016.空這い地舞う
森はどこまでも緑が続き、どこまでも先が見えず、どこまでも同じ景色が広がっている。
街道などあるはずもない。
人が歩いた痕跡もなければ、茂みを強引に突き抜けた獣道だけが点々と見受けられる。
1歩進むのも億劫になる空間も、1羽のフクロウは我関せず。
風切り音も出さずに、スイスイと木々の隙間を縫っていく。
枝に着地する際には優雅に羽根を畳むが、しばし居住まいを忙しなく正したかと思えば、再び翼を広げて宙を舞った。
しかしその飛び方には先程までと比べ、まるで美しさがない。
体は左右に激しく揺れ、足が常に上を向いているせいで、時折ぐるっと一回転してしまう。
むしろ落下せずに飛んでいた事が奇跡に近かった。
「うぉぉおおッッ!?……あ、危なッ…」
嘴を開けば言葉まで囀り、予測着地点を遥かに越えてさらに前進。
その次に見えた別の木に、慌てて翼でしがみつく。
鋭いかぎ爪を必死に蹴りながら反転し、ようやく枝の上に鳥らしく佇んだかに見えたが、すぐに人の如くペタリと座り込む。
気怠そうに羽根を眺め、深い溜息を吐く姿は、仕事帰りの父親にすら見えたろう。
「…飛ぶのって案外むずかしいんだな。腕をパタパタ動かせば自由に羽ばたけると思ってたのに…夢が壊れた気分だ」
【水平飛行を幾度も推奨した。足を頭上に掲げて飛ぶ鳥はいない】
「無茶言うなよ。足も着かないのにどうやって安心して飛べって言うんだっ」
【足場の有無を懸念するならば、始めから地を這っていろ】
「せっかく羽根があるのに、それはそれで勿体ないじゃんか。休憩したらもっかい行くぞ」
一息吐けば重い腰を持ち上げ、フクロウらしく体を膨らませてからすぐ萎ませる。
尾を振りながら翼を広げ、今か今かと飛ぶ素振りを見せたのも一瞬だけ。
羽根を畳み、また一介の鳥らしく枝に縮こまるや、溜息を吐くように肩を落とした。
【…いつまで機嫌を損ねている】
モヤに脳裏を揺さぶられ、ピクリと反応する。
返事はせず、明後日の方向に顔を傾けて無視を決め込もうとするが、沈黙はアデランテの得意分野ではない。
固い嘴は数秒ともたずに開かれた。
「…ただ疲れてるだけだよ。洞窟を出たあとは山賊の首領から手に入れた情報で衛兵のところまで行ってさ。それから何とかって奴の家に指輪を置いて、すぐにまた山へとんぼ返りだぞ?疲れない方がどうかしてるだろ」
【8日前の疲労を引きずるほど軟弱でもあるまい】
「……さっきから何が言いたいんだよ」
【視点は不安定。集中力の欠如。思考も上の空。貴様が“気分転換”と称し、鳥の現身を代わってから何度木に衝突したと思っている。その内1度は崖に落ちた】
普段通りの無機質な声音のはずが、尋問されている気がして思わず息を呑む。
口笛でも吹いて誤魔化したいのに、いまだフクロウの鳴き声すら満足に出せていない。
いっそ黙って飛び立とうと思うも、ウーフニールから逃れる事は出来ないだろう。
観念したように溜息を吐けば、少しばかりフクロウの音色が漏れる。
そんな僅かな成功も、今は喜んでいられる余裕などなかった。
「…前にウーフニールから何度も質問されたろ。“それがなきゃどうなる”って…お前と会う前はさ。誰とだって喧嘩したし、酒場じゃ傭兵団の隊長なんかと殴り合って勝ち越したこともあったんだ」
【何が言いたい】
「お前も見てたろ?負けたんだよ私はッ!……騎士団で死ぬほど訓練して、戦場にも出て。だってのに剣技が通用しなかったんだ…品格がないだ、女らしくないだって散々罵られてきたけど、ソレだけは胸を張って言えたことなんだよッ…なんでカミサマなんかと取引したんだろうなぁ…私は」
森のさざめきに混じってアデランテの慟哭が響き渡り、胸の羽毛が一瞬膨らむと徐々に萎んでいく。
翼も折り畳まれ、地面に向ける憂鬱な眼差しは野鳥のものではない。
想いは心の奥底まで沈み続け、再び人間のように枝へ座ろうとした刹那。
【くだらん】
気遣いが微塵も無い物言いにカッとなるも、言い返す間もなく体の芯が疼く。
咄嗟に羽根で自らを抱きすくめるが、体は沸騰するように熱い。
フラつくと力なく落下し、地面がどんどん眼前に迫ってくると、瞳をギュッと閉じた。
「――ッッ痛っててて……あれッ?」
鈍痛に苛まされ、頭を擦ってみれば触れていたのは羽根ではなく腕。
根本の茂みに落下した体を起こすと、馴染み深い裸体が映り込んだ。
ようやく変身が解かれた事に気付き、文句を言おうとしたがココは緑豊かな大自然。
茂みの上を裸で寝転がる自分が酷く滑稽に思えて、振り上げた腕で顔を覆う。
