染んだのだろう。座り直せば再びアデランテを見据え、自らを落ち着けるように髭を撫でつけた。
「…確かにアーザーを統括する身ゆえ、蓄えは十分ある。その気になれば儂1人に限らず、トータスやアキレスも出獄できよう……だがな…」
「保釈金の額が分からない、か?」
「う、うむ。その通りだ。アーザーに送り込まれてから、随分と時間が経つでな。加えて元大学長の身分ゆえ、2度と出て来られぬ金額が設定されている事だろう」
「そんな事を気にしてるのか?自分でも言ってたろ?昔の知り合いも今の顔を見分けられないって。それに今は…【旧:バーティミ】…じゃなくてッ!“バーティミエル・ナサニアス”なんだ。あんたが表舞台に出たところで、問われる前科も何もないと思うけどな」
瞳を一瞬“バーティミエル”の頭上へ向けるや、慌てて視線を落とす。まるで文字を読むような目の動きに、幸い注意を向けた者はいなかった。
ただ色違いの瞳が心の奥底を覗いているようで。人の形をしながら、捉えどころの無い“何か”に見られているようで。
不気味な客人に思わず口を閉ざすも、程なくバーティミエルが口を開く。
「…なかなか面白い提案ではあったが、大学長たる者。魔術師の頂点として、相応の力も有さねばならん」
「首輪を嵌められて魔法が使えない、か?」
「……そこまで気付かれておったとは…」
「私の“眼”は誤魔化せないからな」
悪戯っぽい笑みを浮かべたアデランテは、金の瞳を“魔法の眼”とばかりに指し、子供じみた反応にバーティミエルの失笑を買う。
それでも十分な説得力に、彼もまた観念したのか。そのまま髭をたくし上げれば鉄の首輪を見せ、重々しい見た目は囚人の枷そのもの。
現在の“魔術封じの首輪”と違い、外せるのも装着させた者だけ。最新式の物は魔術の行使で電流が流れるが、バーティミエルの鉄枷は爆発する仕様。
もはや首輪を掛けた者も死んでおり、一生魔術が使えぬ魔術師として生きる他ない。
枯れた声で語る老人は肩を震わし、愉快そうに己の身を笑ったが、背後の双子は寸分違わぬ苦い顔を浮かべる。
彼ら自身が鉄枷を嵌めてなくとも、よほど苦い思い出なのだろう。
(…魔法が使えない魔術師……何か絵本が書けそうだな!)
【知らん】
「……ところで、かつての大学長様が何をしたらココに入れられたの?」
ウーフニールから冷徹に突き放された傍らで、ふとパートナーに注意を向ける。
バーティミエルが大学長と知ってから、ずっとその事が気掛かりだったのだろう。ようやく口を開いたオルドレッドに、アデランテもまた彼女の視線を辿った。
いくらウーフニールがいても、相手の心の内まで読めるわけではない。オルドレッド同様に好奇心を向ければ、溜息を零すようにバーティミエルが呟いた。
隠すつもりもないらしく。枕に身体を預ければ、天井の日差しをゆっくり仰ぎ見る。
魔法大学の頂点に立つ者にとって、安息とは死によってのみ叶えられるもの。日々の激務もさる事ながら、周りにいるのは利益を求めて擦り寄る者ばかり。
あるいは命を狙う刺客の存在に、護衛無くして何処にも行けない。
ゆえに現実逃避すべく。もとい束の間の休息を得るべく、変装してミドルバザードに赴く事が日課となった。
付け髭や眼鏡を掛け、身分を隠した時だけがダルグレイの自由が保障される。もちろん双子の口裏合わせも不可欠であったが、市街調査の名目で歩く導師を名乗れば。
挙句に大学長“本人”の書状を抱えていれば、咎める者は誰1人いない。
文字通り自由を勝ち取れたが、一方で彼もまた大学を出られない籠の中の鳥。魔術師の頂点なれど、絵空事の魔法使いが如く空を飛ぶ事も出来なければ、壁の外を歩く機会すらなかった。
もしも前学長が外部訪問で“不慮の事故”に遭わねば、外出する勇気も湧いていたろう。
それゆえに1人で出歩く場所はミドルバザードに限られた。学徒ばかりが行き来するとはいえ、疑似的に大学の外を歩く気分も味わえる。
並ぶ品から講義で学んだ学徒の知識を吟味し、時に買ってみては試す。満足できる品であれば、こっそり実力ある導師の弟子に推薦する事もあった。
人知れず大学の未来に寄与していたが、本来この時間は貴重な息抜きのために使われるはずだったもの。
職業病に侵された自身の溜息を1杯のコーヒーで隠すが、同時に安堵も覚えた。病魔に侵されていない証拠にもう一口啜り、揺れる水面に浮かぶのは人目も毒も不安がらず。名も無き導師としてボロい喫茶店に座るただ1人の男。
大学長が得られぬ細やかな自由を謳歌するも、至福の一時にゆっくり影が水面を覆った。
――もう1杯いかがですか?
