178.豪風と共に去りぬ
凶悪な風が身体を叩きつけ、みるみる区画が遠ざかっていく。かと思えば急激に下降し、建物へ近付けばまた大空へ浮かぶ。
風にはためく布切れのような飛び方を強いられるが、魔物にとっても不快だったろう。忌々しい鎖はなおも絡みつき、挙句に2つの“餌”が離れない。
片や共に縛られた身。執拗に武器で斬りつけてくるが、木っ端が掠る程度の痛みしかない。
残る一方は尻尾で武器を掴んでいるとはいえ、いくら振り回してもしがみついてくる。
体力が尽きるか。それとも自由が先か。
思わぬ耐久勝負にもつれ込んだのは、百歩譲って良しと出来よう。
しかし唯一耐えられないのは、餌同士の怒鳴り合い。吹き付ける風をも貫き、魔物の鋭敏な聴覚にあまさず届く。
「――…だから武器を放しなさいよ!あなたまで付いてくる事なかったでしょう!?」
「こっちにも事情があるんだ!そもそもお前1人で行かせるわけにはいかないし、大体オルドレッドはチョトッ……ちょと…【猪突猛進】過ぎやしないか?先輩冒険者って言うなら、もっと慎重かつ冷静に対処をだな…ッ」
「悪かったわね、考えなしで!!やらずに後悔するより、やって後悔する派なのよっ。文句があるなら今すぐ武器を手放して、パートナー契約でも打ち切ったら!?」
「私もよくウーフ…知り合いに同じ事を注意されるから言ってるんだ!直さないとイヤって程苦労するぞ!!」
「だったらお互い様なんだから、こんな時に言う必要はないんじゃなくって!?」
「だから片方はせめて冷静であるべきだと言ってるんだ!私のは死んでも治らないからなッ!」
「何言ってっ……あなた降りたら憶えてなさいよ!」
両者一歩も譲らず、増々滾っていく咆哮を上げていた最中。ふいに鎖が緩めば、オルドレッドを襲った浮遊感に会話が切れる。
慌てて彼女は鎖を掴んだが、解放されたのは一瞬だけ。直後に魔物が翻った拍子に再び締め付けられ、胸ごと縛りつけられてしまう。
衣服は悉く脱げ、肌に食い込む鎖に胸が零れ出すが、一方のアデランテは四方に振り回され。武器を放されても尻尾にしがみついていた。
尾の先で開閉されるカギ爪を避け、魔物の後ろ蹴りも躱し。必死に手繰っていけば、ようやく尻まで到達出来た。
(くっ…ウーフニール!こいつの弱点とか分からないか!?)
【知らん】
(突き放すように言わなくったっていいだろ!?それに大学で本読んだり、講義を聞いてたんだから、何か1つ位使えそうな情報を…)
【ウーフニールの臓書を愚弄するならば、女に聞いたらどうだ】
(バカにしたわけじゃなッ……なんで私はさっきから口論ばっかりしてるんだ!非常事態なんだぞッ!?)
【言い争ってはいない。貴様が一方的に騒いでいるだけだ】
(あーそうだよ!ぜんぶ私が悪いから何か案をくれよ!!)
【大学敷地外へ接近した場合、滞空魔法が発動し撃ち落とされる。始末、もしくは離脱するならば急ぐ事だ】
(…そんな話いつあった…って先に言えぇぇえぇッッ!!)
魔物の身体を掴みながら這っていき、まずはオルドレッドを一直線に目指す。彼女の解放が優先されるも、ウーフニールの警告に咄嗟に下半身を浮かす。
辛うじて尻尾のカギ爪を躱し、2撃目を蹴り付けたのも束の間。激しく揺れた魔物によって、造作もなく宙へ弾き飛ばされてしまう。
風に身を委ねれば、そのまま水没した街へ落下していた事だろう。だが反射的に伸ばした腕は、咄嗟にオルドレッドの足を掴んでいた。
「痛たたたたたたっっ!!千切れっ…痛ぁいっ…!?」
「悪い!もうちょっと耐えてくれ!すぐ昇るからッ!」
「離せとは言わないけれど、もうちょっと優しっひゃんっっ!?ドコ触ってんのよ!」
「あんまり暴れると2人してすっぽ抜けるぞ!」
「んんみゅぅうっっ…だ、だからって股を乱暴に掴まな…痛たたたたっ!胸が、胸がもげる!もげるからぁ…」
胴体まで上り詰めるや、すかさず胸の谷間に腕を突っ込む。鎖を力任せに引っ張るが、掴み方1つで艶っぽい声が洩れれば苦悶にも変わる。
痛みからか。それとも名状し難い別の感覚からか。
瞳を潤ませたパートナーがキッと睨むも、脳裏をよぎるのは彼女の痴態ではなく。仄暗い穴の底で蜘蛛の巣に絡まっていた頃の悲痛な姿だった。
