176.観ずの都
朝を迎えても日は昇らず、曇天が空をどんより覆う。1日を始めるには適さない天候だが、幸いアデランテの“予報”は外れた。
朝一で顔面に拳を受けるはずだったものの、オルドレッドより一足早く起床。抱き枕状態をウーフニールの手腕で抜け出すが、おかげで朝から身体が疼く。
劣情をやっとの事で落ち着けるも、ふと目覚めたパートナーの視線が向けられる。
最初に彼女が見たのは荒げた息を殺し、頬を上気させたアデランテの姿。まるで高熱に見舞われたようで。
銀糸から覗くまどろんだ瞳が、見る者の情欲をくすぐる。
「…お…おはよぅ」
「……おはよーございます…」
目を瞬かせるオルドレッドを尻目に立ち上がるが、その動きもやはりギコチない。筋肉痛にでも遭ったように見えるも、先日1人で暴徒を殲滅した功績もある。
疲労を覚えたとしても仕方がなく、もう1日休息していくべきか。
寝起きの火照りとは別に、煮え滾る熱気を払うオルドレッドが提案するも、アデランテの先導に俯きながらついていく。
互いに朝から出鼻を挫かれたが、依頼を休む口実にはならない。複雑な契約模様に嘆息を零しつつ、とにかく目的地へ向かう事に専念した。
しかし気怠さを払うように1階へ降りた時――バシャリと。片足が水溜まりを弾き、慌てて下がれば一帯を水が浸かっていた。
洪水の原因は仮宿の住人。そしてウーフニール曰く、夜の内に降った雨らしい。
設置された下水道が稚拙なため、排水が間に合わずに町は一晩で豪雨に沈む。
酷い時は2階まで浸水し、ゆえに住人たちは雨の日。または就寝前に、必ず1階の道具や家具一式を上階へ運び出す習慣がある。
タダで飲み水を得られる貴重な機会でもあるが、一方で寿命を迎える者がいない要因の1つとも言えよう。
溺死。病死。
栄養失調。苛酷な勤務体制。
身体が擦り切れるまで酷使するが、それでも彼らは懸命に働く。家族のため、自分のため。生活のために内職し、大学内の仕事を請け負う者もいる。
そんな彼らを見習うように、アデランテもまた悪路に構わず目的地へ突き進んだ。
渋るオルドレッドを強引におぶり、半身まで浸かる水量を物ともせずに。
「……流石にこんな所で降ろして、とは言わないけれど…何してくれてんのよ?」
「頼むから暴れないでくれよ?ずぶ濡れで探索して風邪でも引かれたら目も当てられないからな」
「…一応言わせてもらいますけどね。私の方が年上で、それも階級は同じでも先輩冒険者なのよ?激流だって渡った事もあるし、この程度どうって事ないわ」
「生憎女扱いしろって誰かさんに注意されたばかりでな。せっかく綺麗な肌をしてるんだ。身体を大事にしてくれ……な?」
振り向いてオルドレッドに微笑むが、彼女の瞳に映るのは魔物の爪痕が残る右頬。かと言って左の横顔を見せれば、古傷を晒しただけだろう。
「…人のことを言う前に、自分のことも大事にしなさいよ」
「ははは。よく言われる」
肩にキュッと掴まり、消え入りそうな声で呟かれたうなじがこそばゆい。
しかし耳が痛い程。主にウーフニールから頻繁に聞く台詞に、つい笑みが綻ぶ。
他人の命より身の安全を考えろ。
戦線離脱。撤退が最優先。
1度も従わなかった彼の警告に、何度溜息に似た唸り声を零されたろうか。
あるいはオルドレッドと会えば、きっと話も合ったに違いない。アデランテでなく、彼女と融合していれば彼も今ほど苦労もなかったはず。
一瞬失いかけた自信に首を振り、自分を無理やり奮い立たせれば水を割るように突き進んだ。
“変幻自在のウーフニール”はアデランテだけの怪物で、アデランテだけの半身。何よりもオルドレッドに身体を失う怪我を負って欲しくも無かった。
十分な説得材料に1人頷き、引き続き青い煙を追った矢先。直後に肩をクイっと後ろへ引かれ、オルドレッドの胸が押し当てられる。
艶やかな唇も耳元へ寄せられ、そよ風のような小声が囁かれた。
「…洞窟のおじいさん。あなたはどう思う?」
「どう、って犯人の一味ならとっちめるし、関係ないなら出来る限り穏便に。ってだけの話だと思うけど…何か怪しい点でもあったか?」
「ううん。学長候補様の時もそうだけれど、あなたって質問する時にその場で噛みつくんじゃないかって気迫がたまに感じられるから、むしろ怪しいって確信を持てる材料でもあるのかと思ったのよ」
「一応疑わしい連中の親玉だから、気合を入れてただけなんだけどな…」
(私って質問してる時に尋問してるような声音で話してるのか?)