ふと記憶の中で、元気に満ち溢れた声が蘇る。振り返れば髪を後ろに纏めた娘が笑みを浮かべ、片手にコーヒーポットを持っていた。
奇襲に反応し切れず、思わずカップを差し出せば安物のコーヒーが注がれる。しかし実体は美味くも無ければ、香りもまるで雑草を煎じたような酷いもの。
お代わりする度に支払いも増え、時間と金の散財と言っても差し支えない。
それでも店員がニコリ――と。天使のような笑顔を浮かべれば、途端に何も言えなくなる。
気持ちを誤魔化すように啜れば眼鏡は曇り、付け髭もコーヒー色に染まっていく。すかさず紙布巾を渡されるが、彼女が笑みを魅せるのは相手が“導師”ゆえか。
大学長に擦り寄る者たちと同じような下卑た感情で。あるいは単純に一店員として、笑顔で客に応対している可能性も否めない。
間抜けな考えだと知りつつ、それでも試したくなるのは魔術師の性なのか。はたまた童心染みた、くだらない男心だったのかもしれない。
動機がどちらか判別する間もなく、直ちに行動を移せばアーザーの衣装を用意した。滅多に口出しをしない双子には咎められたが、構わず作戦は決行される。
念を入れて変装も変え、いざミドルバザードへ出向いたのも束の間。待ち受けていたのは道行く学徒や導師の罵倒。
蔭口など生易しいものではなく、正面から侮蔑の眼差しを向けられる。時には平然とド突かれ、危うく店頭棚にも飛び込みかけた。
その度に変装を解き、誰も彼もを火の海に沈めたい衝動を抑えて目的を思い出す。必死に足を動かして喫茶店へ辿り着くも、おかげで外見はアーザーそのもの。
小汚い見た目に、下手をすれば店から叩き出されていたかもしれない。
だが店員の娘は驚くや、慌てて店裏に消えて再び姿を現した。濡れ布巾を当てられ、ダルグレイの身を一心に案じてくれる。
そんな彼女にますます心打たれたが、ふいに娘があどけない笑みを浮かべた。
――導師の恰好してないから、そんな事になるんですよ?
クスリと告げられた不意打ちに、気付けば心の臓が凍り付いていた。
その間も治療は続けられるが、言葉を交わす内に“正体”はバレていない事。単純に新たな変装が見抜かれていただけで、同一人物だと認識されていた事を知る。
むしろ洗濯に出された導師の服を、こっそり着て回るアーザーもいるのだと。当然見つかれば厳罰では済まされないが、だからこそ“2人だけの秘密”だと。
なおも驚愕するダルグレイに構わず、ニコニコ語り掛けられる。
もちろん大学長として数えきれない苦情は浮かんだが、彼女の前では。他の学徒や導師の前では、今のダルグレイもただのアーザー。
大学の頂点に立つ者の権威など、商店街を歩く間に全て削ぎ落とされていた。
その日以来、彼女と会う時は決まってアーザーを装うようになった。道を歩けば雑用を命じられる事もあったが、隣には常に娘がいてくれる。
新参者として区画へも案内され、内職を手伝う日々は貧しくも厳しい暮らしであれ。大学長が永劫味わえない幸福へとすり変わっていく。
もちろん双子には呆れられたが、胸中は十分伝わったのだろう。決して口を挟まれる事はなく、頂点と底辺の二重生活が続いた。
片や盲信に近い崇拝と殺意を集める、ダルグレイ・サルフマン。
片やド突かれ、目も向けられない爪弾き者のバーティミエル・ナサニアス。
どちらも一長一短ではあるが、後者には隣で太陽のように微笑む娘がいてくれる。いっそ彼女の身分を引き上げ、秘書として傍に置いても良かったかもしれない。
しかしそんな事をすれば、娘を自ずと危険に晒す立場に。何よりも大学長の苦境が彼女を虐げ、笑みを奪う結果にもなるだろう。
双子に相談したところで、彼らは如何なる命令にも従うだけ。
ゆえに1人で悩み抜き、辿り着いた結論は身分も何もかも捨てる事だった。
幸い大学長になりたい者など、ゴキブリが如くいくらでもいる。満を持して計画を進めていた矢先、ある重大な問題が起きてしまった。