当時は意識もなく、助けた後もずっと沈んでいた彼女が、今や大空で様々な表情を見せている。誰かを助けられた実感が、非常識なタイミングで沸々と込み上げてしまった。
「…ははっ。オルドレッドを初めて助けた時もこうやって身体を登って…」
「はぅぅ…な、何の話よ、助けたって、あぁんっそこは…痛ぃ!もっと優しくして…っ」
「ほら、洞くッ…の、飲み会の時に色々あってだな…」
「胸を揉むような事があったの!?」
驚愕するオルドレッドに愛想笑いで誤魔化すも、直後に魔物が大きく身体を揺らした。衝撃で2人を繋ぎ止めていた楔も抜けたが、魔物まで解放されたわけではない。
辛うじて残っていた鎖に掴まり、オルドレッドはアデランテに抱き着く。落下の衝撃で命綱は軋み、伸び切った歪な音が魔物に醜い悲鳴を上げさせる。
だが暴れたおかげで首に絡まった一巻きが、お互い最後の楔と化したらしい。
片や自由を。片や平和を守るため。
両者共に譲れない闘争の最中、ダークホースが赤い瞳を灯した。
冒険者たちを完全に敵と見なし、華麗な宙返りを決めれば一気に下降。鋭い角を突き出しながら、まっすぐ2人に向かってきた。
直撃すれば2人まとめて貫ける軌道に、アデランテが大声を張り上げる。
「…ッッ脱臼したら後で謝る!!」
返答を待つ事なく、掴んだオルドレッドを強引に投げ飛ばした。反動で横にズレ、アデランテもまた引っ張られて一撃を辛うじて躱す。
しかしあくまで“辛うじて”。
脇腹を抉られた激痛に顔を歪めるも、オルドレッドの視線に慌てて取り繕った。咄嗟に彼女の腕を気遣えば脱臼の心配は無かったが、ゆっくり会話をしている暇もない。
鎖が再び張り詰め、上空へ引きずるようにアデランテたちを連れ去っていく。
「…~っっ、な…何か案があれば聞きたいのだけれど?!」
「…ざ、残念ながら思い付くものは…何もないな」
(ウーフニールは…?)
【皆無】
誰1人解決策が浮かぶ事なく、宙返りを決めた魔物が再度攻勢に出る。腹の傷は治ったものの、覚悟を決めてオルドレッドをギュッと抱き込んだ瞬間。
「――そのまま掴まってて!!」
それまで向かい合っていたオルドレッドが反転し、慌てて彼女の腰に腕を回す。視線の先に角を突き出す魔物を捉え、特攻を仕掛けてくる姿に臆する様子はない。
双剣を握ったまま身体を捻り、やがて先端が突き刺さる瞬間。勢いよく腕を振ったオルドレッドは、1本目の刃先を角に。
2本目で頭部を斬りつけながら、独楽の如く回転して魔物の表面を滑っていく。
その間も決して彼女を離さず、共に回ったおかげで目が回りかけたが、ウーフニールのおかげなのだろう。
酔いも視界もすぐに復活し、血塗れになった魔物の後ろ姿を捉えた。対人では到達しえない“冒険者”の腕前に唖然とするも、すぐに鎖が引っ張られる。
頭上にぐんぐん引き上げられるが、ふいに宙で留まれば赤い瞳が2人を見下ろした。
次は一体何を仕掛けてくるのか。オルドレッドは武器を。
アデランテは彼女の腰をギュッと抱くが、直後に吐かれた業火は鎖に当てられた。
もはや冒険者たちの対処を諦め、楔を焼き切る作戦に戻ったのだろう。一石二鳥の案に苦虫を噛み潰すも、“苦み成分”が効いたのか。
ふとオルドレッドを一瞥すれば、視線に気付いた彼女もアデランテを見つめる。
「…さっきの話。良い案かはともかく、思い付いた事があるんだ」
「この状況で?…きゃっ!」
グッ、と。強引にオルドレッドの腰を引き付けるや、再び互いに向かい合う。
「――何があっても、この先私のことを信じてくれるか?」
青と金。色違いの瞳は魂まで覗き込むようで、惚けたオルドレッドもコクリと頷く。
首を横に触る力もなく、アデランテに抱かれていなければ。宙に浮いていなくば、床にへたり込んでいた事だろう。
誓いの言葉が如き声音に返答は出来ずとも、アデランテには十分だったらしい。笑みを浮かべた事でまたドキリとさせるや、直後に身体を抱き寄せる。
豊満な胸もアデランテの胸板に押し潰され、鼓動が痛い程早打つ。せめてもの抵抗にオルドレッドが身をよじれば、逃すまいとさらに抱きつかれてしまう。
そもそも緊急事態に何を考えているのか。アデランテを咎めようと口を開くも、突如近付いた顔に思わず瞳を固く閉じた。
だがジャラリ――と。耳元に届いた異音に目を開ければ、直後に腰に纏わりつく不快な硬度と冷気に我に返る。