【知らん】
漠然とした疑問や不安が浮かんでは沈んでいく。そう思えるのも、全ては半身に纏わりつく水のせいかもしれない。
周囲を見回せば辺りにはゴミや家具。服などがプカプカ漂い、ソレらを住人が順次拾っていく。
それも地域清掃の一環でもなければ、落とし主に届けるためでもない。全ては金になるか、それとも使えるか次第。
拾っては捨て、目を輝かせては回収する姿が各々の価値基準を物語っていた。
彼らの中には徒歩で進み、腕に抱える者。わざわざ籠を背負い、万全な態勢で臨む強者。
そしてボートを漕いで効率的に回収していく住人もいた。
町中の珍妙な光景に気は紛れるが、ふいに真横を流れたボートが止まり、若い男の船頭が冒険者たちを一瞥する。
「おぅ。お宅らがカルアレロスんトコの護衛なんだってな!こんなトコまでご苦労なこった!」
「……私らの事を知ってるのか?」
「当ったり前だろう!?オイラたちは大学内でも仕事してっからな。閉鎖的な場所だから余計に噂が広まるのも早ぇってわけさ…そんで何処へ向かってんだい?」
「赤い所までだ」
「…ドコだって?」
「だから赤ッ……じゃなくて、憲兵がいる所だ」
最初は笑みで。それから困惑で。
最後に顔を歪めれば、彼の正直さが漏らさず伝わってくる。
当初は客人を舟に乗せ、ちょっとした小遣い稼ぎのつもりで声を掛けたのだろう。だが行き先はよりにもよって“赤い区画”。
無法地帯と貧民町の境界線に、彼が後者の住人である事はすぐに見て取れた。
気まずい沈黙があと数秒と続けば、船頭も口笛を吹いて去っていたろう。オールが微かに動き、視線も少しずつ冒険者たちから外れていく。
ところがオルドレッドが急に暴れ出し、辛うじて踏み止まれば彼女も腕を首に回す。水飛沫を上げる間も袖から書状を取り出し、素早く広げれば青年の視線が文字を辿った。
短い文面にすぐ読み終わり、顔はしかめても首で乗るよう促してくる。見合わせた冒険者は遠慮なく乗り込み、まずはオルドレッドを尻から滑るように。
それからアデランテが馬に跨る要領で乗船した。
安物の舟に2人分の重量が加わり、先客たる漂流物と合わさって縁近くまで沈むが、沈没の不安を覚える頃には不安定な舟旅はすでに始まっていた。
「……そんで、仕事はうまくいってんのか?」
「…何の話だ」
オールが沈んでは浮かび、水面を緩慢に叩きつける。しばし続いた沈黙も、やがて好奇心に負けた船頭の一声で破られた。
「とぼけなくても良いだろい?大グラウンドに魔物が出てきたって話。向こう側の連中は犯人がコッチにいるってんで、護衛さん方が捜査してんだろう?もう誰か分かってんのかよ?」
「始めたばかりで取っ掛かりが区画の奥だけってのが正直な所だ。もしかして何か知ってたりしないか?」
「悪ぃけどミドルバザードの掃除係しかやってないんで、あんまそこいらの事情に詳しくないんだ。それに“ココ”だって奥の奴らよりマシってだけで、やりかねない奴もいっからな」
「…随分と明け透けに言うのね」
「本当の事だし、大学側からすりゃ皆同じだかんな。それに爺様がよそ者に許可証を渡したんなら、うまくやってくれるって信じるしかないだろうよ」
斜に構えた青年に呆気をとられるが、書状の力に驚く間も彼の話は続く。
これから訪ねる憲兵団は、“地元”でも乱暴な事で有名で。管理方法の一環に暴力を駆使するため、接触に極力注意するよう促された。
彼らが守る境界線の先は“裏地区”とも呼ばれ、潜む住人は小悪党から人殺し。大学の転覆を図る一派までいると黒い噂が後を絶たない。
タダで連れていく代わりに、検問より手前で降ろす話も舟上で締結される。
「――それで、あなたも下水路の話は知ってるのかしら?」
「密輸の話なら公然の秘密って感じだな。爺様にも関わるなって言われてんで、オイラは何も知らんよ。知らない方が幸せってやつだな」
「随分と爺さんを慕ってるみたいだな。世話になってるのか?」