喫茶店に彼女が姿を現さなくなり、低層の“知り合い”に尋ねても消息は不明。比較的安全な区画に住んでいたとはいえ、その身に何が起きたとも限らない。
それからは彼女の捜索に全精力を注ぎ、大学長の任すら疎かになった頃。ダルグレイの成果を嘲笑うように、娘から彼の前に姿を現した。
会議室の研究発表会で、中身のない。人形同然の身体を椅子に横たえて――。
「――……*********っっ!!***~~っっ!」
その隣では名も顔も覚えていない導師が嗤い、己の研究成果を披露していた。
生命エネルギーを魔力に還元する事で、魔晶石の充填率を大幅に向上させる話を。殻になった肉体も研究を進めれば、いずれ奴隷のように動かせる話をしていたように思う。
アーザーという素材を効率的に運用し、区画の治安も改善される案に、“○○”があってこそ成し得たと。
声高々に発表され、彼を惜しみなく称賛する喝采も、ダルグレイの耳には届かない。
娘の悲惨な姿に意識を向けていたがゆえに。何よりも心の内を蝕む、酷く冷たい感情が魂を貪り尽くしたからだろう。
気付けば会場に沸き起こる歓声も、阿鼻叫喚へ移り変わっていた。
会議室を出たのは大学長と双子だけ。娘も両手に抱えていたが、もはや“殻”に生命は宿っていなかった。
程なく彼女は息を引き取り、双子も直後に護衛の任を解いた。
時を待たずして衛士隊に連行され、導師虐殺の罪で投獄。以降は鉄枷を嵌められ、アーザーの身に堕ちていた――。
「――…そして儂は大学長の座や一切の功績を剥奪され、アキレスやトータスも勝手に区画までついてきたのだ…愚か者どもめ」
「あの場で止め、報復手段に暗殺を推奨出来なかった我らの失態でもあります」
「…よく死刑にならなかったわね」
「魔術を奪われた者は死んだも同然の扱いでな。加えてアーザーの区画に堕ちれば、元導師など普通は生きて帰されんよ」
「その割にはずいぶん達観してるのね。魔法も2度と使えないかもしれないのに」
「一生分の魔術は会議室で使ったでな。悔いも何もありゃせんわい」
「…少しいいか?さっきの魂を抜いたって話。どうやったか聞いてなかったか?」
「当時は頭が真っ白になっていたでな。アキレスやトータスは何か聞いとらんかったか?…その顔は知らなそうだな。何か思う所でもあったのかね?」
髭を撫でながら眉をしかめる彼に、何でもないと静かに身を引く。彼の話や鉄枷がロゼッタを彷彿させたものの、わざわざ話題を振る必要もない。
何よりも彼らが集中すべき議題は、もっと別の所にあった。
「…で、話を脱線させてしまったのは私だけれど、大学長就任の件。悪い案ではないとして、あなたはどうなの?バーティミ……ダルグレ…っ」
「バーティミエルで良い。お客人らの提案に乗るのは…やぶさかではないが、1つ聞かせてもらいたい。もしも儂が魔物を討伐した功績に、今ここで脱出路の案内を申し出たとしよう。お客人らはどうするかね?」
「そうね。ジュゼッテ候補が魔物の件に関わっているのなら問い詰めたいし、ガルミナバ候補は魔術師の軍勢でも組織しそうだし…今大学を離れても良い事はなさそうね」
「…アデライト、であったな。彼女と同意見なのかね?」
バーティミエルの視線を始め、双子の護衛もジッとアデランテを見つめる。
だが最初に妖瞳を向けた先はオルドレッドだった。
先走った回答に後悔を覚えた様子が、ありありと彼女の顔に浮かび。長い耳もしゅんっと萎れ、みるみる身体も縮んでいく。
もしもアデランテが帰ると言えば、彼女も文句を言わずに付き従うだろう。その後も決して話を蒸し返さず、パートナー契約もきっと続けていく。
だからこそ普段ならウーフニールに相談したろうが、彼は一貫して関与を否定。オルドレッドに付随する判断を託されたおかげで、胸を張って笑みを浮かべられた。
途端にパートナーも表情を明るくし、同時にバーティミエルの出馬が決定。皴がれた顔には先行きへの疲労も窺えたが、一方で何かを期待するような。
遠足へ赴く子供のように目を輝かせ、感情を誤魔化すように髭を撫でつけていた。