172.奴隷区“アーザー”
カルアレロスたちと別れ、引き返したアデランテたちは即座に学長室を去った。扉を抜けた先の道順は、ウーフニールに頼らずともハッキリ記憶している。
監獄へ向かうようなトンネルを進み、最後は飾り気のない応接間へ出るはずだった。
だが扉を抜けた先は文字通り、何もない一室。壁や床に清潔感はあれど、家具の類は一切無い。
出口も背後の“入口”しかなく、罠さえ警戒する到着地に思わず戸惑った。
それでも度重なる運用で、多少は異様な光景にも慣れたのかもしれない。互いに目配せをすれば、すかさずオルドレッドが書状を突き出す。
「…“鍵を回さば門は開く。オルドレッド・フェミンシアに命じるは、導師レミオロメ・ジュゼッテなり!”」
「よく名前を覚えてられたな」
呪文の最後にポツリと零すや、オルドレッドが訝し気に見つめてくる。直後に光った扉が注意を前方に移し、アデランテが取っ手を掴むや、素早く手前に引くと同時に脇へ飛び退いた。
身体を動かしたのは、ひとえに“アーザー”の区画を警戒してか。あるいは書状を渡した、レミオロメ自身を信用していないせいだろう。
耳を澄ませ、全神経を扉向こうへ傾けるが奇襲の気配はない。再び互いに見合わせ、ゆっくり外を覗こうとした刹那――。
「――いつまでそこにいるつもりだ。外の者」
ふいに部屋の外から話しかけられた声に、背筋を反射的に伸ばす。肩を並べて扉を抜ければ、視界に飛び込んだのは土の壁で造った建物の数々だった。
未舗装の道にはゴミに紛れ、服の切れ端を着た住人たちの姿も見受ける。それだけで踏み入れた先を理解するや、背後で閉まった扉に思わず振り返った。
直後に4人の衛士と目が合い、物珍しい客人に彼らも眉を顰める。それぞれ赤と青の制服に身を包み、誇らしそうに佇む彼らも所詮は門番。
魅力的な仕事には到底見えず、アデランテなら数分と経たずに飽きるだろう。
視線を逸らした彼らに倣い、すかさず正面へ向き直れば、小汚い大通りをオルドレッドが歩き出した。
彼女の背後を追従するが、風が運ぶ悪臭に思わず顔をしかめる。
「……誘っておいてなんだけれど、大学に来たの。だんだん後悔してきたわ」
小声で零したオルドレッドに同意しかけ、咄嗟に傾げた首をグッと堪えた。
彼女が“後悔”しているのは、アーザーの区画を訪れた事ではないだろう。条件付けの多い護衛業務はともかく、1番の問題は大学長候補の特別依頼。
口をへの字に曲げ、喉の奥に鬱憤を押し込めていたオルドレッドも、やがて弾けたように愚痴を零した。
「…それにしても彼女に突然話しかけないでよね。驚いちゃったじゃないっ」
「話したければ話せと言ったのはオルドレッドだろう?」
「相手はちゃんと選びなさいよ。あの女、下手に刺激すると絶対面倒な事になるんだから」
「依頼の内容に関してか?」
「何もかも全部よ!準導師様…カルアレロス導師の伝手がなかったら、絶対に引き受けてなかったわ…」
囁くような声であれ、憤慨している様相は表情からも伝わる。
そんな大学長候補レミオロメ・ジュゼッテの依頼は2つ。実行犯の確保に、相手陣営が依頼したであろう証拠の発見。
直接口にはしなかったが、悪質な違反行為が明るみに出れば、相手候補の落選は確実だろう。
さらに評判がうなぎ上りの導師2人を抱え込み、彼女の足場は盤石。挙句に物的証拠がなくとも、事件の有力な目撃者はレミオロメの手中にある。