見下ろせば鎖が巻かれており、少し上に登ったアデランテの手には魔晶石が跳ねている。
ハッとなってポーチに手を突っ込めば、中身はすっからかん。人が惚けている間に盗ったらしく、睨みつけようとするも時すでに遅し。
笑みを浮かべたアデランテに絆され、次に紡がれた言葉を聞くのが精一杯だった。
「派手に行くから掴まってろよ!!」
まるで悪戯小僧の如く。威勢よく言い放てば魔晶石が投げられ、吐かれる炎の中へ消えた瞬間に爆発。
突然の事にオルドレッドはおろか、驚いた魔物も思わず火吹きを止めてしまう。
黒煙が上がる間に素早くアデランテは登り、途中で肉を焦がす熱が掌を伝わっても、構わず魔物を目指した。
おかげで接近には成功するが、煙幕を抜ければ流石に勘付かれてしまう。直後に強烈な前脚を叩きこまれてしまい、骨を砕く威力に強行突破も敵わない。
片脚を掴んでも残る1本に蹂躙され、作戦失敗が脳裏をよぎった時。突如魔物が悲鳴を上げるや、猛攻が瞬く間に止む。
見上げれば敵の目元に矢が生え、見下ろせばオルドレッドが弓を構えていた。呆れ混じりの視線に笑みで応えたいが、魔物が悶える隙に登らねばならない。
さもなくば、次に撃たれるのはアデランテな気がして。パートナーの鬼気迫る雰囲気に、慌てて鎖を伝っていく。
そのまま勢いに任せて魔物の頭に到達し、途端に気道を塞ぐように首を締め上げれば、掠れた絶叫と抵抗が始まった。
カギ爪の尻尾は伸ばしても届かず、脚で蹴ろうにも当たるはずがない。やがて怒りを露わに炎を吐いた瞬間、ようやくアデランテも片手を離した。
口先に向けて小袋を投擲し、魔物の目と鼻の先で複数の魔晶石が爆発。大規模な爆炎はアデランテをも包み、オルドレッドが悲鳴を上げた矢先だった。
ふいに足元をすくうような浮遊感が襲い、みるみる身体に風が纏わりつく。眼下の町並みが徐々に近付き、通常ならば胸中が絶望で満たされる光景だろう。
しかし不思議と脳裏によぎるのはダニエルの顔でも、自分の過去でもない。つい先程まで一緒にいたパートナーの顔で、それも満面の笑みを浮かべていた。
身体を切り裂くような風を突き抜けようとも、何処か実感を覚えないのは。危機感を煽られないのは、ひとえに人生初の空中戦ゆえに。
そしてアデランテが魅せる、人間離れした戦闘のせいだろう。
おかげで心の奥底でまだ何とかなる気がして。それでも重力に逆らえるはずも、増してや飛べるはずも無い。
漠然とした心ばかりの希望は、突如身体が僅かに浮いた事で現実味を増した。ジャラリと鎖がオルドレッドを引き上げ、見上げた先にいたのは見知った人物。
目を擦っても消える事はなく、手繰り寄せる相手に負けじと登っていく。
そして手の届く距離へ近付けば、互いの指を絡めながら鎖を外し、飛びつくようにアデランテの首へ腕を回した。
「……よかった…本当に……心配したんだからっっ!この考えなしっ!!すけこまし!マヌケ!ろくでなし!」
「オルドレッドも無事で良かったよ…まぁ、今の所はだけどな」
黒煙を節々から上げつつ、アデランテに抱き着くオルドレッドの罵倒は止まない。流れる涙も空へ吸い込まれていくが、安堵した途端に現実が急速に押し寄せてくる。
それも建物の天辺がみるみる近付く形で、走馬灯こそ視えずとも、代わりにオルドレッドの視界にはアデランテが一杯に覆い尽くしていた。
「…あ、アデライト?あの…もし無事で済まなかったら…今のうちに伝えておきたい事があるのだけれど…」
「降りてからじゃダメなのか!?」
「それじゃあ遅すぎるの!!だから今聞いっむぎゅぅうっ!?」
「だから後にしてくれッ!」
オルドレッドの呼びかけも虚しく、抵抗しようにも胸板に抱え込まれてしまう。
だが隙間からはアデランテの顔と。その双眸が建物の屋根へ向けられている事だけは窺える。
直後に剣が抜かれるも、視線はいまだ落下位置に固定されていた。このままでは建物に直撃するだろうに、アデランテの鼓動に変化はない。
力強く、落ち着いた動悸に身を任せたまま。やがて屋根に接触する瞬間に剣が振られ、刃先が激しく叩きつけられる。
鈍い轟音を耳に残し、建物から弾かれるように2人は宙で回転。アデランテに覆われたのを最後に、一際大きな水音がオルドレッドを包み込んだ。