腹を頻りに震わせ、ふいにクスクスと笑い出した。
それも徐々に獣が逃げ出すほどの大声に変わるや、肺に残る最後の空気で一息吐き、腹を摩りながらチラッと体を見下ろした。
寝そべったままでは、胸に遮られて見えない。
少し上体を起こせば薄っすら割れた腹筋に、戦でもらった数々の古傷が残っている。
だが深々と刺さったナイフの痕は、何処にも見当たらなかった。
指で撫でても筋肉の張りが伝わるだけで、痛みの尾ひれもない。
まるで最初から闘いなど無かったように感じるが、あながち間違いでもないだろう。
アデランテが持つ剣が本物なら、血の海に倒れていたのは山賊の首領であったはず。
投げつけたナイフも、身に着けた鎖帷子が本物であれば腹を貫かれる事もなかった。
振るう剣も偽物。
まとう防具も偽物。
受けた傷も、毒も、この体や命さえも。
【――…げん…にんげん……アデランテ・シャルゼノートッ】
ぼんやり漂う意識の中、唐突に呼ばれた真名に思わず飛び起きれば、ふいにバランスが崩れた。
茂みへ尻から先に沈み、今度こそ地面に体を打ち付ければ、次に背中を。
続けて頭もぶつけ、最後に足が力なく地面につくと、葉っぱがフワリと髪を着飾る。
「……いま、私のこと……なんて…」
【この期に及んで勝ち負けに拘るなどくだらんと言った。呆けている暇など無い。直ちに移動しろ】
「いや、そっちじゃなくて私の名前……それより勝ち負け云々ってどういうことだ?」
ポカンとするアデランテに構わず続く無機質な声に、不貞腐れながらも立ち上がる。
頭を振り乱すと葉が四方に散乱し、ボサボサになった髪を面倒くさそうに掻いた。
こういった事があるから切ってしまいたいと、何度団員に訴えたろうか。
思い出と相まって心底うんざりするも、独りでに捻られた毛先に思わず手を離した。
髪は触れずともクルクル編まれ、やがて三つ編みとなって肩にしな垂れる。
【洞窟内における目標物の回収。目撃者の始末。誰にも悟られず、全ての要件を満たす事がウーフニールの提示した戦闘条件であり、貴様はそれらを問題なく果たした。ほかに何の問題がある】
「…そこまでがっつり話を詰めた覚えはないんだけどな」
【生死の瀬戸際にある者ならば“生”にあらゆる手段を以て縋る事は必然だ。貴様はウーフニールの一部であり、体も貸し与えられている身。人間の規範で勝敗を考える理由はない】
反論の余地も与えず、猛然と捲くし立てたかと思えば突如静寂が訪れる。
ウーフニールも押し黙り、それ以上話しかけてくる事はなかった。
フクロウ。
アデランテの肉体。
ウーフニールの声。
心身共に目まぐるしく切り替わる現実に、思考がうまく追いつかない。
しばし呆然と立ち尽くすも、気まずそうに頬を掻く内に、ふと指先が古傷に触れる。
途端に記憶が。
落石に遭った最期の光景が、とめどなく心の奥から溢れ出す。
自身はアデランテ・シャルゼノート。
ウーフニールがその名を呼んでくれたように、今も大地を確かに踏みしめている。
目を閉じれば風を全身で感じ、木々のさざめきも耳に届く。
自身はアデランテ・シャルゼノート。
“変幻自在のウーフニール”の一部であり、彼が変身できる姿の1つ。
人間と怪物の垣根がない存在に、いまさら卑怯だ勝負だとのたまう方が女々しい。
「……わかったよ」
笑みを零し、体をウーンっと伸ばして一息つくと、裸にも構わず森の中を歩きだす。
人の気配もない今、わざわざ装備を生やし直す方がもどかしい。
足の裏で感じる地面の感触や、髪と体を撫でる微風も心地良く感じる。
普段から仮初の装備に身を包んでいるだけのはずだが、感じ方はまるで違う。
このまま走り出してしまいたい衝動に駆られるも、ふとよぎった理性がアデランテの歩幅を狭める。
地面を踏みしめる度に気力が吸い出され、徐々に足も重くなっていく。
「…あ、危うく変な性癖に目覚めるとこだった…」
【注目を浴びる真似だけは控えろ】
「ふぉおおわッッウーフニーィィルゥ!?」
ふいに返された声に、心臓から喉が飛び出そうになる。
死んでも他者に知られたくなかった事柄を見られ、そして聞かれていた。
ウーフニールならば仕方がない、とも割り切れない。
沸騰しそうな思考をグルグル回転させ、必死に濁せる言葉を模索してみるが、やっと見出せたのは“交渉上手の手引き”に記載された一文。
“話題を逸らす”だけだった。
「あ、ああああああの、あの魔物って私でも動かせたりするのかッ!?」
【…トロールの現身を貴様が動かす必要性は】