それだけに留まらず、2人が依頼を遂行する間はカルアレロスの講義も止まる。開講条件は事件解決のみで、そのためにも速やかな調査が必要になるだろう。
そして極めつけは、彼女が払う依頼金。“言い値”で提示されるも、カルアレロスの立場を尊重する以上は高額請求も出来ない。
依頼主を気遣う冒険者たちを悪用する手口に、オルドレッドの怒りはなおも続く。
「――それに放たれた魔物に関する言い分も“自分が同じ手口を使うなら”って話し方だったでしょう?あの女。柔らかそうな物腰して、嫌ってくらい腹黒いわね」
「依頼人を押さえられてる以上、大学を出たくとも帰れないしな。確かにやり手だ」
「…息抜きのつもりだったのに、面倒事に巻き込んでごめんなさい。無事出られたら依頼料はあなたに全部渡すわ。それで許してもらおうなんて思わないけれど」
「別に迷惑ではないさ。それに大学長が決まれば、選挙も終わって仕事も早く終わる。悪い話じゃないだろ?」
「……楽観的というか…そんなに堂々と言われたら、その内罪悪感を忘れちゃいそう…だから怒る時はちゃんと言いなさいよ?じゃないと……甘えちゃうんだから…」
「言う事はハッキリ言ってるつもりなんだけどなぁ…」
拗ねるように視線を逸らすパートナーに、アデランテも困ったように首を傾げる。再び掛ける言葉を探すも、ふと見つめればオルドレッドがクスリと笑った。
愚痴に耳を貸したおかげで、ガス抜きも十分出来たのか。地面を踏みつけながら歩いていた足取りも、今や蝶のように軽い。
機嫌を直した様子にホッとするも、会話する間に随分と奥まで踏み込んでいたらしい。衛士の巡回とすれ違わなくなり、道端もゴミの量が一層増えている。
座り込む住人の瞳も死人のようで、貧民街を彷彿させる景色に溜息を零した。
大学の闇が赤裸々に語られる通り道だが、何も全てが悪というわけではない。荷を担いで往来を歩く者や、日差しに身を委ねて寝転がる者もいる。
通り過ぎ際に屋内を眺めれば、洗濯や家具の製作に取り掛かる者。あるいは大量の杖を彫る作業に従事し、充填前の魔晶石を磨く姿も見受ける。
職人のような眼差しで仕事に没頭しつつ、時折見せる笑顔が心のゆとりを示していた。
皆一様に服装はボロいが、麻袋のローブを着ている者はいない。大学へ赴くための仕事着なのかもしれないが、何よりも賑わいを感じさせるのは、走り回る子供たちの姿だろう。
家族で固まる集団も見え、彼らの笑い声が貧民街である事を忘れさせる。
魔術師として成就しなくとも、“新たな舞台”で生きる意義を見出したのか。はたまた“舞台裏”を自分の居場所と定めたのか。
どちらにしても平穏な住人たちの生活を眺めていたものの、一方で彼らもまた冒険者たちを観察していた。
視線を逸らさない者もいれば、姿を消してしまう者。慌てて視線を外す住人まで反応は様々だが、彼らの反応もミドルバザードでもはや慣れている。
気にせず移動を続けるも、ふいにオルドレッドが咳払いすると彼女の背後へ付いた。
奥へ進む程に視線も敵対的な物へ代わり、強面の男たちの姿が視界の端に浮かぶ。一帯の建物も寂れ始め、貧民街ゆえの治安の悪さが露わになっていく。
肌も次第にヒリつき、今にも武器を引き抜く気迫が漂っていた時。建物を曲がった少し先で、路地から1人の男が冒険者たちの前に飛び出した。
勝ち誇った表情から、2人を脅威とすら見なしていないのだろう。程なく背後に回り込んだ“お友達”の存在が、彼の自尊心をさらに高める。
「…よぅよぅよぅ。こっから先は通行料を払わないと通れないぜぇ」