「そりゃココで産まれて育ったからな。親父も、大抵の奴らは爺様の世話になってる。必要な物とか、仕事先とか、色々紹介してもらってんだ」
「…おじいさんがココに送られてきた理由。あなたは分かったりしない?」
「それと2人の学長候補の内、あんたはどっちを支持してるんだ?」
「お宅らグイグイくるね…えーーっと爺様?の事はよく知らね。産まれた時からいるし…そういや爺様といる双子の兄弟もずっと一緒だったって親父言ってたかな……で、大学のボスは誰が良いかって?負けた方が大学を出てくだけだろい?オイラたちのボスは爺様だけだし、誰が上に立とうが関係ねえわな」
アーザーへ疑いが掛かる以前に、魔物騒動そのものに興味がないらしい。大学の情勢も眼中に無く、今も町が水没しているからボートを漕いでいるだけ。
敵でも味方でもない相手にオルドレッドと目が合うが、ふと彼女の視線が青年へ戻される。
「…ところで出会い頭に言ってたカルアレロス様の護衛の話。あなたたちの間では、もう周知の事実って事なの?」
「おぅともよ!色んな魔術師どもが護衛やら傭兵やら雇って、中には生徒の取り巻きを肉盾みてえに連れてる奴もいっけどさ。大学一の美男美女!ってんで、あちこち噂になってるわな」
「……美“男”美女?」
【“ウフニィル・アデ・ライト”。ギネスバイエルンにて登録した性別】
(…あ、ああッ!!そういえば今は男の身体だったな。すっかり忘れてたよ)
「…で?噂ってどんなものが流れてるのよ」
「さっき言ってた大グラウンドの魔物の話さ。導師が2人もいたんに、お宅らだけでやっつけたって本当か?あ、それと冒険者を夫婦でやってんのもスゲーって生徒がよく話してたぞ」
尋ねる権利が青年に移り、漕ぐ手を止めれば目を輝かせてくる。反応に困る質問に首を傾げるも、トンっ――と。
ふいにオルドレッドが首筋にもたれかかり、熱い吐息が弱々しく吹きかけられる。背中に否応なく胸が押し当てられ、振り向いても肩に埋まった彼女の顔は見えない。
それでも長い褐色の耳は、赤く染まっていく様を隠せずにいた。
「…おーい着いたぞー」
掛けられた声に前へ向き直れば、左右は反り起つ壁。小舟が辛うじて収まる狭い路地に停泊し、それ以上先に進むつもりは無いらしい。
取り決め通りの終着点に感謝を述べ、小さな隙間へ足を滑り込ませれば、水面を叩きつけると同時に腰まで浸った。
冷気が瞬く間に背筋を駆け昇り、ブルっと一瞬身体を震わすも、すぐに慣れると背中を舟に向ける。
あとはオルドレッドを背負うだけだが、顔を伏せたまま動く様子はない。
「オルドレッド?」
「…もうちょっとだけ待って」
肩口をキュッと摘まむ彼女の腕を見つめ、視線を移せば耳元はまだ赤い。船頭も客人を訝し気に見下ろし、覗き込もうと身体を傾けてくる。
「どうしたい?まさか船酔いしたんか?」
「いや、問題はない。もう少しだけ待ってくれ……あと運んでくれてありがとな。面倒事に巻き込まれる前に、早く戻った方が良いぞ」
「いんや。こいつは乗り掛かった舟だ!爺様の客人放って帰ったら顔向けできんし、戻ってくるまで待ってるぜい」
「…ヤバそうなら迷わず逃げてくれ」
「馬鹿にすんなよう?これでもずっと住んできた町だ。ちょっとやソッとの脅しでビビるオイラじゃないさ」
「万が一の時は巻き込まれないようにしてくれって話なんだ。魔物を運び込んだ連中が何するか分かったもんじゃな…ッ」
それまで長閑な表情を浮かべていた青年も一変。アデランテも言葉を切るや、水面に巨大な波紋が走った。
小舟も両脇の壁すら激しく揺らし、直前に聞こえた破壊音は何かが崩れたようで。青い煙が伸びた先から断続的に響く振動に、オルドレッドさえ顔を上げた。
互いに見合わせれば、言葉を交わす必要もない。青年に避難するよう指示したのち、迷わずパートナーは水に飛び込んだ。
水面を割るように駆けたオルドレッドを追い、共に奥へ急いで突き進む。