「…え~っと……気分、転換?もあるけど…ほら!私がその魔物に化けてみれば、今後そいつと戦う時にどう動けるのかとか、どう周りが見えてるんだとかさ。色々参考になるかもしれないだろ?」
声が上擦っているのは自分でも分かっている。
対してウーフニールは否定も肯定も、追及もしてこない。
代わりに全身を駆け巡る火照りと、蕩けるような感覚が激しく打ち寄せてきた。
途端に提案したことを後悔するも、すでに甘美な衝動が、下腹部から脳髄まで余すことなく浸食していく。
「アッ…やっぱ待ぅ……アぅッ、あんッ!!」
体と意識が同時に溶けていくのが分かる。
視界はゆがみ、徐々に色彩が変化すると景色はすべて赤く染まっていった。
【終わった】
波も熱も覚め、無機質な声が冷気のように浴びせられる。
零しかけた恨み言を堪え、荒い息を吐きながら立ち上がるが足はもつれてしまう。
咄嗟に腕を突き出して体を支えるも、バキッ――と。
派手な音が鳴ったかと思えば、伸ばされた腕は地面へ吸い寄せられる。
受け身を取る余裕もなく、勢いのまま顔から地面に倒れ込んでしまった。
だが痛みは全くない。
分厚い布団に阻まれた感触を不思議に思いながら、もう1度立ち上がってみる。
見下ろせばアデランテの体は消え、代わりに凶悪な姿が露わになった。
「…お、おおぉぉーーーーッッ毛深っ!それに全身がギッキギチに硬くて、コレぜんぶ筋肉か?周りの景色もぜんぶ赤ァぁ!?」
【うるさいぞ】
ウーフニールの声は届かず、黒くとがった爪先を何度も開閉しながら全身を叩く。
しまいには力強く殴ってみるが、硬い毛と筋肉に阻まれて軽い衝撃を感じるだけ。
生半可なダメージでは決して倒せない魔物の防御力にゾッとする一方、自身が“変幻自在のウーフニール”になれた実感に興奮は止まない。
気付けば茂みも何もかも突き抜けながら、森の中を疾走していた。
慣れない体で思っている程の速度も出なければ、真っすぐ突き進む事も出来ない。
木々にぶつかりながらの鈍行ではあったが、当人が気にしていないのは一目瞭然。
いままでにない体感を貪るべく、己の直感に従って前進を続けていた時だった。
急速に歩みを緩めると、途端に辺りを見回した。
果実でも嗅ぐように顔の向きを頻繁に変え、やがて一方向に視線を固定すると、木をかき分けるように再び走り出す。
荒々しい音を立てながらアデランテの注意を惹いた“何か”に近付いた直後。
「…うぉあッ!?」
つま先にガツンと当たった小石は、子供ならば全身を使って乗り越えねばならない大きさ。
その事実に気付く事なく、転びそうになった寸前で大木に手を突く。
折れないまでも一帯に重い軋み音が鳴り響き、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
視線の先に映った2人の子供に硬直し、彼らもまた恐怖で顔を引き攣らせている。
その場からピクリとも動けず、顔色はみるみる青白くなっていく。
傍らの篭には様々な植物や果実が積まれ、ピクニック気分で採取に来ていたのだろう。
平和な時間を謳歌していたはずが、彼らの無垢な瞳に映るアデランテの虚影に。
身の丈を優に超す息遣いの荒いトロールに、もはや話し合う余地はない。
子供の悲鳴が一帯に響き渡った。
辺りに潜伏していた鳥は逃げ出し、子供たちも遅れてそれらの後を追っていく。
「…まずい」
【何をしている。早く追え】
「出来るかそんなこと!!って言うかその反応。私がアイツらの声に気付いた時、ぜッッたい子供がいるって分かってたろ?だったら忠告の1つくらい事前にしてくれよ!この姿を見られたらまずいって感覚くらい持ち合わせてるだろ!?」
【貴様が魔物の現身のまま進むがゆえに、喰らうつもりでいたものと認識していた】
「姿は変わっても人の心まで無くす気はないっての!」
弁明すべく咄嗟に子供たちを追いそうになったが、半狂乱に逃げる彼らの後ろ姿を見届けながら、次の一手を考える。
しかし何も思い浮かばない。
山賊がトロールを捕らえるような時代だ。
直後に人間の姿に戻って再会したところで、怪しまれるのがオチだろう。
「このままじゃ親を呼ばれるかもしれないな……それにしても子供2人でこんな山奥の中、一体何をしてたんだ?それにカゴまで置いてっちまって…まぁ私のせいなんだけどさ」
目的は分からずともカゴがある以上、戻ってくる可能性は十分にある。
それまでにどうすべきか検討する事は山程あったが、ウーフニールの〝捕食案”が話し合われる事は1度もなかった。