「いくらかしら」
「そうだな……身包み全部でどうだ?命に比べたら安いもんだろ?」
「悪いけど仕事でこっちに来てるの。何ならジュゼッテ様の書状でも見せましょうか?」
「おぃおぃおぃ。ココに学長様はいないんだぜ?これまでも、これからも、ずーっとな。それに候補の女の命令なんざ聞く価値もねぇよぉ」
背後からは笑い声が洩れ、建物からも微かに聞こえてくる。数も徐々に増えていき、足音もそこら中で反響していた。
視線を改めて男に戻すが、すでに戦利品の吟味を始めたらしく。彼の頭の中はお花畑で一杯なのだろう。
妄想は彼の腕を動かし、ゆっくりオルドレッドへ伸ばされる。当然とばかりに指先は胸に向けられ、足も夢遊病者の如く覚束ない。
だが素早くアデランテが迫れば、男の顔面を一撃で粉砕した。すぐに振り返るが、背後の2人はオルドレッドが手際よく仕留め、足を切り裂いた男たちに鋭い蹴りを放つ。
おかげで静寂は一瞬取り戻されたが、直後に町の一画で上がった咆哮が一帯を震わした。
窓から顔を出した男たちは弓やボーガンを構え、咄嗟に建物へと逃げ込めば壁に次々矢が刺さっていく。
「……せめて向こうが手を出すまで、待つべきだったんじゃないかしら?おかげで随分と熱烈な歓迎を受けてるわよ」
「悪人の流儀に従ったまでだ。それとも身体を触られても良かったのか?」
「あら、私の純潔でも心配してくれたのかしら」
(…じゅんけつ、って何だ?)
【貞操観念において未経験の女を指す】
「オルドレッドは処女だったのか?ぐぉアッ!?」
言い終えるや否や、振り向き様に拳を顔面へ叩き込まれた。容赦のない一撃に仰け反り、顔を擦りながら起き上がった直後。
文句の1つを零す前に、薄っすら涙を溜めたオルドレッドに息を呑んでしまう。
褐色の耳も真っ赤に染まり、しばし見つめ合っていたものの。口を開いた瞬間にオルドレッドが視線を逸らせば、逃げるように階上へ走り去ってしまった。
「……何か変なことでも言ったか?」
【いつまで現実逃避している】
「逃避って、現実に殴られたから困ってんだけど…なぁ、さっき変なこと言ったかな」
【優先順位を考えろ】
慌てふためくアデランテを尻目に、無機質な声が正論を告げる。追い打ちを掛けるように壁向こうでは矢が刺さるも、思考はいまだ濃霧の中だった。
出来る事なら彼女の下に向かいたいが、同時に泣き出しそうだった顔が浮かぶ。今駆け付けたところで、もう1発見舞われるだけだろう。
いまだヒリつく顔を撫でるも、やがて笑みを浮かべれば勢いよく立ち上がった。
話し合いの場を設けるには、まず“火消し”を行なわねばならない。大事の前の小事を片付けるべく、小さな溜息を吐いた刹那。
身体を抱きすくめ、その場に屈み込むと歯を食い縛って声を押し殺した。みるみる体積は縮み、やがて白猫の姿に変われば割れた壁の隙間を抜けていく。
ぐるっと回り込みながら道を渡るが、元いた建物を一瞥すれば壁は穴だらけ。地面にもゴミの如く矢が散らばっているが、撃ち込まれた窓にアデランテはいない。
しかし2階の窓から応戦するオルドレッドは、確かにソコにいる。彼女の矢は的確に敵を討っているが、1発撃つのに50本は返されていた。
まぐれで彼女に当たるとも限らず、急いで道を渡れば向かいの建物へ飛び込む。直後に嬌声を洩らしてしまうが、幸い怒号や戦闘音が全てを覆い隠した。
その隙に疼きを落ち着かせれば、気を取り直してソッと剣を引き抜いた。